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空白の部屋を埋める《形状変化》

2036年6月7日午後12時21分

「うーっす。お疲れさまでーっす。あれ? 新保しんぽうさんだけっすか?」
「やあ、間森まもり君。みんな出払っててね。今日はもう戻らない予定さ」

 間森まもりは三限が終わった後に学校を出て、まっすぐ警備隊本庁にある特務課の執務室にやってきたのである。
 執務室にいて間森まもりを迎えたのは、新保しんぽうという特務課の副課長を務める男ただ一人であった。
 新保しんぽうは、警備隊の制服をきちんと着込んではいるものの、その肩にはやや草臥くたびれた様子が窺え、その線の細さや佇まいは、病的とは言わないまでも、枯れ木のようなどこか頼りなげなイメージを抱かせるものである。

「へぇ、他の面々はともかく、雹霞ひょうかさんまでいないってのは珍しいっすね」

 雹霞ひょうかというのは、水無月風華みなづきふうかの血の繋がっていない義理の姉であり、この特務課の課長の地位にある女性のことである。
 彼女には体質的な問題があり、直射日光がひどく有害なため、滅多に外を出歩くことはない。基本的には執務室の主として鎮座しているはずの彼女が不在であることから、間森まもりはそのことを指摘しているのである。

「課長は、今日は有給とってお義兄さんとデートだそうです」
「ええ......」

 新保しんぽうがいかにも真面目腐った表情と声でそのようなことを述べるので、間森まもりは脱力し、茶化したポーズをとらざるを得なかった。

「なんでも、二か月ぶりの連休だそうで」
「あ、もう、いいっす。お腹一杯なんで」
「『下らん用事で呼び出したら殺す』だそうで」
「......もうやだなぁ、この職場ぁ」
「いいじゃないですか。課長にも、たまには息抜きが必要なのでしょう」
「あの人はいっつも俺らをいびってストレス解消してるでしょうに」

 間森まもりは、呆れたように肩をすくめながら、自分の机に荷物を置く。

「さて、せっかく来たのです。とりあえず、この報告書に目を通しておいてください」
「なんすか? それ」
「例の失踪事件の続報ですよ。ほら、先週くらいからちょっと話題になっていたやつです。これで、三件目ですね。とはいえ、失踪者にわかり易い共通点がないことから、連続失踪事件ではなく、同時多発的なものだという見方が多数ですが」

 そういって、新保しんぽうは仕事用の連絡網アプリにPDFファイルを送信し、それを読むように間森まもりにタスクをあげる。
 間森まもりは、仕事用に配布されている端末でそのファイルを開き、画面をスクロールして中身を確認する。

「失踪? あー、昨日はアーサー・リードの件にかかりきりだったからもう忘れてたぜ。なになに、また、一人増えたんですか?」
「ええ。隊としても、そろそろ本腰を入れようかという話になりました。
 また、例によって、場合によっては、特務課ウチにもお鉢が回ってくるかもしれませんので、今のうちに資料だけには目を通しておいてください」
「便利使いされる遊撃隊のつらいところっすねぇ。えーっと、消えたのは昨日で、発覚したのは今日か。
 失踪者の名前は......藤咲夏南ふじさきかな」
「......」

