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第36話 音のある静寂

*

それからしばらく、誰も喋らなかった。
ヨシはトウゴに支えられたまま、壁に背を預けて床に座り込んでいた。
ジョウはその隣に寄り添い、傷だらけの掌を、パーカーの袖を引っ張って押さえている。
トウゴは二人の前にしゃがみ、両腕を膝に乗せたまま、床の一点を見つめていた。
部屋には、静寂があった。綴つづりの「音が奪われた虚無」とは違う。三人の呼吸の音が、ちゃんとある静寂。

「......その、手」

ヨシが掠れた声で、ジョウの袖に隠れた手を見た。

「ああ、これ? 大丈夫、大丈夫。ちょっと浅く切れただけだからさ」
「大丈夫なわけないよ。『だけ』なんて言わないでよ」

ヨシの声が、いつもより低かった。取り繕うような軽さは、そこにはなかった。
トウゴが無言で立ち上がり、部屋の隅の棚から古びた救急箱を引っ張り出して、ジョウの前に置いた。

「......自分で巻け」
「あ、ありがと、ごーさん」
「礼はいらん」

ジョウは包帯を取り出したが、片手が血で滑って、うまく巻けない。見かねたトウゴが、舌打ちをした。 そして再びしゃがみ込み、ジョウの手首を掴んだ。荒っぽいのに、痛みは与えない力加減だった。無言のまま、手際よく巻いていく。

「......ごーさんって、実は結構やさし――」
「喋るな。軸がずれる」
「はい......」

ジョウは素直に口を閉じた。 ヨシが、その様子を見ていた。口角が、ほんの少しだけ上がる。

「ごーさん、首、まだ血が出てるよ」
「知っている」
「拭かないの?」
「後でいい」
「後ではよくないよ」

ヨシが、トウゴの首筋へ手を伸ばした。トウゴの身体が一瞬だけ強張ったが、
その手を拒まなかった。ヨシは救急箱から取ったガーゼを、傷口にそっと押し当てた。
ジョウは包帯を巻かれながら、二人を見比べた。いつもなら即座に拒むはずのトウゴが、ヨシの手を受け入れている。それが、妙に新鮮だった。

「......ジョウ、怖かった?」

処置をしながら、ヨシがぽつりと訊いた。ジョウは少し天井を見上げ、少し考えてから答えた。

「怖いっていうより......よっさんが中で必死に抗ってるのが、手を通して伝わってきたから。一秒でも早く、戻ってきてほしいって、それだけ思ってた」

ヨシは、答えなかった。ガーゼを押さえていた手が、静かに離れる。出血は止まっていた。

「......綴つづりだな」
ジョウの包帯を結び終えたトウゴが、低く言った。
「分かってるよ」
「昨日、お前が出かけた先で仕掛けられた。なぜ一人で行った」

責める口調ではなかった。
「ごめん、軽率だったね。気づいたら、近くにいた。音が、しなかったから」
「連絡は」
「......声が、出なかったんだ」
トウゴはジョウの手を離し、まっすぐヨシを見た。
「お前が一人で抱え込むのは、今に始まったことではない。だがよっさん、今回は違う。お前の身体がジョウを襲い、お前の刃が俺の首を裂いた。一人の問題にするな」
「......ごーさん」
「謝罪はいらん。次からは、どんな些細な異変でも、俺たちに言え」

ヨシの瞳が、滲んだ。涙は流さなかった。
「......うん」
ジョウは、きれいに巻かれた自分の掌を見つめ、それから二人を見上げた。
「ワシも」
二人が、同時に顔を上げる。
「次からは、どんなことでもワシに言ってよ。封印が半分残ってて、戦力にならないかもしれないけど......それでも、三人でいたほうが、絶対にいいと思うんだ」
そう言って、ジョウはへへっと笑った。

「根拠はないけどね」
ヨシが、声を上げて笑った。口角だけの笑みではない。目も、眉も、笑っていた。
「根拠はないの~?」
「ないけど、ワシの直感がそう言ってる」
「やっぱり君は、典型的なB型だねぇ。考える前に身体が動いて、自分が正しいと思ったらどこまでも突っ走る」
「それ言うなら、ごーさんもよっさんも同じじゃんか」
トウゴが、膝の埃を払うように立ち上がった。
「こいつと一緒にするな」
「同じだってば。二人とも、さっきワシがピンチのとき、考えるより先に動いてたし」

トウゴは答えなかった。ただ、その口元が、照れ隠しのようにほんのわずか動いたのを、ジョウは見逃さなかった。

「......腹が減った」
あまりに唐突で、ジョウは目を丸くした。
「えっ、今それ言う!?」
「文句があるか」
「ないけどさ......」
「なら行くぞ」
「どこに」
「飯屋に決まっている」

