ホーム›『世界一弱いお父ちゃん(ゴブリン)は、世界一あたたかい』 〜ゴブリンに育てられた少女アリスの成長譚〜›第5話:名前の響き
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第5話:名前の響き

安らかな眠りは、長くは続かなかった。
深夜、静かだった洞窟の夜を、いきなり切り裂くような声がした。

「ふぎゃあ、......あ、......あああーーん!」

跳ね起きるように身を起こしたのは、グリムだった。
彼は黄金の瞳を険しく光らせ、即座に傍らに置いた石斧へ手を伸ばす。
魔獣の奇襲か。あるいは、あの「爪跡」の主が来たのか。
だが、洞窟の入り口に異変はない。
悲鳴の主は、自分の腕の中にいた。

「......アリス......どう......した」

彼は武器を放り出し、おろおろとアリスを抱き上げた。
アリスの顔は真っ赤に熟れ、火がついたように泣き続けている。

(......ごめん。ごめんなさい。でも、止まらないの。気持ち悪くて、不快で、どうしようもないのよ......!)

アリスは心の中で叫んでいた。
空腹ではない。原因は、下半身を包む帆布の湿り気。
赤ん坊として生きる以上、避けられない生理現象だった。

グリムは混乱していた。
寝ている間に何処かにぶつけてしまったのか。
もしかしたら、何処かから入り込んだ虫にでも刺されてしまったのか。
注意深く調べるがアリスは泣き叫ぶばかりで一向に原因が分からない。


どうすれば良い? この小さな存在は、どうしてこんなに苦しんでいるのか、理解したくとも理解が出来ない。
彼はアリスを抱いたまま、洞窟内を右往左往した。

「......いたいか?......どこ......いたい?」

彼はぎこちなく、背や腕を撫でる。
熱はない。
傷も、ない。

指が、腰の辺りに触れた。
湿った感触。

鼻を鳴らし、ようやく理解する。

「......よごれた......これ......いやだったか」

彼は慌ててアリスを寝かせ、汚れた帆布を解いた。
だが、大きな指が、湿った布を外そうとするたびに、アリスの細い足に触れてしまう。
力を入れれば折れてしまいそうで、指が震えた。

「......くそ......おれ......て......おおきすぎる」

彼は自分の大きな手を煩わしく思い、自信を罵った。
焦れば焦るほど、アリスの泣き声は激しさを増していく。
その時、暗がりからのそりと動く気配がした。

「メェ......」

低く、気の抜けた声。
繋がれた山羊が、騒がしさに目を覚ましたらしい。
山羊は面倒そうに首を振ると、グリムの背中に鼻先を押し当て、グイと突いた。
まるで「さっさとしろ」と急かしているかのようだった。

「......おまえ......うるさい......いま......やってる」

そう言いながらも、少しだけ呼吸が整った。
不思議なものだ。

深く息を吸う。
 
彼はアリスの小さな踵を、壊れ物を扱うようにそっと持ち上げ、汚れを拭き取り新しい布を潜り込ませた。
湿った感覚が消え、アリスの泣き声が、次第に小さくなっていく。
グリムの額から汗が落ちた。
魔獣と向き合ったときより、よほど疲れている。

「......よし......きれい......もう......なくな」

彼はアリスを再び抱き上げ、ゆっくりと揺らした。
アリスの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
グリムは、アリスが泣き止んだことに心底安堵し、山羊の側まで歩いた。
山羊は相変わらず不遜な態度で、グリムが差し出した手を、ぺろりと一口舐めた。

「......おまえ......ちち......だした......アリス......たすけた......ありがとな」

不器用な感謝。
山羊はただ鼻を鳴らし、再び床に伏せた。
グリムもまた、山羊の温かな腹に背を預けるようにして、アリスを抱いたまま座り込んだ。
夜は、まだ深い。
聞こえるのは、三つの呼吸だけ。