 新保しんぽうは、名前を読み上げる間森まもりの一挙手一投足を、まるで見えない心の機微まで綿密に観察するかのように、静かな視線を間森まもりに向けている。

「へー、全然知らない名前だ。ま、当たり前だけど」
「一応、第三中の生徒ですから、知っている可能性もあるかなと思いまして」
「いやいや、何人いると思ってるんすか。記憶の片隅にもないっすね。顔は可愛めだと思いますが」
「彼女は、《記憶消去》に特化した魔術回路の持ち主だったそうですよ。これ自体は通常の魔術体系の範疇ですが、彼女の術式は特に効能が良く、他とは雲泥の差だったとか。本人が非協力的だったこともあり、精査はできていなかったらしいですが、詳しく解析すれば固有魔導との認定もあり得たほどの逸材だったとか」
「へー。勿体ないっすね。他の失踪者はどうかなっと」
「ふむ。一人目は三頁目、二人目は三十四頁目に詳細があります。
 一人目――三俣景史郎みつまたけいしろう
 年齢は四十二歳。
 性別は男性。
 失踪したのは5月30日。
 職業は研究者。
 研究分野は地図を使った魔術。
 彼自身、魔術師とのことで、地図を用いて地図上で何かを発見したり、地図に変化を加えることで実際の場所に同様の影響を与えたりといったことが可能な固有魔導の使い手だったようですね。
 術式名は《俯瞰地図ふかんちず》だそうで。
 二人目――」
「ん?」

 新保しんぽうの三俣に関する口上を聞き流しながら報告書を斜め読みしていた間森まもりの目が、二人目の失踪者の名前に釘付けになる。

「なにか?」
「いや、この二人目の失踪者がこの名前で? 《遠隔視えんかくし》?」
「相庭一臣あいばかずおみ隊員ですか。
 年齢は二十四歳。
 性別は男性。
 失踪したのは6月4日。
 職業は警備隊員。
 魔術師でもあり得意魔術は《遠隔視えんかくし》。
 失踪が発覚した経緯は無断欠勤だったとか。
 ――彼が何か?」
「何かって、そうですね。いやぁ、偶然とは怖いもんだなと」
「噂をすれば影が差す、といったところですか?」
「そんな感じっす。ちょうど話題に出たんで」
「天乃あまの慎しん関連ですか」
「そうっす」
「「............」」

 重苦しい沈黙が執務室を満たす。
 新保しんぽうは徐おもむろに立ちあがり、空になったマグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、執務室備え付けの電気ケトルの中にあった湯を注ぐ。立ち上る湯気と共に、苦い香りが室内に広がった。

「彼は、昨日、ここに来ましたね」
「そうっすね」
「昨日受けた印象は、なんとも穏やかなものでした。こう言っては何ですが、憑き物が落ちたというか、ただの年相応の若者という印象しか抱かなかった。彼はなんだか『生き急いでいる』というのが私の印象でしたので。そのために、狂気ではなく、理性をもって、敢えて手段を選んでいないのではないかと、そう分析していました」
「概ね、同意しますよ。あいつには、なんというか、年不相応な貫禄というか圧みたいな――もっと正確にいうと、気負いみたいなものがありましたけど、そういうのがなくなりました」
「――そういう君が年相応かというと、私は疑問を覚えざるを得ないんだが」
「まあ、俺のことはいいじゃないっすか」

 苦笑する新保しんぽうに対し、間森まもりはうっすらと微笑む。その笑みはどこか寂しげで、大人びた陰影を帯びていた。

「とにかく、多分ですけど、憑き物が落ちたっていうのは、まさにそのとおりなんじゃないかと。あいつは、生まれつき他人とは見ている景色が違ったんだと思います。見えてるもんは仕方ないんだから、そこにまで責任を負う必要はないのにって俺は思っちゃいますけど。そこんとこが律儀(りちぎ)なやつだったんすよね、あいつは。
 だから、いっつも気負って、背負って、重圧に押し潰されないように、常に足掻いてたんじゃないかな。だから、今のあいつはだいぶ軽そうにしてますよ、そのあたり」
「だが、このままでは駄目だろう」

 新保しんぽうはそのように確信を持った口調で断定する。その言葉には、副課長という立場ゆえの冷徹な予測が含まれていた。

「ええ。遠からずあいつは元に戻っちまうんでしょうね。記憶がなくなっても、知識が消え去っても、あいつがあいつであることは変わってない。だったら、同じ環境にあれば、同じ道を選んじまうんでしょうね」
「彼の友人としては、そのあたりをどう考えているんだい?」
「俺は、友人にはなれなかったんじゃないかと思いますね。だから、ちょっと考えられないっすわ、そんなIFの世界のことは」
「そうかい。だったら、今度こそ、なれるといいんじゃないかな、彼の友人に」
「新保しんぽうさんってそんなこと言うキャラでしたっけ?」
「あれ、知らなかったかい? 私は割とこのようなことをいうキャラですよ?」