トウゴは、振り返りもせず出口へ歩き出した。
ジョウがヨシと顔を見合わせると、ヨシは肩をすくめて立ち上がった。
足元が、まだ少しふらついている。
ジョウは何も言わず、その左側に寄り添って歩調を合わせた。
いつでも支えられるように。 ヨシはジョウの歩調に気づいたのか、小さく笑った。

「ジョウ」
「ん?」
「さっきは、ありがとう」
「何が?」
「名前を、何度も呼んでくれたこと。あの闇の底まで、ちゃんと聞こえていたから」

ジョウは少し誇らしそうに笑って、前を向いた。

「そっか。それでよっさんが戻ってこられたなら、大正解だったね」
二人は、前を行く大きな背中を追いかけた。
「おい、早くしろ。置いていくぞ」
「待ってよ、ごーさん! 置いてくな!」
「待つ理由がない」
「ごーさん、意外と歩くの遅いから余裕で追いつくって!」
「......俺の足は遅くない」
「遅い遅い! ワシの半分くらいのスピードだよ!」
「お前の最高速度が異常なだけだ」

*

二人の口喧嘩が、前から聞こえていた。ヨシは、まだ少し重い足を運びながら、その背中を追った。

(ありがとう、二人とも......)

声には出さなかった。出したら、涙が止まらなくなる気がした。

(他人を信じれば、いつか全部を失うことになる)

ずっと、そう思って生きてきた。その恐怖は、今も消えたわけではない。 けれど、あの闇の中で、名前を呼ばれた。ジョウが呼び続けた。トウゴが、「ヨシ」と、壁を取り払って呼んでくれた。

(それでも――)

少し前を、二人が歩いている。同じ歩調で、くだらない口喧嘩をしながら。
その背中が、今日は涙が出るほど、少しだけ眩しかった。
古びた研究棟を出ると、夕方の風が頬を撫でた。ひどく冷たかった。
けれど、三人の踏むアスファルトの上には、確かな『音』が響いていた。

* * *

ビルの縁に腰を下ろした少女の眼下を、三人の人影が歩いていく。

「あーあ......むかつくんだよね。あんな仲良しさん達、見てるとさー」

ヨシが隣の二人に笑いかけるのが見えた。少女の拳が、膝の上で白くなる。

「遊んじゃおっか。ねえ、カガリ。あんたも久しぶりに、あの子に会いたかったでしょ」

横目で笑いかけても、背後の男は答えなかった。冷え込む夕方なのに、その口元から白い息は上がっていなかった。
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第35話 呼び続けた名前
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法鍵士は夕暮れに鳴る作者:福天六(ふくたむ)
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第36話 音のある静寂

*

それからしばらく、誰も喋らなかった。
ヨシはトウゴに支えられたまま、壁に背を預けて床に座り込んでいた。
ジョウはその隣に寄り添い、傷だらけの掌を、パーカーの袖を引っ張って押さえている。
トウゴは二人の前にしゃがみ、両腕を膝に乗せたまま、床の一点を見つめていた。
部屋には、静寂があった。綴つづりの「音が奪われた虚無」とは違う。三人の呼吸の音が、ちゃんとある静寂。

「......その、手」

ヨシが掠れた声で、ジョウの袖に隠れた手を見た。

「ああ、これ? 大丈夫、大丈夫。ちょっと浅く切れただけだからさ」
「大丈夫なわけないよ。『だけ』なんて言わないでよ」

ヨシの声が、いつもより低かった。取り繕うような軽さは、そこにはなかった。
トウゴが無言で立ち上がり、部屋の隅の棚から古びた救急箱を引っ張り出して、ジョウの前に置いた。

「......自分で巻け」
「あ、ありがと、ごーさん」
「礼はいらん」

ジョウは包帯を取り出したが、片手が血で滑って、うまく巻けない。見かねたトウゴが、舌打ちをした。 そして再びしゃがみ込み、ジョウの手首を掴んだ。荒っぽいのに、痛みは与えない力加減だった。無言のまま、手際よく巻いていく。

「......ごーさんって、実は結構やさし――」
「喋るな。軸がずれる」
「はい......」

ジョウは素直に口を閉じた。 ヨシが、その様子を見ていた。口角が、ほんの少しだけ上がる。

「ごーさん、首、まだ血が出てるよ」
「知っている」
「拭かないの?」
「後でいい」
「後ではよくないよ」

ヨシが、トウゴの首筋へ手を伸ばした。トウゴの身体が一瞬だけ強張ったが、
その手を拒まなかった。ヨシは救急箱から取ったガーゼを、傷口にそっと押し当てた。
ジョウは包帯を巻かれながら、二人を見比べた。いつもなら即座に拒むはずのトウゴが、ヨシの手を受け入れている。それが、妙に新鮮だった。

