第18話 ひとり残らず
* * *
拠点の外にある、薄暗く細い路地。
ジョウはコンクリートの壁に背を預け、地面に直接座り込んでいた。
立てた膝の間に両腕を置き、自身の左の手の甲をじっと見つめる。
さっきまであれほど激しく明滅していた鍵の残滓は、もう影も形もない。
ただの、無骨な若者の手がそこにあるだけで。
不意に、近づく静かな足跡の方向を見上げると、ヨシがそこに立って居た。
トウゴは「本部に報告を上げてくる」と言い残し、先に拠点の奥へ入っていったが
ヨシはそうしなかった。
中へ入らないまま、ジョウの少し隣の壁へずるずると背を滑らせ
同じように地面へ腰を下ろした。
「まだ、ここにいたんだ?」
「うん」
しばらくの間、二人の間に言葉はなかった。
見上げる空は、地平線の際からじんわりと白み始めている。
最悪なあの夜が、ようやく終わりを告げようとしていた。
「よっさん」
「なぁに~?」
返ってきたのは、いつもの気の抜けたような少し語尾の伸びる声。
「ワシ......あの人の声、ちゃんと覚えていたいんだ」
ヨシは何も答えなかった。
ジョウは手の甲から目を離し、まだ星の残る西の空を仰いだ。
「だからさ『覚えていろ』って、ごーさんが言った意味はよく分かったんだよ。でも......」
ジョウはそこで言葉を区切り、隣に座るヨシの横顔を盗み見た。
「よっさんは......今まで間に合わなかった人のこと、
他にもたくさん、覚えているんじゃないかって思ってさ」
路地裏を、重い静寂が満たしていく。
ヨシは膝の上に両腕を乗せていた。
「......いるよ。でも、数えたことはないかな」
ジョウは黙って、次の言葉を待った。
「数えたらさ――」
ヨシが続けた。その声は、いつもと少しだけ違っていた。
いつもの飄々とした、どこか他人事のような軽薄な音程ではない。
もっと胸の深い、暗い底から響いているような声が零れた。
「数えちゃったら、
その人たちが本当に全員、この世界からいなくなったんだって、
ちゃんと実感しちゃうから。......だから、数えてないんだ」
ジョウは、ヨシの顔を正面から見つめる。ヨシは真っ直ぐに空を見ていた。
いつもなら頼りなく、けれど優しく微笑んでいるはずのその口元が
今はただ、硬く一文字に結ばれている。初めて見る顔だった。
いつもの飄々とした仮面でもなく、戦闘中のあの苛烈で冷徹な顔でもなく
かといって過度に重苦しい表情でもない。
もっとずっと小さくて、脆い――
ただの、傷つき疲弊した一人の人間の顔がそこにあった。
ジョウは喉の奥に小さく息を吸い込み、ヨシの静寂に言葉を添えた。
「ワシが覚えていることに、意味あるかどうかは知らないけど 意味なんて、何もないかもしれないけど」
「......」
「歌夜さんのこと、ワシ、覚えてるよ。絶対に忘れない。ちゃんと、覚えてる」
ヨシは応えなかった。
応えなかったが――空を見つめていた彼の長い睫毛が一瞬だけ
切なげに伏せられた。けれど、ジョウの目にはそれがはっきりと見えた。
ヨシが再び目を開け、空を見た。そして、もう一度だけ目を閉じる。
彼の口元が、微かに何かを紡ごうと動いたが――結局、それ以上は動かなかった。
笑えなかったのだ。いつもなら、絶対に笑う場面な筈なのに。
「そうだね」といつもの調子で言って、優しく口角を上げる。
そんな風にして痛みを器用に誤魔化し、いつもの彼のやり方に終わるつもりが、
けれど今夜は――その偽物の笑みすら、どうしても作ることができなかった。
ジョウはそれ以上、何も言わなかった。
二人は並んで、ただ静かに空を見上げ続けた。
夜が終わり、決定的な朝が来ようとしている。
どこか遠くの街路樹で、朝を告げる鳥の声が小さく鳴き始めていた。
長い沈黙のあと、ヨシがゆっくりと息を吐き出した。
「......ジョウ」
「うん」
「俺も、覚えてるよ。全員」
「うん」
「数えてはいないけどさ――ひとり残らず、全部覚えてる」
ジョウは静かに頷いた。これ以上、かけるべき言葉は見つからなかった。
ヨシは両手で包み込むようにして、空き缶をじわりと握りしめた。
けれど、金属が軋むような音すら立てなかった。
ただ、それだけの力しか残っていなかった。
朝の光が、細い路地の奥から容赦なく差し込んできた。
新しく生まれた光に照らされ、壁には二人の影が寄り添うように並んで伸びていく。
その光の中でも、ヨシはまだ、笑っていなかった。