「「..................」」

「......はぁ、もういい。《形状変化シェイプシフター》。人を揶揄うのはそこまでにしろ」

 間森まもりがサングラス越しに新保しんぽうを睨みつけると、新保しんぽうの口角が徐々に上がっていく。その筋肉の動きはあまりに滑らかで、生物的な違和感を覚えさせるものだった。
 そして、新保しんぽうの口からくぐもった女・性・の笑い声が漏れ出す。

「くくくくく。ごめんってば。そんなに怒らないでくれよ、啓吾けいご君。私も自分が新保しんぽうではないことに気付いたのは君の言葉の後だったんだ。
 すまないすまない。誤魔化すつもりはなかったんだが、私の発した言葉が恥ずかしくてね。ついつい、猫を被(かぶ)ってしまったんだ。くくくく」

 その声は明らかに今までの新保しんぽうのものではない。
 紛れもなく妙齢の女性の声だった。
 《形状変化シェイプシフター》とは、とある固有魔導術式の名称であり、その使用者の人間を指す言葉でもある。
 固有魔導術式は再現性がなく、重複する名前が存在しないことから、このように、しばしばその使用者を指す言葉として用いられることがあるのである。
 《形状変化シェイプシフター》は、その見た目を偽る魔術であるが、幻術の類とは異なり、実際に身体の構造が骨格レベルで変容する魔術である。
 そして、その変容は当人の記憶すら再現可能であり、完全に対象の人物なりきり、自分が《形状変化シェイプシフター》の使用者であるという事実も含めて完全に忘れることすらできてしまう。
 なお、この状態であればその人物の固有魔導術式すら使えてしまうほどである。
 また、魔力は身体を変容させる際にしか用いられないので、変容後の身体は魔力によって維持されているものではない。
 これは、つまり魔力切れで変容が解除されるということもないということである。
 これは裏返せば、その人物なりきった後、自分が《形状変化シェイプシフター》を使用できるということを思い出さなければ、その人物として残りの人生を全て過ごしてしまう可能性すらあるということである。
 なお、今この瞬間に突如として女性の声になったのは、声帯の形状を変化させたからである。

「そもそも、なんであんたがここにいるんだ」
「あ、早速それ訊いちゃう? せっかちさんめ。そんなことでは女の子にモテないゾ」
「大きなお世話だ。仕事が早いほうができる男っぽくてモテそうだろ?」
「うわぁ(ドン引き)」
「なんかムカつくな。ってか新保しんぽうさんの顔でそんなこというなよ。これから新保しんぽうさんの顔見るたびに笑っちまうだろ」
「申し訳ないが、今日は新保しんぽうの日なんだ」
「訳わかんねえこといってんじゃねえぞ」
「いや、なに。今日は、栄えある特務課の課長で在らせられる水無月みなづき雹霞ひょうか殿が――」
「急にどうした? 頭でも打ったか?」
「――部下の予定も確認せずに突如として有休を取るなどと宣言したせいで、特務課執務室が空になる時間が生じてしまったのさ」
「はあ」
「むろん、いつ有休をとるかは、建前上、自由だから取りやめるように言うこともできない。有給消化率にもかかわってくるしね。
 というか、彼女に面と向かってそんなことが言える人間は、私の知る限り、水無月みなづき烈火れっか以外には存在しない。私が烈火氏になりきって告げるとの案も出たが、丁重に断らせてもらったよ。私も、彼女に恨まれるのはごめんだからね。
 よって、次善の策として私が新保しんぽうの振りをしてここにいるのだよ」
「ちっ、つまり本業かよ」

