
Echo 07 『 虹の架け橋 』
ここはどこだ......?これは夢なのだろうか。 まるで意識の糸が一度千切れ、別の世界の織機に掛け直されたような感覚だ。 俺は、どこまでも丁寧に作り込まれた庭園のような場所にいた。踏みしめるレンガの小道は、硬く冷たい質感を足裏に返してくるが、周囲に漂う湿り気を帯びた花の芳香は、脳を直接痺れさせるほどに甘く濃い。 その迷宮のような緑の奥に、一人の少女が立っていた。「あら、やっと来たのね異邦人。私の姉が待ちくたびれてるわよ」「君は......?」「そんなこと気にしなくていいの。君は彼女を助けないといけないんだから」 そうだ。俺はハッとした。喉の奥にこびりついた鉄錆の味と、綾華が庇った時の衝撃が、神経を焼くような痛みと共に蘇る。「綾華はどこだ?!」「そんなに慌てないの。さっさとついて来なさい。話しながら行きましょ」 彼女は俺の動揺を置き去りにして、軽やかに、風を抱くように奥へ進んだ。「なぁ、一体ここはどこなんだ」「あぁ、まぁ私の意識の中って感じ? 固有結界と言ったところかしら」「君は味方なのか?」「あら、今の君は記憶喪失ってことになってるんだ」「......以前の俺を知っているかのような口ぶりだな」「そりゃそうよ。だってこれから会う姉さんは、あなたにとってお母さんみたいな存在なんだから」「血の繋がりがあるって意味か?」「比喩よ比喩。あんたの力が授けられたのは姉さんのおかげ。一つ良いことを教えてあげる」 彼女は一旦立ち止まり、くるりとこちらに身体を向けた。彼女の瞳が、至近距離で射抜くような光を放つ。「あなたが昔この世界を統べていた時は、姉さんは女神様なんて言われていたわ。」「それだけ私の姉は凄い人なんだから、時間を無駄に使わないでよね」「よく分からないんだが、この世界はどうなっているんだ」 彼女が背を向けて歩き出した。その小さな背中が、一瞬だけ夕闇に溶けるような、震えるほどの寂寥感を湛えた気がした。「......あんたの世界はアノマリーによって、現実の生と黄泉の死が混ざり合った世界なのよ」 真剣な面持ち。彼女の言葉が、冷たい水となって俺の背筋を伝い落ちる。「人間が作り出した妄想が次々と湧き出て、そりゃ阿鼻叫喚の地獄絵図だったわ」「そこで八咫烏財団やエリュシオン財閥と協力してこの世界を繋ぎ止めることに成功したの」「でも次に訪れたのは主導権の争い。みんな、あんたを狙っているわ」 眩暈がした。自分の存在が、巨大な重力を持ったブラックホールに変わったような圧迫感。「俺の能力が、そんなに災害級だってことか?」「使い道を間違えればね。だからだからこそ、そんなあなたを世界は見逃すはずがない」「いったい何のために......」 彼女は、蔦が絡まり色とりどりの花とオリーブで飾られたガーデニングドアの前で立ち止まった。「世界は終末に向かっているの。SCP-001......太陽がこの世を灼熱の地獄に変えてしまう。その『 運命のオートマタ 』を書き換えるには、『 時の振り子 』から主導権を奪還する必要がある」 一言一言が、石塊となって俺の胃の腑に溜まっていく。「でも、あなたならきっと大丈夫。さぁ行きましょ」 彼女が扉を開けると、まばゆい光の奔流が網膜を焼き、俺の身体を異次元へと吸い寄せた。「ここからは姉の世界よ。足元を見て震えないでよね」 そこは、虹色の橋が雲の海を貫く、物理法則を無視した極彩色の領域だった。虹の橋はガラスのように滑らかで、足を踏み出すたびに足裏から澄んだ振動が伝わってくる。「姉さんのところはもう少し先よ。」 彼女は軽やかに虹の橋を歩いて行った。「そういえばなんだが」「変な質問はしないでよね。全部姉に聞こえてるんだから」「君たちをどう呼べばいい?」 彼女は一拍置いて答えた。「私は岩倉 光来。姉さんは灯里よ。呼び捨てでいいわ」「......光来。この世界のことを、どう思っている?」 俺は綾香の言っていた残酷な現実という言葉に引っかかっていた。確かに今まで見てきた風景はまるで夢のようだと思っていた。