第34話 ずれたピッチ
* * *
翌日。
異変に気づいたのは、トウゴだった。
いつもと変わらない夕暮れ時。
西日の差し込む研究棟の一室で、三人はそれぞれの時間を過ごしていた。
ジョウは床に膝を抱えて座り、何事かを深く考え込んでいる。
トウゴは窓際に佇み、古びた資料に目を落としていた。
そして、外出から戻ってきたばかりのヨシは――
剥き出しのコンクリート壁に背を預け、手にした缶コーヒーを口に運んでいた。
どこにでもある、いつものB-ブロードの日常。
だが、違った。決定的に、何かが狂っていた。
トウゴは資料から視線を上げ、鋭くヨシを凝視した。
缶を握るヨシの指先が、目視できるレベルで微かに――震えている。
「よっさん」
不審に思ったトウゴが呼びかけると、ヨシは顔を上げてふっと笑った。
いつもの笑い方だ。
仮面を貼り付けたように、口角だけを器用に吊り上げる、あの歪な笑み。
「なに、ごーさん」
声が、違った。
ほんの僅か。だがトレブル(高音域)の使い手として致命的なほどに、
声のピッチが不自然にずれている。
その声帯の響きは、薄氷を踏むように不安定さを孕んでいた。
「昨日、どこにいた」
「......ちょっと、野暮用があって出かけてただけさ」
「どこへだ」
「ただの散歩だよ~」
嘘だ。トウゴの直感が即座に断定した。
ヨシが致命的な嘘を吐くとき、視線が一瞬だけ左下へと流れる。
五年近く行動を共にしてきたからこそ知る、隠しきれない身体の癖。
床にいたジョウが、弾かれたように顔を上げた。
「よっさん、顔色が異様に悪いよ。本当に大丈夫?」
「そう? 至って普通だけどねぇ」
「普通じゃない。なんか――」
ジョウが深刻な表情でヨシの元へと立ち上がろうとした、その刹那。
ヨシの手からカランと力なく缶が落ち、
黒い液体が床一面に広がっていく。だが、ヨシはそれに目もくれなかった。
彼の「目」が変わっていた。笑っていない。
それどころか、感情を完全に排したいつもの冷徹な戦闘の顔でもない。
何も、なかった。瞳の焦点が、ふっと消えた。深淵のような虚無がそこにある。
「よっさん......っ!?」
トウゴが地を蹴り、立ち上がった。
次の瞬間、視界を焼き尽くすような銀白の狂光が、爆発的に奔った。
*
凄まじい衝撃がトウゴの背中を襲い、
近くのコンクリートの壁をも激しく粉砕した。
肺の空気を強制的に絞り出され、視界がチカチカと明滅する。
――見えなかった。初速から一瞬で間合いを詰められ、
肉体が物理的衝撃を認識した時には、すでに壁へと叩きつけられていた。
防御陣形の展開が間に合わない。
操り人形と化したヨシのトレブルの鍵が
超高速の刺突となってトウゴの喉元へと肉薄する。
鋭利に研ぎ澄まされた、細身の銀白の光条。
その致命的な切っ先が首筋の皮膚を割る寸前、
トウゴは辛うじて物質化させたバスの鍵を横一線に滑り込ませた。
金属同士が超高回転で摩擦するような、鼓膜を裂く狂音が炸裂し
白い閃光が空間を白く染める。
群青の重厚な光と、銀白の鋭利な閃光が互いの命を削り合うように
激しく震えていた。
「......よっ、さ......ん......っ!」
喉の奥から血の混じった声を絞り出すが、ヨシは微塵も応じない。
顔面の筋肉が凍りついたような、恐るべき無表情。
その瞳はトウゴという存在をすり抜けて、
その遥か奥にある「何者かの命令」だけを実行しているように見えた。
「よっさん!」
ジョウが割って入ろうと、鋭い踏み込みの気配をさせる。
それをトウゴが怒号で制した。
「離れろ......! 来るな、ジョウ!」
直後、ヨシの手首が超人的な角度で硬質に返った。
トレブルの鍵が軌道を滑らせ、トウゴの防壁をすり抜けて
その首筋に鋭い一線を刻みつける。
痛みを自覚するより早く、熱線が、皮膚の内側を焼くように駆け抜けた。
じわりと溢れ出し、シャツを赤く染めていく鮮血。
それを見たジョウが息を呑む。
「ごーさん――っ!」
ジョウの足がさらに一歩前へ出た瞬間、
ヨシの焦点のない視線が、獲物を定めた獣のようにジョウへと跳ね上がった。
不味い。本能の警鐘が脳内で狂ったように鳴り響く。
トウゴは思考を完全に遮断し、肉体のリミッターを解除した。
(よっさん、悪い......っ!)
覚悟とともに、全体重を乗せた前蹴りでヨシの腹部を容赦なく蹴り抜く。
弾丸のように体勢の崩れたヨシを引き剥がすようにして、
トウゴは流血を撒き散らしながら二人の間に強引に割り込んだ。
「来るなと言っている!」
トウゴが放った決死の咆哮に、ヨシの身体がピタリと止まった。
ほんの一瞬、わずか一コンマの静止。
だがその一瞬、ヨシの無機質な「人形の顔」が、激しく歪んだ。
完璧な筈の呪縛な仮面が崩れ落ちる。
眉根が悲痛に寄せられ、口元がガタガタと震え
焦点のなかった瞳の奥に――剥き出しの人間性が一瞬だけ引き戻された。
「......ごーさん、ジョウ......」
掠れた声が、その喉から漏れ出た。
ヨシの、本物の声。
恐怖に震え、涙を堪えるような
いつも飄々としている彼の精神の最深部に隠された、本当の声。
「逃げ......て......っ!」
懇願するように叫んだ直後、再びヨシの表情がスッと消え去り
冷酷な人形へと巻き戻った。