 間森まもりは舌打ちをして忌々しげに吐き捨てる。その態度は、相手との腐れ縁の深さを物語っていた。

「そのとおり、君に会いに来たわけじゃないってわかって残念だったかい?」
「今日のキャラはいつにもましてウザいな」
「うーん。お気に召さない? じゃあちょっといつもの調子に戻そうか?」
「いや、いいさ。いつものあんたは、あれはあれで面倒というか。ぶっちゃけ、苦手なんだ」
「あのさ、それはそれで傷つくんだゾ?」
「悪いな。あんたに対して歯に衣(きぬ)着せぬ言い方になっちまうのは性分なんだ」
「いいよ。君が私を避けるのは昔からさ」
「......避けてるわけじゃないさ」

 そう言う間森まもりのサングラスに隠れた目は盛大に泳いでいた。新保しんぽうの姿をした相手の視線から、逃れるように顔を背ける。

「嘘だね。最後に私に会いに来たのがいつかを思い出したまえ。......ね? 君から会いに来たことはないだろう?」
「ちょくちょく会ってるじゃないか」
「私が! 君に! 会いに行ってるんだよ」
「......」
「それで? 今日はここで暇(ひま)を持て余(あま)した私と一緒にいてくれるのだろうね? このとおり、上等とは口が裂けてもいえないが、コーヒーもあるんだし。せめて、昼食くらいは付き合ってくれるんだろう?久しぶりに、他愛もないおしゃべりでもしようじゃないか」
「悪いな。相庭あいばの件がある。今日はそれを調べに来ただけなんだ」
「――――そうかい。では、いってらっしゃい」
「......ホント、悪いな。今度は、俺からも会いに行くよ」

 そういって、間森まもりは荷物を持ってその場を立ち去る。一度も振り返ることなく、廊下へと踏み出した。

「......嘘つき」

 扉を閉める前に、胸を締めつけられような悲壮感に満ちた声が背後から聞こえてきたが、間森まもりはそのまま不自然なほど大きな音を立てるように後ろ手に扉を閉めた。

(まるで、そんな声は聞こえなかったと、後で言い訳するためのようだ)

 そんなことに気付いてしまった間森まもりは、逃げるようにその場を立ち去ることしかできなかった。背中に刺さる無言の視線を振り払うように、足早に本庁を後にする。
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Replica ― Amphitheatrum Ideale ―作者:根岸重玄
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2036年6月7日午後12時21分

「うーっす。お疲れさまでーっす。あれ? 新保しんぽうさんだけっすか?」
「やあ、間森まもり君。みんな出払っててね。今日はもう戻らない予定さ」

 間森まもりは三限が終わった後に学校を出て、まっすぐ警備隊本庁にある特務課の執務室にやってきたのである。
 執務室にいて間森まもりを迎えたのは、新保しんぽうという特務課の副課長を務める男ただ一人であった。
 新保しんぽうは、警備隊の制服をきちんと着込んではいるものの、その肩にはやや草臥くたびれた様子が窺え、その線の細さや佇まいは、病的とは言わないまでも、枯れ木のようなどこか頼りなげなイメージを抱かせるものである。

「へぇ、他の面々はともかく、雹霞ひょうかさんまでいないってのは珍しいっすね」

 雹霞ひょうかというのは、水無月風華みなづきふうかの血の繋がっていない義理の姉であり、この特務課の課長の地位にある女性のことである。
 彼女には体質的な問題があり、直射日光がひどく有害なため、滅多に外を出歩くことはない。基本的には執務室の主として鎮座しているはずの彼女が不在であることから、間森まもりはそのことを指摘しているのである。

「課長は、今日は有給とってお義兄さんとデートだそうです」
「ええ......」

 新保しんぽうがいかにも真面目腐った表情と声でそのようなことを述べるので、間森まもりは脱力し、茶化したポーズをとらざるを得なかった。

「なんでも、二か月ぶりの連休だそうで」
「あ、もう、いいっす。お腹一杯なんで」
「『下らん用事で呼び出したら殺す』だそうで」
「......もうやだなぁ、この職場ぁ」
「いいじゃないですか。課長にも、たまには息抜きが必要なのでしょう」
「あの人はいっつも俺らをいびってストレス解消してるでしょうに」