「......アリス」
 
名前を呼ぶ。
それから、自分の胸を指した。

「......おれ......グリム」

アリスは、瞬きをした。

「......グリムだ」

自分の名前を、確かめるように繰り返す。
忘れていたわけじゃない。
でも、口にするのは、久しぶりだった。

自身を罵る声でしか呼ばれず、その度に耳を塞いでいた名だった。
だが、今はその名を知って貰いたい、覚えていて欲しいという想いが心を締め付ける。

(グリム......忘れないよ)

アリスは、彼の胸板をぺちりと叩き、小さな声で「あう」と応えた。
グリムの口元が、わずかに緩む。

だが、まだ足りない。
何かが、胸の奥で引っかかっている。

「......アリス......おれ......おとうちゃん......よべ......おとうちゃん......だ」

不格好な言葉。
似合わないのは、自分でも分かっている。
だが、繋がりが欲しかった。

黄金の瞳を逸らさず、じっとアリス目を見つめる。

(......おとうちゃん。......うん、そうだね。今の私には、あなたしかいないんだもの)

アリスは微笑み、まだ動かない舌を懸命に動かした。

「お、......う......あう......」

「......あ......いま......いったか......おとうちゃん......いったか」

彼は子供のように目を見開き、驚いた。
本当は、返事代わりに発した特に意味も無い言葉みたいなものに過ぎない。
けれど、彼にとっては、どんな勝利の咆哮よりも誇らしい響きだった。

「......よし......おれ......おとうちゃんだ......まもる......おまえ......ずっと、まもる」

ぎこちなく、けれど確かに抱きしめる。
強すぎないように。
離れすぎないように。
そして、守るように。

洞窟の外を、夜風が抜けていった。
それでも、この場所だけは、少し暖かい。
家と呼ぶには未だ程遠く、必死に集めたガラクタだけが唯一の財産だった。
だが、グリムにとって此処こそが、自分の新しい居場所になり始めていた。

気が付けば、安らかな寝息を立て始めた″嵐の主″。
その寝顔にグリムは、胸の奥から湧き上がる暖かな気持ちを感じつつ、静かに目を閉じる。

暗い洞窟の中、二人と一匹の家族の寝息が重なっていた。
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『世界一弱いお父ちゃん(ゴブリン)は、世界一あたたかい』 〜ゴブリンに育てられた少女アリスの成長譚〜作者:クワガタンク
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第5話:名前の響き

安らかな眠りは、長くは続かなかった。
深夜、静かだった洞窟の夜を、いきなり切り裂くような声がした。

「ふぎゃあ、......あ、......あああーーん!」

跳ね起きるように身を起こしたのは、グリムだった。
彼は黄金の瞳を険しく光らせ、即座に傍らに置いた石斧へ手を伸ばす。
魔獣の奇襲か。あるいは、あの「爪跡」の主が来たのか。
だが、洞窟の入り口に異変はない。
悲鳴の主は、自分の腕の中にいた。

「......アリス......どう......した」

彼は武器を放り出し、おろおろとアリスを抱き上げた。
アリスの顔は真っ赤に熟れ、火がついたように泣き続けている。

(......ごめん。ごめんなさい。でも、止まらないの。気持ち悪くて、不快で、どうしようもないのよ......!)

アリスは心の中で叫んでいた。
空腹ではない。原因は、下半身を包む帆布の湿り気。
赤ん坊として生きる以上、避けられない生理現象だった。

グリムは混乱していた。
寝ている間に何処かにぶつけてしまったのか。
もしかしたら、何処かから入り込んだ虫にでも刺されてしまったのか。
注意深く調べるがアリスは泣き叫ぶばかりで一向に原因が分からない。


どうすれば良い? この小さな存在は、どうしてこんなに苦しんでいるのか、理解したくとも理解が出来ない。
彼はアリスを抱いたまま、洞窟内を右往左往した。

「......いたいか?......どこ......いたい?」

彼はぎこちなく、背や腕を撫でる。
熱はない。
傷も、ない。

指が、腰の辺りに触れた。
湿った感触。

鼻を鳴らし、ようやく理解する。

「......よごれた......これ......いやだったか」

彼は慌ててアリスを寝かせ、汚れた帆布を解いた。
だが、大きな指が、湿った布を外そうとするたびに、アリスの細い足に触れてしまう。
力を入れれば折れてしまいそうで、指が震えた。

