第4話:命の雫
洞窟に戻ったグリムを待っていたのは、安堵ではなく、早くアリスに乳を飲ませねばという焦りだった。
連れ帰った山羊は、慣れぬ暗がりに怯え、低い声で鳴き続けている。
グリムは疲弊した体に鞭打ち、山羊を岩の出っ張りへと繋ぎ止める。
アリスを帯から解き、乾いた草や葉っぱの上にそっと横たえる。
空腹だろう。
心なしかアリスの頬は、わずかに痩せた様に見えた。
その頬を優しく一撫でし拾い集めておいた枝に火を付ける。
やがて焚火が洞窟を照らし出し、グリムは山羊の元へと歩き出す。
グリムは山羊の傍らに膝をつき、鳴き止ませようと宥める。
少しして落ち着いたのを見計らい、その大きな乳房に手を伸ばした。
木皿に乳を満たし、早くアリスに与えなければならないという思いに焦りが募るが、やり方が分からない。
グリムは掌で乳房を恐る恐る掴み、下へ強く引いた。
「メェッ......!」
山羊が悲鳴を上げ、蹄で地面を蹴る。
慌てて手を離し、下に置いた木皿を見るが、一滴も乳は出ていなかった。
焦り再び乳房へと手を伸ばし、さらに力を込める。
力任せに引っ張られた痛みに山羊は暴れ、グリムの胸を突き上げた。
(......ちがう)
枯草の上で横たわるアリスは、胸を突き上げられた痛みにも負けずに山羊の乳を絞ろうとするグリムの手元をじっと見つめていた。
言葉は出ない。
けれど、記憶の底に沈んでいた感覚が、かすかに浮かび上がる。
引くのではない。
押し出す。
グリムは何度も試す。
徐々に乳房は更に赤くなり、山羊の呼吸が荒くなる。
彼の背に、目に見えない疲労が重なっていった。
「......でない......ちち......でない」
掠れた声が、洞窟に落ちる。
グリムは自分の無力さに腹が立ち、拳を握り地面に下ろしかけた、その時。
「あー......うっ」
アリスが声を上げた。
泣き声ではない。
短く、強い音。
グリムは動きを止め、ゆっくりと振り返る。
アリスは手足をばたつかせ、グリムに向けて指を輪にして掲げてゆっくりと上下に動かしてみせた。
そしてグリムの手をじっと見ていた。
掲げるアリスの手を見つめ。
グリムは自分の指を輪にしてみる。
もう一度アリスの手を見て自分と見比べる。
それから、もう一度、乳房を見る。
深く息を吸い、そして吐き出し山羊の首元を撫でた。
心を落ち着かせるように、ゆっくりと力を抜く。
親指と人差し指で、付け根を軽く締める。
輪を作り優しく触れる。
握っては開くを何度か繰り返す。
幾度目かで偶然が重なり。
ぴちゃ、と。
白い雫が、木皿に落ちた。
「......でた」
グリムは目を見開く。
同じ動きを、もう一度。
今度は、細い筋になって、乳が流れた。
木皿に、温かな白が溜まっていく。
(......あ)
グリムは慎重に皿を持ち上げ、アリスの元へ運んだ。
傾け、唇に一滴だけ落とす。
アリスは反射的にそれを啜り、飲み込んだ。
(......あったかい)
喉が動く。
もう一口。
さらに一口。
グリムはその様子を、瞬きもせず見つめていた。
「......のめ......ゆっくり」
皿が空になる頃、アリスは小さく息を吐き、目を細めた。
その様子を見た瞬間に、やり遂げた達成感にも似た何かが込み上げ、グリムの肩からドッと力が抜けた。
やがて、静まり返った洞窟に低い音が響き渡る。
一瞬遅れて気付く、自分の腹の音だったと。
自分が空腹だった事をすっかりと忘れていた。
グリムは荷袋に手を伸ばし、廃村の瓦礫の下で拾い集めた、乾ききった干し肉を二切れ掴み取る。
石のように硬いそれを、口に放り込み、噛み砕く。
ゴリッ、という音が洞窟に微かに響く。
グリムの顎が動くたび、首筋の筋が浮いた。
硬く塩辛い少し黴臭い肉だったが、それがやけに体に沁み渡っていく気がした。
ふと、グリムは我に返り、アリスを見る。
怖がっていないか、確かめるように。
アリスは、ぼんやりと彼を見ていた。
小さな手が、空を掴む。
彼は戸惑いながらも顔を近づけた。
その頬に、柔らかな感触が触れる。
無骨な頬を触りながら、アリスはグリムを見つめる。
(......ふしぎ、こわいはずなのに、こわくない)
グリムは一瞬固まり、それから、そっとその手を包んだ。
大きな掌が、小さな手を覆う。
「......だいじょうぶ......ここ......いる」
グリムはアリスを抱き上げ、苔と帆布の寝床へ戻った。
その隣に、自分の体を折るようにして横たわる。
細く長い腕が、囲いになる。
壊れてしまわないように、そっと優しく抱き寄せる。
まるで卵を温める親鳥のように。
アリスは胸元に顔を埋める。
ゆっくりとした鼓動が、耳に届く。
グリムは一定の間隔で、背を軽く叩いた。
確かめるように。
壊さないように。
守るように。
「......ねろ」
やがて、呼吸が整う。
アリスの寝顔を見ながら、そっとため息を吐く。
慌ただしい一日を振り返りつつ、明日のことを考える。
明日もやることはたくさんある。
だが、不思議と感じる充実感。
一人じゃないという事実が心を軽く、そして暖かくしてくれた。
グリムはアリスの穏やかに眠る様子を見届け、静かに目を閉じた。
洞窟の外は、まだ深い闇の中にある。
明日を迎える為に、この胸の温もりを糧に朝を待つ。
明日はこの子の為に何をしてやろうか。
そんな、ささやかな希望を枕にグリムは眠りに落ちていった。