 間森まもりは、呆れたように肩をすくめながら、自分の机に荷物を置く。

「さて、せっかく来たのです。とりあえず、この報告書に目を通しておいてください」
「なんすか? それ」
「例の失踪事件の続報ですよ。ほら、先週くらいからちょっと話題になっていたやつです。これで、三件目ですね。とはいえ、失踪者にわかり易い共通点がないことから、連続失踪事件ではなく、同時多発的なものだという見方が多数ですが」

 そういって、新保しんぽうは仕事用の連絡網アプリにPDFファイルを送信し、それを読むように間森まもりにタスクをあげる。
 間森まもりは、仕事用に配布されている端末でそのファイルを開き、画面をスクロールして中身を確認する。

「失踪? あー、昨日はアーサー・リードの件にかかりきりだったからもう忘れてたぜ。なになに、また、一人増えたんですか?」
「ええ。隊としても、そろそろ本腰を入れようかという話になりました。
 また、例によって、場合によっては、特務課ウチにもお鉢が回ってくるかもしれませんので、今のうちに資料だけには目を通しておいてください」
「便利使いされる遊撃隊のつらいところっすねぇ。えーっと、消えたのは昨日で、発覚したのは今日か。
 失踪者の名前は......藤咲夏南ふじさきかな」
「......」

 新保しんぽうは、名前を読み上げる間森まもりの一挙手一投足を、まるで見えない心の機微まで綿密に観察するかのように、静かな視線を間森まもりに向けている。

「へー、全然知らない名前だ。ま、当たり前だけど」
「一応、第三中の生徒ですから、知っている可能性もあるかなと思いまして」
「いやいや、何人いると思ってるんすか。記憶の片隅にもないっすね。顔は可愛めだと思いますが」
「彼女は、《記憶消去》に特化した魔術回路の持ち主だったそうですよ。これ自体は通常の魔術体系の範疇ですが、彼女の術式は特に効能が良く、他とは雲泥の差だったとか。本人が非協力的だったこともあり、精査はできていなかったらしいですが、詳しく解析すれば固有魔導との認定もあり得たほどの逸材だったとか」
「へー。勿体ないっすね。他の失踪者はどうかなっと」
「ふむ。一人目は三頁目、二人目は三十四頁目に詳細があります。
 一人目――三俣景史郎みつまたけいしろう
 年齢は四十二歳。
 性別は男性。
 失踪したのは5月30日。
 職業は研究者。
 研究分野は地図を使った魔術。
 彼自身、魔術師とのことで、地図を用いて地図上で何かを発見したり、地図に変化を加えることで実際の場所に同様の影響を与えたりといったことが可能な固有魔導の使い手だったようですね。
 術式名は《俯瞰地図ふかんちず》だそうで。
 二人目――」
「ん?」

 新保しんぽうの三俣に関する口上を聞き流しながら報告書を斜め読みしていた間森まもりの目が、二人目の失踪者の名前に釘付けになる。

「なにか?」
「いや、この二人目の失踪者がこの名前で? 《遠隔視えんかくし》?」
「相庭一臣あいばかずおみ隊員ですか。
 年齢は二十四歳。
 性別は男性。
 失踪したのは6月4日。
 職業は警備隊員。
 魔術師でもあり得意魔術は《遠隔視えんかくし》。
 失踪が発覚した経緯は無断欠勤だったとか。
 ――彼が何か?」
「何かって、そうですね。いやぁ、偶然とは怖いもんだなと」
「噂をすれば影が差す、といったところですか?」
「そんな感じっす。ちょうど話題に出たんで」
「天乃あまの慎しん関連ですか」
「そうっす」
「「............」」

 重苦しい沈黙が執務室を満たす。
 新保しんぽうは徐おもむろに立ちあがり、空になったマグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、執務室備え付けの電気ケトルの中にあった湯を注ぐ。立ち上る湯気と共に、苦い香りが室内に広がった。