「......くそ......おれ......て......おおきすぎる」

彼は自分の大きな手を煩わしく思い、自信を罵った。
焦れば焦るほど、アリスの泣き声は激しさを増していく。
その時、暗がりからのそりと動く気配がした。

「メェ......」

低く、気の抜けた声。
繋がれた山羊が、騒がしさに目を覚ましたらしい。
山羊は面倒そうに首を振ると、グリムの背中に鼻先を押し当て、グイと突いた。
まるで「さっさとしろ」と急かしているかのようだった。

「......おまえ......うるさい......いま......やってる」

そう言いながらも、少しだけ呼吸が整った。
不思議なものだ。

深く息を吸う。
 
彼はアリスの小さな踵を、壊れ物を扱うようにそっと持ち上げ、汚れを拭き取り新しい布を潜り込ませた。
湿った感覚が消え、アリスの泣き声が、次第に小さくなっていく。
グリムの額から汗が落ちた。
魔獣と向き合ったときより、よほど疲れている。

「......よし......きれい......もう......なくな」

彼はアリスを再び抱き上げ、ゆっくりと揺らした。
アリスの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
グリムは、アリスが泣き止んだことに心底安堵し、山羊の側まで歩いた。
山羊は相変わらず不遜な態度で、グリムが差し出した手を、ぺろりと一口舐めた。

「......おまえ......ちち......だした......アリス......たすけた......ありがとな」

不器用な感謝。
山羊はただ鼻を鳴らし、再び床に伏せた。
グリムもまた、山羊の温かな腹に背を預けるようにして、アリスを抱いたまま座り込んだ。
夜は、まだ深い。
聞こえるのは、三つの呼吸だけ。

「......アリス」
 
名前を呼ぶ。
それから、自分の胸を指した。

「......おれ......グリム」

アリスは、瞬きをした。

「......グリムだ」

自分の名前を、確かめるように繰り返す。
忘れていたわけじゃない。
でも、口にするのは、久しぶりだった。

自身を罵る声でしか呼ばれず、その度に耳を塞いでいた名だった。
だが、今はその名を知って貰いたい、覚えていて欲しいという想いが心を締め付ける。

(グリム......忘れないよ)

アリスは、彼の胸板をぺちりと叩き、小さな声で「あう」と応えた。
グリムの口元が、わずかに緩む。

だが、まだ足りない。
何かが、胸の奥で引っかかっている。

「......アリス......おれ......おとうちゃん......よべ......おとうちゃん......だ」

不格好な言葉。
似合わないのは、自分でも分かっている。
だが、繋がりが欲しかった。

黄金の瞳を逸らさず、じっとアリス目を見つめる。

(......おとうちゃん。......うん、そうだね。今の私には、あなたしかいないんだもの)

アリスは微笑み、まだ動かない舌を懸命に動かした。

「お、......う......あう......」

「......あ......いま......いったか......おとうちゃん......いったか」

彼は子供のように目を見開き、驚いた。
本当は、返事代わりに発した特に意味も無い言葉みたいなものに過ぎない。
けれど、彼にとっては、どんな勝利の咆哮よりも誇らしい響きだった。

「......よし......おれ......おとうちゃんだ......まもる......おまえ......ずっと、まもる」

ぎこちなく、けれど確かに抱きしめる。
強すぎないように。
離れすぎないように。
そして、守るように。

洞窟の外を、夜風が抜けていった。
それでも、この場所だけは、少し暖かい。
家と呼ぶには未だ程遠く、必死に集めたガラクタだけが唯一の財産だった。
だが、グリムにとって此処こそが、自分の新しい居場所になり始めていた。

気が付けば、安らかな寝息を立て始めた″嵐の主″。
その寝顔にグリムは、胸の奥から湧き上がる暖かな気持ちを感じつつ、静かに目を閉じる。

暗い洞窟の中、二人と一匹の家族の寝息が重なっていた。
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