61 平也が捨てたもの、初斗ご大切にしてきたもの
平也は闇雲に走り、細かな路地に入っては抜け、他の路地に入る。
道行く人が何事かと振り返る。平也の顔を見て、あの特番を見ていたらしい幾人かは青ざめた。
平也としては反撃してもなんの問題もない。夜に酔っ払いがケンカするなんてよくある話だ。
しかし今はまずい。特番を組まれた直後、平也の顔を再認識した人間が多い。
騒ぎになって警察を呼ばれたら一巻の終わりだ。
「待て、ちくしょう! お前のせいで、洗濯も料理も、俺がやらなきゃいけなくなったんだぞ。女房の役目だってのに放棄しやがって礼美のやつ!」
支離滅裂な言い分に反吐が出る。
もう妻ではなくなった赤の他人に家事をやらせようなんてどう考えても異常だ。
この男も、方向性が違うだけで平也の同類なんだろう。
自分のためなら平気で他人を踏み台にするサイコパス。
運動をしないタイプのようで、男の息が上がり、足は次第に遅れはじめた。
逃げ切れると思ったが、次に曲がった先は行き止まりだった。
雨足が強まり、濡れた髪と服が肌に張り付いて気持ち悪い。
「やっと、おいついた、クソが」
サイレンの音が近づいている。群衆の中の誰かが、嘉神平也を見たと通報したんだ。
(真面目に医者やっていても、こんなわけわからん男に逆恨みされる。あいつ、よく精神科医なんかやってられるな。おかしいんじゃねえの)
平也自身が犯した罪で嘉神家の人間に恨まれるならまだ理解できる。
だが、初田だと勘違いされて刺されそうなのは理解できない。
平也だと勘違いされて殺人犯呼ばわりされるのは本当に不快だったと、さっきテレビで証言していた。
(本当に、むかつく。なんで初斗と間違われて恨まれなきゃなんねえんだよ。めんどくせえ)
自分がやってきたことは棚上げにして、平也は来た道を引き返す。
生まれたての牛みたいにふらふらになった男が真向かいにいる。
「やっと俺に従う気になったか。さあ、はやく礼美に連絡を」
馬鹿なことをわめく男の脛を蹴り上げる。
脛は人体急所の一つ。ダメージが通常の部位への攻撃よりもはるかに大きい。
男が膝をついたところで顔面に蹴りを入れる。それで静かになった。
「こっちで声がしたぞ!」
「探せ!」
幾人もの足音が近づいている。平也は急ぎその場を離れた。
しばらくは駅周辺に近づけない。隠れ家にも戻れない。
もし駅に行けたとしても、監視カメラですぐに居場所を特定されてしまう。
監視カメラがない場所に行くのがいい。
ひと気のないシャッター街、売り家の札がつけられた民家の裏庭を勝手に借りることにした。
錆び付いた波板の物置をこじ開け、ほこりっぽい物置の中に入る。狭いが、ひとが通ることはまずないし、とりあえず雨をしのげる。
逆さに置かれたビールケースに座り、身の回りのものを確認する。
ポケットに入れていた折り財布もぐっしょり濡れてしまい、乾くまで札が使えなさそうだ。
クレジットカードは作れないし、現金しかない。小銭は約千円分。
足がつくといけないからと、携帯電話の類いを持たないようにしていたのが唯一の幸いだ。
携帯電話は基本GPS内蔵だから、簡単に居場所を特定されてしまう。
誰かに用があるときは、平也のほうから公衆電話で連絡していた。連絡先を教えたが最後、裏切られる可能性がある。
暗い空を見上げながら、平也は考える。
(初斗なら、この先もこれまで通り隠遁生活を送ると思っていたのに。予想が外れた。昔から、何考えているかわからん奴だったが、まさかテレビで顔をさらすなんて。あんなことされたら、俺はサングラスをかけてすら生活できないじゃないか)
平也と同じ顔では生活できないから整形するか、もしくは顔を変えず人目を忍んで生きるかのどちらかだと思っていたし、実際に初田は後者を選んだ。
そして平也がする服装を熟知した上で、平也の今現在の姿になり、映像を日本中に発信した。
画面越しに送られてきた弟からの挑戦状は、平也に大打撃を与えた。
平也に協力していた人間は、格安で医療を受けたい人間。平也はその足元を見て協力させていた。
大々的な捜査がされている状態でなお、平也の逃亡を助けようなんて考える奴はいない。
それに、平也は誰のことも信用せず、連絡先を教えなかった。
信用しなかったのに、助けろなんて虫がいいことを言えるわけがない。
これまで隠れていた初田がこんな行動に出たのは、なにかきっかけがあるはずだ。
なにかが初田の背中を押した。
「......あのネルって女に話しかけられたとき、無視していればよかったのか?」
意味不明なことを言われ、俺に妹なんていねぇと切り返してしまった。人違いだったと頭を下げてネルが逃げたとき、追わなければよかったんだろうか。
もしくは、声をかけられた瞬間に初田のふりをすればよかったのか。
「にいさんは、ここにいますか?」
ネルは電話で初田にも聞いていた。ネルと初田にしか通じないのであろう、合い言葉のようななにか。
姿形は全く同じでも、生きてきた時間、出会った人、繋いだ絆は全く違う。
平也には“初田初斗だけが知る合い言葉の答え”は出せなかった。
なんと答えるのが正解だったのか、考えてもわからない。
平也が煩わしくて切り捨てた、人を信じて助け合う生き方を......初田は後生大事に抱えていた。
普通の人間にはなれなくても、普通を知りたいと願い、精神科医として歩んできた。
そして初田を信じてともに歩む人たちが初田の背中を押し、あの場所に、スタジオに立たせた。
たくさんの人と生きる初田と、誰も信用せず一人で生きる平也。
挑戦状を叩きつけられた瞬間に、勝敗は決していた。
(最初から、勝ち目なんてなかったんだな......馬鹿みてえだ。もういい、認めてやる。お前は俺と同類なんかじゃない。全然違う。初斗)
それから二日後、平也は近辺を捜索していた警官によって拘束された。
こうして、十年に及ぶ逃亡劇が幕を閉じた。