「彼は、昨日、ここに来ましたね」
「そうっすね」
「昨日受けた印象は、なんとも穏やかなものでした。こう言っては何ですが、憑き物が落ちたというか、ただの年相応の若者という印象しか抱かなかった。彼はなんだか『生き急いでいる』というのが私の印象でしたので。そのために、狂気ではなく、理性をもって、敢えて手段を選んでいないのではないかと、そう分析していました」
「概ね、同意しますよ。あいつには、なんというか、年不相応な貫禄というか圧みたいな――もっと正確にいうと、気負いみたいなものがありましたけど、そういうのがなくなりました」
「――そういう君が年相応かというと、私は疑問を覚えざるを得ないんだが」
「まあ、俺のことはいいじゃないっすか」

 苦笑する新保しんぽうに対し、間森まもりはうっすらと微笑む。その笑みはどこか寂しげで、大人びた陰影を帯びていた。

「とにかく、多分ですけど、憑き物が落ちたっていうのは、まさにそのとおりなんじゃないかと。あいつは、生まれつき他人とは見ている景色が違ったんだと思います。見えてるもんは仕方ないんだから、そこにまで責任を負う必要はないのにって俺は思っちゃいますけど。そこんとこが律儀(りちぎ)なやつだったんすよね、あいつは。
 だから、いっつも気負って、背負って、重圧に押し潰されないように、常に足掻いてたんじゃないかな。だから、今のあいつはだいぶ軽そうにしてますよ、そのあたり」
「だが、このままでは駄目だろう」

 新保しんぽうはそのように確信を持った口調で断定する。その言葉には、副課長という立場ゆえの冷徹な予測が含まれていた。

「ええ。遠からずあいつは元に戻っちまうんでしょうね。記憶がなくなっても、知識が消え去っても、あいつがあいつであることは変わってない。だったら、同じ環境にあれば、同じ道を選んじまうんでしょうね」
「彼の友人としては、そのあたりをどう考えているんだい?」
「俺は、友人にはなれなかったんじゃないかと思いますね。だから、ちょっと考えられないっすわ、そんなIFの世界のことは」
「そうかい。だったら、今度こそ、なれるといいんじゃないかな、彼の友人に」
「新保しんぽうさんってそんなこと言うキャラでしたっけ?」
「あれ、知らなかったかい? 私は割とこのようなことをいうキャラですよ?」

「「..................」」

「......はぁ、もういい。《形状変化シェイプシフター》。人を揶揄うのはそこまでにしろ」

 間森まもりがサングラス越しに新保しんぽうを睨みつけると、新保しんぽうの口角が徐々に上がっていく。その筋肉の動きはあまりに滑らかで、生物的な違和感を覚えさせるものだった。
 そして、新保しんぽうの口からくぐもった女・性・の笑い声が漏れ出す。

「くくくくく。ごめんってば。そんなに怒らないでくれよ、啓吾けいご君。私も自分が新保しんぽうではないことに気付いたのは君の言葉の後だったんだ。
 すまないすまない。誤魔化すつもりはなかったんだが、私の発した言葉が恥ずかしくてね。ついつい、猫を被(かぶ)ってしまったんだ。くくくく」

 その声は明らかに今までの新保しんぽうのものではない。
 紛れもなく妙齢の女性の声だった。
 《形状変化シェイプシフター》とは、とある固有魔導術式の名称であり、その使用者の人間を指す言葉でもある。
 固有魔導術式は再現性がなく、重複する名前が存在しないことから、このように、しばしばその使用者を指す言葉として用いられることがあるのである。
 《形状変化シェイプシフター》は、その見た目を偽る魔術であるが、幻術の類とは異なり、実際に身体の構造が骨格レベルで変容する魔術である。
 そして、その変容は当人の記憶すら再現可能であり、完全に対象の人物なりきり、自分が《形状変化シェイプシフター》の使用者であるという事実も含めて完全に忘れることすらできてしまう。
 なお、この状態であればその人物の固有魔導術式すら使えてしまうほどである。
 また、魔力は身体を変容させる際にしか用いられないので、変容後の身体は魔力によって維持されているものではない。
 これは、つまり魔力切れで変容が解除されるということもないということである。
 これは裏返せば、その人物なりきった後、自分が《形状変化シェイプシフター》を使用できるということを思い出さなければ、その人物として残りの人生を全て過ごしてしまう可能性すらあるということである。
 なお、今この瞬間に突如として女性の声になったのは、声帯の形状を変化させたからである。

