第1話 その名前を知った日
「君、動かないで――!」
悲鳴じみた叫びが鼓膜を突き刺した瞬間、白銀の光が空気を裂き、
ふと視界の端、壁際に血まみれの青年が崩れ落ちているのが見えた。
(声が届くなら――二人を助けたい!)
ジョウは強張らせていた喉から、ゆっくりと力を抜いた。
気づいたときには、すでに声が出ていた。
言葉になる前の、芯の響く声。それが何の言葉か分からなかった。
どこから湧き出たのかも知らなかった。
ただ、その喉から光が溢れ出し、形を成していく。
気がつけば、ジョウはその「鍵」を握りしめていて。
そして――
ジョウの口から、気付けばある言葉が零れ落ちていた。
――数時間前。
ボヤけた視界に色彩がハッキリ戻って来た。
鍵城ジョウが顔を上げた時には、
いつもの芸術大学の講義の景色に戻っていた。
五限の講義は、いつも眠かった。
理由は内容ではなく時間帯。
夕方の四時半から始まる講義の頃には
一日の疲れがすべて乗っかってくる顔になる。
ジョウは出席だけ取られて以降、ずっと窓の外を見てそのまま眠りこけてしまっていたらしい。
(ワシ......またあんな夢を見てたのか)
ジョウは小さく溜息をつくと、空が夕方の色に染まっていくのをぼんやり眺めていた。別に何か考えていた訳じゃない。
ふと、前の席の二人組が、小声で何か話していて
声を落とした断片が、ジョウの鼓膜を掠めてくる。
「......また出たらしいよ、『法鍵士』」
「今度はこの大学の近くって噂だよな?」
声を鍵に変え、得体の知らない何かと戦う者がいる――。
そんな噂を、ジョウは何度か耳にしたことがあった。
都市伝説、で片付けられる程度には。
ジョウは窓から目を離し、前の二人の背中を見た。
その時、ふっと――教室の空気が重くなった気がした。
誰かが咳をした。いつもなら気にも留めない音が、今日は針のように鼓膜を突いた。
誰かがノートを捲る音がした。教授の声も、変わらず単調に続いている。
――周りを見渡しても、誰も気づいている様子はない
ジョウだけが、息を止め視界だけ巡らせた。 一瞬遅れて、詰めていた息をゆっくり吐き出す。 なんだったんだろう、今の。 そう思う端から、その違和感自体が記憶の隅へ薄れていく。
――法鍵士。
その単語が、突然......頭の中で変な引っかかり方をした。
今まで都市伝説として耳にした事がある......そんな程度には。
なのに。
今......胸の奥で、何かが――鳴った。痛くはない。
ただ、ずっとそこにあったかのような
懐かしい振動がジョウの内側でザワッと蠢いた。
その衝動に引っ張られる様にジョウは自分のスマホを取り出した。
講義中だったが関係なかった。
検索欄に「法鍵士」と打ち込む。ジョウ自身、今までちゃんと調べた事は無かったが文字を入れるや直ぐ様ヒットした。
まとめサイト、考察ページ、目撃情報の数々。
スクロールする指が、ふと止まる。
『昨日の夜、○○駅の近くで変な声聞いた気がする』
――たったそれだけの投稿に、コメントが百件近くついていた。
中身はほとんど「消えてる...?」の一言と、鍵垢化された痕跡だけ。
説明できるはずもないのに、身体の方が先に反応していた。
まとめの下に、短い動画のリンクがあった。再生数はそう伸びていない。
なのに、コメント欄だけが妙に静かに感じた。
震える指で、もう一度スクロールする。見ているだけのジョウの指先が、勝手に冷たくなっていく。
(なんでワシの指、感覚が無くなってるんだ......?)
只、空間が歪んだ映像――のはずだった。
一瞬、画面の奥で何かが金色に光った気がした。
ノイズなのか、反射なのか、判別できないくらい一瞬で。
ジョウの指が何かに反応して動画を一時停止にした。
止まった瞬間、喉の奥がギュッと締まった。
知っている。
どこで、いつ、なんて説明できるはずもないのに、
骨か、皮膚か、あるいは声そのものが、覚えている。
喉が微かに鳴った。カラオケで声が割れる時の、あの感覚に似ていた。
だが今日は、少しだけ強かった。
ふと窓の外に視線を逃がせば
夕方の空気が肌にべたつくような重さを持って
オレンジから紫へと沈んでいくのを感じた。
法鍵士。声が鍵になる。
その言葉が頭の中でぐるぐると回るたび、
胸の奥でドクン、と何かが脈打った。
記憶よりももっと深いところで、何かが激しく反応していた。
抑えきれない衝動が喉を這い上がってきて、
ジョウは思わず自分の喉を手で押さえていた。
早く動かなくては、早ク動カナクテハ、ウゴカナクテハ......
そう気づいたときには、立ち上がっていた。
立ち上った瞬間に落ちた書籍が思ったより大きく響き教授が振り返る。
「あ......スミマセン具合が悪くて......帰り......ます」
大勢の視線が痛い。噓を溢した気まずさが胸を掠めたが、
それよりも確かめたいことがあった。
教授の返事も聞かないまま雑に鞄を抱え、足はすでに廊下へと飛び出していた。
廊下の空気は、教室よりいくらか冷たかったが一歩踏み出したところでジョウは立ち止まった。
自分が今、何をしようとしているのか――
一瞬だけ、頭の中が空白になる。
スマホを握る手のひらに汗が滲んでいた。それでも、足は止まらなかった。
スマホを握りしめたまま、ジョウは動画をもう一度再生しては目で追って居た。
画面の中の映像だけが、やけに鮮明に移った。
周りの景色は、輪郭がぼやけたまま後ろに流れていく。
階段の曲がり角に差し掛かったことにも、
ジョウは半分も気づいていなかった。
肩に、何か柔らかいものがぶつかった感触。
少し遅れて、それが人だと理解する。
手の中の重みがふっと消え、
スマホが宙を舞うのが、やけにゆっくりと見えた。
カツン、カツン、と乾いた音を立てながら
廊下のタイルを転がっていく。
ジョウのスマホは、相手の青年の足元近くでようやく止まった。
「はい、どうぞ」
黒いロングカーディガンを着こなした青年が
ジョウのスマホを拾い差し出してきた。柔らかい笑みで返してきた。
拾う瞬間、法鍵士のまとめ動画のサムネイルが
視界に入ったようだったが、青年は何も言わなかった。
「すみません......ありがとうございます」
ジョウは申し訳なさそうに受け取るや
その場を急ぎ足で立ち去った。
*
黒いロングカーディガンの青年――トウゴは、
ジョウの急ぐ足音が遠くなるまで背中を目で追っていた。
「あれが、鍵城ジョウ......か」
自分でも知らぬ間に口が後を追っていた。
術の中でも珍しいミッド(中音域)で鍵を持つ素質者。
まさか自分と同じ大学だとは思いもしなかった。
そしてジョウには――秘密が一つ。
するとポケットの中で着信通知が震えた。
画面の名前を見たトウゴは一息ついてから通話に出た。
「......わかった。今から行く」
声色が、低くビジネスライクなものに変わる。
通話を切り、窓の外を一瞥した。
空の色が変わりかけている。トウゴにはもう時間がなかった。
それでも踵を返す前に一度だけ、ジョウが消えた廊下の先を見た。
好奇心ではない。素質を持つ可能性がある人間が近くにいる――。
後で確認すべき案件だ。
そう自分に言い聞かせ、トウゴは足を速めた。振り返らなかった。