甘奈も、まるで最初から俺のことを知っていたかのように。 彼女は少しだけ考えて答えた。「嘘の虚構がずっと存在してる。でもだからこそ、見え透いた嘘はすぐにばれる」 光来の表情は、喜びと怒りが混ざり合い、熱と冷気が同時に顔を出すような、複雑な色を帯びていた。「つまらない人間が減ったという意味では過ごしやすいのかもね」「じゃあなんで君たちは直接俺の前に姿を現さなかったんだ」「SCPっていうアノマリーが出た当初はね、ずっと犠牲者が出ていたの...あの辻ノ姉妹も同じ」「先輩たちが?」「そう、彼女たちはアノマリーに両親を目の前で56されたの」 俺はその言葉に固唾を飲んだ。「この場所はとても安全なの。暴漢に襲われる心配も無ければ、ならず者に侵入されることだってないし」「彼女たちに能力が発現したのはそのあと。記憶力が良すぎてしまったから、きっとあの当時のこと...あなたも含めて覚えているんでしょうね」 俺はそれを聞き、心臓を氷の指で撫でられたような寒気を覚えた。「い、いやだとしても俺はただの高校生だぞ」「あなただけが若返りしたとでも言うべきかしら...姉さんがあなたを助けたのよ。感謝してもしきれないくらいにね」「あなたにもう一度生きる権利を与えてくれた、そのことをしっかり噛みしめて、姉さんに失礼の無いようにね」 彼女の笑みはどこか慈しむような顔で俺を見つめながらそう言った。(命の恩人というわけか...)
俺は空高く太陽の輝くところにある雲の上に辿り着こうとしてた。「さぁ、ここが姉さんのところよ。失礼の無いように頑張りなさいよ」 光来は小さな雲を捕まえ、それに乗って下層へと消えた。俺は肺の奥まで空気を吸い込み、一人、最上層へと足を踏み入れた。 ―――
昼が夜に反転し、太陽の輝きがランプの淡い灯火へと変わる。どこか懐かしい、虫の音と光が漂う静けさが心地よい穏やかな静寂が肌を包み込む。「あら、お客様?」 奥から聞こえるのは、銀の鈴を転がすような、鼓膜を優しく愛撫する可憐な声。「こちらにいらしても構いませんわよ」 辿り着いた先には、揺らめく光に彩られたお茶会のような光景があった。「あら、お久しぶりね。今は...由記くんって呼べばいいかしら」 椅子に座る彼女――灯里の潤んだ唇と、吸い込まれそうな深い瞳が俺を射抜く。「今の君からしたら、はじめましてかな。私が灯里と言います。お会いできて嬉しいわ」 彼女は再会できた親友を迎えるかのように笑みが溢れ、座るように促した。 差し出されたカップ。熱い陶器の感触が指に伝わり、フルーティな香りが鼻の奥まで華やかに広がる。「この紅茶、とても好きなの」「フルーティな味わいですね...」 彼女の立ち振る舞いすべてが、熟した果実のような、芳醇な大人の香気を放っていた。「...少しばかり昔話に付き合ってくれるかしら...あぁ外のことは心配しなくていいんですよ。ここは別の時間軸だから大した影響はありませんわよ」 彼女は一拍置いて懐かしむような顔で話し始めた。「...まだあの頃は、混乱と闘争の世界だった。私も含め、みなが散り散りになって物資の奪い合いで互いに傷つけ合い、心も風紀も乱れた世の中でした」「そんな中、まるで運命が手繰り寄せたかのようにあなたに出会いました。あなたの言葉に耳を傾け、あなたのその姿に私は一生を捧げようと誓いました」「私はあなたに力を授け、次々と困難を打ち砕き、いつしかあなたは民衆から『正義の執行者』と称えられるようになりました」「しかし権力者たちは黙っているはずもなく、あなたの力を根こそぎ奪おうとしたのです。名目上はアノマリーの超常能力で民衆を惑わしたテロリストとして」「そこであなたは、その力が途絶えてしまわないように、その力を扱える人間22人へ継承されました」「あなたは、その奪われた力によって、記憶も身分も存在でさえも消され、深海の海底に沈められました」「私はあなたの妻でもあり、母なる女神です。あなたに救われた恩返しとして、私はあなたを水底の淵からあなたを探し出しました」 もし彼女の話が本当であれば、俺が記憶喪失なのも説明が出来る。「しかしではなぜ、何もかも失った俺を狙うやつらがいるんだ?」「それは私が説明するより、見た方が早いでしょう」 彼女はランプを手に取り、空中にふわりと持ち上げたかと思うとゆっくり上昇し、淡い月の光から太陽に変わった。彼女が両手で雲をかき分けるように合図すると、ひとりでに雲は開けた。「あれを見て」彼女が指を指した方向を見てみるとそこには