「そもそも、なんであんたがここにいるんだ」
「あ、早速それ訊いちゃう? せっかちさんめ。そんなことでは女の子にモテないゾ」
「大きなお世話だ。仕事が早いほうができる男っぽくてモテそうだろ?」
「うわぁ(ドン引き)」
「なんかムカつくな。ってか新保しんぽうさんの顔でそんなこというなよ。これから新保しんぽうさんの顔見るたびに笑っちまうだろ」
「申し訳ないが、今日は新保しんぽうの日なんだ」
「訳わかんねえこといってんじゃねえぞ」
「いや、なに。今日は、栄えある特務課の課長で在らせられる水無月みなづき雹霞ひょうか殿が――」
「急にどうした? 頭でも打ったか?」
「――部下の予定も確認せずに突如として有休を取るなどと宣言したせいで、特務課執務室が空になる時間が生じてしまったのさ」
「はあ」
「むろん、いつ有休をとるかは、建前上、自由だから取りやめるように言うこともできない。有給消化率にもかかわってくるしね。
 というか、彼女に面と向かってそんなことが言える人間は、私の知る限り、水無月みなづき烈火れっか以外には存在しない。私が烈火氏になりきって告げるとの案も出たが、丁重に断らせてもらったよ。私も、彼女に恨まれるのはごめんだからね。
 よって、次善の策として私が新保しんぽうの振りをしてここにいるのだよ」
「ちっ、つまり本業かよ」

 間森まもりは舌打ちをして忌々しげに吐き捨てる。その態度は、相手との腐れ縁の深さを物語っていた。

「そのとおり、君に会いに来たわけじゃないってわかって残念だったかい?」
「今日のキャラはいつにもましてウザいな」
「うーん。お気に召さない? じゃあちょっといつもの調子に戻そうか?」
「いや、いいさ。いつものあんたは、あれはあれで面倒というか。ぶっちゃけ、苦手なんだ」
「あのさ、それはそれで傷つくんだゾ?」
「悪いな。あんたに対して歯に衣(きぬ)着せぬ言い方になっちまうのは性分なんだ」
「いいよ。君が私を避けるのは昔からさ」
「......避けてるわけじゃないさ」

 そう言う間森まもりのサングラスに隠れた目は盛大に泳いでいた。新保しんぽうの姿をした相手の視線から、逃れるように顔を背ける。

「嘘だね。最後に私に会いに来たのがいつかを思い出したまえ。......ね? 君から会いに来たことはないだろう?」
「ちょくちょく会ってるじゃないか」
「私が! 君に! 会いに行ってるんだよ」
「......」
「それで? 今日はここで暇(ひま)を持て余(あま)した私と一緒にいてくれるのだろうね? このとおり、上等とは口が裂けてもいえないが、コーヒーもあるんだし。せめて、昼食くらいは付き合ってくれるんだろう?久しぶりに、他愛もないおしゃべりでもしようじゃないか」
「悪いな。相庭あいばの件がある。今日はそれを調べに来ただけなんだ」
「――――そうかい。では、いってらっしゃい」
「......ホント、悪いな。今度は、俺からも会いに行くよ」

 そういって、間森まもりは荷物を持ってその場を立ち去る。一度も振り返ることなく、廊下へと踏み出した。

「......嘘つき」

 扉を閉める前に、胸を締めつけられような悲壮感に満ちた声が背後から聞こえてきたが、間森まもりはそのまま不自然なほど大きな音を立てるように後ろ手に扉を閉めた。

(まるで、そんな声は聞こえなかったと、後で言い訳するためのようだ)

 そんなことに気付いてしまった間森まもりは、逃げるようにその場を立ち去ることしかできなかった。背中に刺さる無言の視線を振り払うように、足早に本庁を後にする。
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