第44話 喉の奥で鳴るもの
* * *
あれから数日、喫茶店「ミチクサ」に、解良は姿を見せなかった。
「また来ないねー、爽やかイケメン」
暇な時間帯、カウンターを拭きながら空がぼやいた。
「......別に、待ってないけど」
「誰も、待ってるなんて言ってないけど?」
「うるさい」
窓際の四人掛けでは、三人のマダムがいつものお茶を囲んでいた。
「あのお兄さん、また姿が見えなくなったわねぇ」
「ちょっと前に来てたのにねぇ」
「「「ねぇ〜」」」
高く、中ほどで、低く。三つの声が、湯気の向こうでふっと重なった。
ジョウは皿を拭く手を早めた。あの呼び名が、まだ耳に残っている。気のせいだったのかもしれない。そう思えるくらいには、日常が戻りつつあった。
「鍵城、皿より先に灰皿の交換頼むわ」
厨房から、片桐さんの声が飛んでくる。
「あ、はい!」
「今日は魚が安く入ったから、賄いは煮付けだぞー」
「マジですか、やった!」
「鍵城くんの反応、食い意地が分かりやすいよね」
「腹減ってんだよ」
そのとき、カランとドアベルが鳴った。
視線が向く。
喉は、鳴らなかった。警戒が薄れていたせいか、それとも。
仕立ての良いジャケット。柔らかい物腰。解良は、いつもの窓際のカウンター席へ迷いなく歩き、腰を下ろす前に、ふとジョウを見た。
「久しぶり、じょーくん」
手が、止まった。
解良は柔らかく笑ったまま、椅子に腰掛けた。
「相変わらず、ブレンドで」
「......はい」
厨房へ戻り、コーヒーを淹れる。手が、いつもよりずっと遅い。
片桐さんも空も、いつも通りホールを回っている。
この違和感に気づいているのは、自分だけだった。
カップを運ぶと、解良は窓の外を眺めていた。夕方の光が、その横顔を静かに照らしている。
「お待たせしました」
「ありがとう」
解良は一口飲んで、カップをソーサーに戻した。ジョウが立ち去ろうとした瞬間、静かに言った。
「――情報、欲しいかなって思ってね」
足が、止まった。
「......なんの話ですか」
平静を装ったつもりが、声が上ずった。解良は周囲をさりげなく一瞥する。片桐さんは厨房、空は反対側のテーブルの接客中。誰もこちらを気にしていない。
「クラヴィスの情報さ」
ひどく小さな声だった。しかし、はっきりと耳に届いた。
「逃げられたんだろう? 彼に」
喉の奥が、ひやりと締まった。この男は、どこまで知っているのだろう。
「情報、速すぎません?」
「それほどでもないよ。ただ――」
解良はカップを両手で包むように持ち直した。
「信憑性には、自信があってね」
「なんで、ワシに」
「君が一番、欲しがってるだろうから。あの男についての情報」
図星だった。何も言えなかった。
解良はポケットから、小さく折りたたんだ紙片を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
「受け取っても受け取らなくても、僕はどっちでもいいんだ。ただ、知らないままでいるより、知っておいたほうがいいこともある」
ジョウは紙片を、じっと見つめた。
「......仲間に相談してからでもいいですか」
「もちろん。僕は急いでいないからね」
そのとき、厨房から声が飛んだ。
「鍵城〜、3番テーブルまだ?」
「あ、す、すみません、今行きます!」
反射的に振り返り、答えた。
視線を戻すと、テーブルの上にカップだけが残っていた。紙片は消えている。
「またね、じょーくん」
解良は軽くそう言って立ち上がり、レジにも寄らず、ドアベルを鳴らして外へ出ていった。
「あ、会計......!」
追いかけようとして、レジの下に、代金分の小銭がきっちり置かれているのに気づいた。解良の姿は、もう通りの向こうに消えている。
エプロンのポケットが、わずかに重かった。手を入れると、折りたたまれた紙片が、指先に触れた。
「あらぁ、お兄さん、お代だけ置いて行っちゃったわよ」
窓際から、おっとりした声がした。
「律儀ねぇ」
「ちゃんとした人なのよ、きっと」
「「「素敵ね~♪」」」
三つのマダムの声が、また重なった。
ジョウはその声に背を向け、ポケットの中の紙片を握りしめた。
「鍵城くん、また何か意味深なこと言われてたの?」
空が、不思議そうに顔を覗き込んできた。
「え、あ......いや、なんでもない」
「なんでもなくはないでしょ、その顔」
誤魔化すのが苦手なジョウの動揺は、あっさり見透かされていた。それでも、空はそれ以上は追及しなかった。
「まあいいや。3番、早く行ってあげて」
「あ、はい!」
ジョウは紙片をポケットの奥に押し込み、接客に戻った。けれど、その存在感だけが、ずっと胸の内側で重く疼いていた。
*
その日の閉店後。ジョウは裏口から出るなり、スマホを取り出した。指が震えていたが、迷いはなかった。
グループ「B-ブロード」に、短く打つ。
『情報屋みたいな男から、クラヴィスの情報もらった。今から拠点行く』
既読は、すぐについた。返信は、いつもより早かった。
『すぐ来い』
トウゴだった。
ジョウは、ポケットの中の紙片を握りしめたまま、夜道を駆け出した。中身は、まだ確かめていない。それでも、ただならぬ予感だけが、喉の奥で小さく鳴っていた。