05:守るべき聖域
平穏を取り戻した街に、朝の日差しが降り注いでいた。
数日前に鳴り響いていた、パトカーのサイレンの音はもう聞こえない。
大通りでは、出勤や登校を急ぐ人々の足音、店を開けようとシャッターが上がる音など、どこにでもある日常の生活音で満ちていた。
「若。こちらの組織で手は打ちました。表向き、あの事件は猟奇的な常習犯による犯行......ということになっております」
純喫茶『ガスライト』マスターの月守静馬は、いつものようにカウンターでコーヒーカップを磨きながら、亮に報告する。
「ああ、うん。ありがとう」
静馬の報告を聞いて、亮は密かに安堵の息を吐いた。
V-10のもう一人の被害者であった就活生は、ガーデンに対抗する組織『アンタレス』に保護されて治療を受けており、間一髪のところで助け出した桜華もまた、ただの貧血で倒れた一般人として、数日間病院に入院することで事なきを得た。
「ところで......ですぞ」
「うん......?」
突然、静馬の纏う空気が、喫茶店のマスターから『家臣』のそれへと変わった。
「お一人でガーデンと戦うとは......。神月家の唯一の生き残りというご自覚はございますか?」
「う、うん。あるよ......?」
「いいえ、そうは思えませぬ。今日という今日は、じっくりとお説教......もとい、お話させて頂かねば!」
「あっ......時間だ! ガッコいってきまーす!」
「若!」
カランカラン!
静馬の小言から逃げるように亮がドアから飛び出すと、ガスライトのドアベルが勢いよく鳴り響いた。
朝の眩しい光を浴びながら亮はいつもの通学路を歩き出す。
いつもの街には、もう血の匂いも化け物も存在しない、彼にとっての『退屈で平和な日常』だった。
(まあ、こういうのも悪くねぇのかもな)
❖ ❖ ❖
――その日の昼休み。
病院から退院して初の登校日だった桜華は、少しだけ足早に屋上に向かう階段を登っていた。
病院のベッドで微睡む度に、あの暗い公園で目撃した『おかしな悪夢』――血を流す女性と、恐ろしい赤い瞳の残像が頭の片隅をよぎる。
現実離れした、まるで映画のような光景だというのに、妙に生々しい悪寒が皮膚から離れなかった。
『悪夢』を洗い流したい。そのような思いもあって、桜華は屋上の――亮の待つ屋上に向かいたかった。平常時の彼女であれば考えられないことかもしれないが。
その亮と桜華の聖域とも言えるいつもの屋上で、亮が日課のように日常の風景を眺めていると、桜華が彼の元へとやってきた。
「おぅ瀬島。ちょっとだけ入院してたんだってな。もういいのか?」
「え、えぇ。森のある公園で気を失っちゃっただけですんで」
何事も無かったかのように振る舞う亮はわざとらしく、いや、桜華がどこまで覚えているかを確認するために問いかけていく。
「何があったんだ? お前の弟を迎えに行ったんだろ?」
「そう⋯⋯なんですけど、何か怖いモノを見たような気がして⋯⋯」
「まあ⋯⋯気を失って、夢でも見たんだろ? 悪い夢をさ」
「⋯⋯そう、かもしれませんね。あんなこと現実じゃありえないですし」
桜華は、自分に何か恐ろしいことが起こったという漠然とした感覚はあったものの、V-10の能力で意識を失ったこともあり、その記憶は濃い霧に閉ざされたようにぼやけてしまっていた。
「へぇ⋯⋯ちなみにどんな夢だったんだ?」
亮の声は軽いが、視線だけはわずかに鋭くなっていた。
しかし、桜華はその亮の視線の変化には気づかず、聞かれたままに口を開いた。
「その⋯⋯女の人が倒れてて血を流してて⋯⋯外国人の男の人が⋯⋯その血を啜ってて⋯⋯」
(うーん、微妙に覚えてるな、こりゃ。夢ってことにしてしまうか)