「......ジョウ、怖かった?」

処置をしながら、ヨシがぽつりと訊いた。ジョウは少し天井を見上げ、少し考えてから答えた。

「怖いっていうより......よっさんが中で必死に抗ってるのが、手を通して伝わってきたから。一秒でも早く、戻ってきてほしいって、それだけ思ってた」

ヨシは、答えなかった。ガーゼを押さえていた手が、静かに離れる。出血は止まっていた。

「......綴つづりだな」
ジョウの包帯を結び終えたトウゴが、低く言った。
「分かってるよ」
「昨日、お前が出かけた先で仕掛けられた。なぜ一人で行った」

責める口調ではなかった。
「ごめん、軽率だったね。気づいたら、近くにいた。音が、しなかったから」
「連絡は」
「......声が、出なかったんだ」
トウゴはジョウの手を離し、まっすぐヨシを見た。
「お前が一人で抱え込むのは、今に始まったことではない。だがよっさん、今回は違う。お前の身体がジョウを襲い、お前の刃が俺の首を裂いた。一人の問題にするな」
「......ごーさん」
「謝罪はいらん。次からは、どんな些細な異変でも、俺たちに言え」

ヨシの瞳が、滲んだ。涙は流さなかった。
「......うん」
ジョウは、きれいに巻かれた自分の掌を見つめ、それから二人を見上げた。
「ワシも」
二人が、同時に顔を上げる。
「次からは、どんなことでもワシに言ってよ。封印が半分残ってて、戦力にならないかもしれないけど......それでも、三人でいたほうが、絶対にいいと思うんだ」
そう言って、ジョウはへへっと笑った。

「根拠はないけどね」
ヨシが、声を上げて笑った。口角だけの笑みではない。目も、眉も、笑っていた。
「根拠はないの~?」
「ないけど、ワシの直感がそう言ってる」
「やっぱり君は、典型的なB型だねぇ。考える前に身体が動いて、自分が正しいと思ったらどこまでも突っ走る」
「それ言うなら、ごーさんもよっさんも同じじゃんか」
トウゴが、膝の埃を払うように立ち上がった。
「こいつと一緒にするな」
「同じだってば。二人とも、さっきワシがピンチのとき、考えるより先に動いてたし」

トウゴは答えなかった。ただ、その口元が、照れ隠しのようにほんのわずか動いたのを、ジョウは見逃さなかった。

「......腹が減った」
あまりに唐突で、ジョウは目を丸くした。
「えっ、今それ言う!?」
「文句があるか」
「ないけどさ......」
「なら行くぞ」
「どこに」
「飯屋に決まっている」

トウゴは、振り返りもせず出口へ歩き出した。
ジョウがヨシと顔を見合わせると、ヨシは肩をすくめて立ち上がった。
足元が、まだ少しふらついている。
ジョウは何も言わず、その左側に寄り添って歩調を合わせた。
いつでも支えられるように。 ヨシはジョウの歩調に気づいたのか、小さく笑った。

「ジョウ」
「ん?」
「さっきは、ありがとう」
「何が?」
「名前を、何度も呼んでくれたこと。あの闇の底まで、ちゃんと聞こえていたから」

ジョウは少し誇らしそうに笑って、前を向いた。

「そっか。それでよっさんが戻ってこられたなら、大正解だったね」
二人は、前を行く大きな背中を追いかけた。
「おい、早くしろ。置いていくぞ」
「待ってよ、ごーさん! 置いてくな!」
「待つ理由がない」
「ごーさん、意外と歩くの遅いから余裕で追いつくって!」
「......俺の足は遅くない」
「遅い遅い! ワシの半分くらいのスピードだよ!」
「お前の最高速度が異常なだけだ」

*

二人の口喧嘩が、前から聞こえていた。ヨシは、まだ少し重い足を運びながら、その背中を追った。

(ありがとう、二人とも......)

声には出さなかった。出したら、涙が止まらなくなる気がした。

(他人を信じれば、いつか全部を失うことになる)

ずっと、そう思って生きてきた。その恐怖は、今も消えたわけではない。 けれど、あの闇の中で、名前を呼ばれた。ジョウが呼び続けた。トウゴが、「ヨシ」と、壁を取り払って呼んでくれた。

(それでも――)

少し前を、二人が歩いている。同じ歩調で、くだらない口喧嘩をしながら。
その背中が、今日は涙が出るほど、少しだけ眩しかった。
古びた研究棟を出ると、夕方の風が頬を撫でた。ひどく冷たかった。
けれど、三人の踏むアスファルトの上には、確かな『音』が響いていた。

* * *

ビルの縁に腰を下ろした少女の眼下を、三人の人影が歩いていく。

「あーあ......むかつくんだよね。あんな仲良しさん達、見てるとさー」

ヨシが隣の二人に笑いかけるのが見えた。少女の拳が、膝の上で白くなる。

「遊んじゃおっか。ねえ、カガリ。あんたも久しぶりに、あの子に会いたかったでしょ」

横目で笑いかけても、背後の男は答えなかった。冷え込む夕方なのに、その口元から白い息は上がっていなかった。
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法鍵士は夕暮れに鳴る作者:福天六(ふくたむ)
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