第16話 トレブルの息子
「元に戻す方法が、この世に存在しないからです」
クラヴィスの答えに再び、静寂が満ちる。
「声紋鍵は――一度肉体から引き剥がした瞬間、私の術式によって完全に固定されます。
その時点で、元の持ち主とのリンクは永久に切断される。
戻すべき『器』は、もう機能していません」
「......」
「これは紛れもない事実です。今さら皆さんに嘘をついても、何の意味もないでしょう?」
ヨシの手元は微動だにしなかった。
切っ先は男の喉元を正確に捉え続けている。
ジョウは、その残酷な現実をただ突きつけられていた。
戻す先が、もうない。あの美しかった歌声の持ち主は、もうどこにもいない。
彼女の命の証は、この男の上着の内側で、帰る場所を失ったまま冷たく固まっている。
「......ッ、うあぁぁ!」
ジョウの喉が、軋むような音を立てた。怒りではない。
胸の引き裂かれるような絶望から来る、慟哭の振動。
ジョウはあの時のように、空間に巨大な「扉」を具現化させようとした。
長方形の強固な輪郭を刻む。その向こう側から、圧倒的な出力を引き出す。
この男を、塵も残さず吹き飛ばしてしまいたかった。
だが。
「ジョウ」
トウゴの手が、ジョウの肩をがっしりと掴んだ。
驚くほど静かで、冷徹な声で止めた。
「今じゃない」
「でも......!」
「今じゃないと言っている。落ち着け」
ジョウの動きが止まった。
トウゴの瞳には、怒りではなく、ジョウの痛みをすべて理解した上での
深い忍耐の光があった。
クラヴィスは、そんな三人を見つめ、気味の悪い薄笑いを浮かべた。
「本当に仲が良いのですね。
三声が完全に揃ったチームの共鳴とは、これほど美しいものなのか......素晴らしい」
クラヴィスの指先が、再び上着の内側へと触れる。
「では、今日の小競り合いはここまでにしましょうか」
「逃がすか!」
ヨシが地を蹴った。しかしクラヴィスは、嘲笑うように身をひるがえす。
「逃げはしませんよ。ただ――今日のところは引かせていただくだけです。
貴方方と全力で向き合うのは、もう少し先の方が、より楽しめそうですからね」
「楽しむ......だと? ふざけるな!」
ヨシの白銀の鍵が、かつてない質量で膨れ上がった。
まるで指揮者がタクトを激しく振り下ろすかのような鋭いスイング。
「オープン――!」
ドッ!という重低音とともに、ヨシの後方の空間に無数の光の「扉」が出現し
そこから機関銃のごとき光の散弾がクラヴィス目掛けて一斉射撃された。
クラヴィスは超人的な身のこなしでそれを躱していくが
ヨシの流れるような追撃の速度までは完全に読み切れなかった。
肉薄したヨシの白銀の切っ先が、クラヴィスの上着の袖を――
音もなく、鋭利に切り裂いた。
「っ――」
クラヴィスが自らの袖に目を落とす。
その顔から、完全に余裕の笑顔が消え失せていた。
ヨシの猛攻は止まらない。
普段の、相手を翻弄するような飄々とした重心移動ではない。
無駄を徹底的に削ぎ落とした、暗殺者のような足捌き。
感情をすべて内側へと押し込め、その狂気的な出力を鍵の一点にのみ上乗せしていた。
白銀の刃が三方向に同時多発的に炸裂する。
左、右、正面。しかし完全な同時ではない。
コンマ一秒ずつ、相手の回避先を潰すように絶妙にズラされた連続刺突。
クラヴィスは初めて、防戦一方で大きく後退させられた。
「......おや」
何かに気づいたクラヴィスの口元が、歪に吊り上がる。
「これは――先ほどとは、完全に別の術式ですね?」
ヨシは一切答えない。
答えないまま、暴力的なまでの速度で距離を詰め
白銀の光刃で廃ビルのコンクリート壁を容赦なく削り取っていく。
クラヴィスが辛うじて横に跳ぶが、ヨシはその着地すら待たなかった。
空中の慣性移動を完全に読み切り、着地地点に先んじて刃を突き立てる。
チリ、と微かな手応え。
鋭い切っ先が、クラヴィスの頬を浅く斜めに切り裂いた。
「......」
着地したクラヴィスは、自らの頬にそっと指先を当て、それを拭った。
白い指先に、生々しい鮮赤の血が滲んでいる。
室内に、張り詰めた静寂が降りる。
クラヴィスはヨシをじっと凝視した。その顔から、完全に笑顔が消え去っていた。
代わりに現れたのは、底冷えするような昏い声が零れた。
「――白銀のヨシか......」
男はその名を呼んだ。そして、観察するように言葉を続ける。
「あの、トレブルの息子か」
白銀の鍵が、止まった。
ヨシの身体が、一歩分だけ勝手に後退する。頭ではなく、足がそう決めていた。
握った柄の中で、光がひとつ、明滅する。強く、弱く、また強く。
喉の奥で、何かが小さく引っかかった。声にはならない。
扉。 石の匂いが脳内で響く。
小さな手が、誰かの腕を掴んでいる。離すまいと、爪が食い込むほどに。
ヨシの意識はその一瞬、確かに別の場所にいた。
「――退けよ」
我に返ったときには、そう口が動いていた。
クラヴィスか。あの夜の記憶か。それとも、自分自身に。
白銀の光紋が、いつもより一段、明るく揺らいでいる。
制御しきれていない証拠がそこにあった。ヨシ自身、それに気づいていた。
気づいていて、直せなかった。
ヨシのその致命的な動揺を見逃さず、クラヴィスの顔に再びじわじわと笑顔が戻ってきた。
しかし、今度の笑みはこれまでとは決定的に違っていた。
穏やかさなど微塵もない、サディスティックな歓喜に満ちた笑み。
「貴方のお父上の声は――私のコレクションの中でも、特に喉から手が出るほど欲しかった、至高の『トレブル』だったのですよ。しかし残念ながら手に入れられませんでしたが」
「黙れ」
ヨシが言った。声は恐ろしいほど低かった。
怒鳴り散らしているわけではない。
だが、あまりにも静かで、冷酷で――それ故に、狂気的なまでの重みがあった。
「父の事を、その汚い口で呼ばないでくれ」
クラヴィスは、楽しげに少し間を置いた。
「そうですか」
「そうだ」
「......では」
クラヴィスが上着の内側に手を滑らせる。
瞬間、彼の指の隙間から、光のない鍵が複数本
ジャラリと擦れ合う音を立てて出現した。
「これは――どう、感じますか?」