亮にとって、桜華と過ごす時間は、彼を日常に繋ぎとめるかけがえのない大切なものである。
それゆえに、一般人である桜華を裏の世界には一切関わらせたくなかったのだ。
「ははは⋯⋯まるで吸血鬼だ⋯⋯ホラー映画みたいな夢だな」
「そ、そうです⋯⋯よね。吸血鬼なんて⋯⋯本当はいませんよね⋯⋯」
「そうそう。吸血鬼事件なんて噂になったから、お前はそれに引っ張られたんだろうよ。夢だよ夢」
「ですよね⋯⋯」
「まぁ⋯⋯その吸血鬼事件も犯人捕まったらしいし? なんか猟奇的な常習犯だったらしいな。これでもう安心だな!」
亮は、公に発表された事件の概要を使って桜華の注意を逸らそうとした。
しかし、桜華は小さく疑問の言葉を漏らした。
「でも⋯⋯」
「ん?どうした?」
「その夢なんですけど⋯⋯なんだか先輩に助けられたような気がして⋯⋯不思議なんですけど」
そう言いながら、桜華は無意識に首筋をさすっていた。
(こいつ結構、鋭いんだよな⋯⋯)
亮は、桜華の真実を知っているかのような言葉に、まさか本当は覚えているのではと、思わずドキリとした。
(まあ、もうヤツらはいないとは思うが、念のため、な)
一歩間違えれば、この他愛もない時間が失われていたかもしれない。
そう考えた亮は、桜華に気づかれない瞬間を狙って二本指を立てたハンドサイン――刀印を結んで学校の周囲の気配を探った。
「?」
桜華の怪訝そうな表情に気づいた亮は、いつもの飄々とした顔に戻る。
その『亮先輩の顔』を見た桜華は、安心したように『夢』の話の続きを語り始めた。
「だから⋯⋯なんだか、悔しいので⋯⋯」
「悔しいの?!」
桜華の反応が、あまりにも斜め上だったため、亮はつい声を大きくしてしまった。
「夢のことだけど、借りは返します!」
といって、桜華はズイッと弁当の包みを亮に差し出した。
「なにこれ?」
「お弁当です。普段ゆーくんのしか作ってないからあまり大きいお弁当箱なくて、うちにあるやつで一番大きいのに入れてきました!」
包みを開けると、いわゆるドカ弁とまではいかないものの、一般的な男性用と思われるアルミの弁当箱が出てきた。
亮の目は、トンカツ、肉巻き、ソーセージといった男の子が喜びそうなメインのおかずにキラキラと輝いたが、いんげん、ブロッコリー、ピーマンなどの野菜のおかずには、一転して曇りを見せた。
それでも。
「おぉーー! 腹減ってたんだ! サンキュッ!」
普段、十七歳にしては妙に達観した印象のある亮。
しかし、この一瞬、彼から「年頃の男子」の姿が垣間見え、桜華はまたも胸中に不可思議な感覚を覚えて、胸に手を当てた。
「じゃあ⋯⋯いただきます!――ごちそうさま!」
「えっ⋯⋯?」
桜華にしてはそれなりの量を詰め込んだはずの弁当が、まるで魔法のように一瞬で消えていた。
「ちょ、ちょっと先輩?! ちゃんと味わって食べたの??」
「あぁ、もちろんだ! 野菜は......ちょっとこう......あれだったけど、肉系は最高にうまかったぜ!」
桜華は、弁当を味わって食べたと言い張る亮を疑いの眼差しで見つめていた。
「そんな、1分もかかってないのに、味わえるわけがないでしょーー??」
「大丈夫だ、なんせ俺は、普通の人間の10倍は感覚が鋭いからな」
「またそんな軽口言って!」
桜華は呆れたように大きなため息をついた。
それとなく周囲を仕切る彼女にとって、この男だけは例外で、唯一ペースを乱される。苛立たしさを感じる一方で、どうにも憎めない、そんな複雑な感情を抱いていた。
亮は、そんな彼女のプリプリとした様子を、いつもの飄々とした笑みを浮かべて眺めている。
昼下がりの風が、二人の聖域に穏やかに流れていた。
〈赤き瞳の侵食・完〉