赤く染まるおぞましい数の目玉が飛び交い、樹木のような形をした超弩級衛星が空を横切るように佇んでいた。あまりの異様さに、内臓がせり上がるような不気味な圧迫感で呼吸が止まりそうになる。「あの名前はSCP-6002、通称『ユグドラシル』。あなたたちが『精霊』と呼んでいるデバイスはあの『ユグドラシル』によって管理、監視されているのですよ」「あなたはこの世界にとって『異分子』なのです。私とあなたによって顕現した『奇跡』は、彼らの監視社会にとって不都合な存在として見られています」「つまり俺たちはどこにいても狙われる身だというのか?」「確かにそうとも言えます。この中は外からも検知できないので基本的に大丈夫ですけれど」 彼女はカーテンを閉めるように雲で空を隠し、太陽を手に取ってランプに取り付けた。「そろそろ寝ましょう。あなたも身体を休めないと」「えっと...それってつまり?」「えぇ、私と一緒に寝るんですよ。それがどうかしたんですか?」 こんな絶世の美女と寝るだなんて...恥ずかしすぎる。 いやね?一応元夫?と言えばそりゃ当たり前なのかもしれないけどさ
だとしても節操ってものがあってだな!!! そうこう焦って戸惑っていると、彼女は俺を不思議そうに見つめ、下に目線が映ると驚きと興奮を隠していなかった。「あら、あんなに戦闘でボロボロでしたのに、お元気ですこと」「いいんですよ、ここは夢の中だと思って、私に身を委ねて...」 俺は定められた運命を呪うかのように、沈みゆく胸の中で灯里に問いかけた。「俺は思うんだ。こんなことに巻き込まれるくらいなら、どうしてあの時、俺を放っておいてくれなかったのかって」 灯里は困惑と悲しみの顔に満ちた表情で、しかしそれでも彼女は彼に伝えなければならなかった。「状況は厳しいかもしれません。しかしあなたは私たちの希望でもあり、救い主なのですから」 そう言うと彼女はこわばっている俺の身体を両手で優しく包み、その豊満で柔らかな胸元に顔を抱き寄せた。「あなたは決して一人なんかじゃありません。辛い時には私を思い出してください。どんな時でも私はあなたの味方ですから」 石鹸のような柔らかな匂いに包まれて、シルクのような肌触りの身体に顔を埋めた。どこにもぶつけられなかった悲しみとともに、あの冷たい海底の記憶をかき消すように、何度も、何度でも身体を重ねた。 彼女が操る雲は、まるで温かい風呂に沈んでいくような柔らかさで、全身の毛穴が弛緩していく。俺の意識は、彼女の甘い残り香と共に、深い眠りへと沈下した。「どうかあなたの行く道が、明るい至福に導かれますように...」
Echo 07 『 虹の架け橋 』
ここはどこだ......?これは夢なのだろうか。 まるで意識の糸が一度千切れ、別の世界の織機に掛け直されたような感覚だ。 俺は、どこまでも丁寧に作り込まれた庭園のような場所にいた。踏みしめるレンガの小道は、硬く冷たい質感を足裏に返してくるが、周囲に漂う湿り気を帯びた花の芳香は、脳を直接痺れさせるほどに甘く濃い。 その迷宮のような緑の奥に、一人の少女が立っていた。「あら、やっと来たのね異邦人。私の姉が待ちくたびれてるわよ」「君は......?」「そんなこと気にしなくていいの。君は彼女を助けないといけないんだから」 そうだ。俺はハッとした。喉の奥にこびりついた鉄錆の味と、綾華が庇った時の衝撃が、神経を焼くような痛みと共に蘇る。「綾華はどこだ?!」「そんなに慌てないの。さっさとついて来なさい。話しながら行きましょ」 彼女は俺の動揺を置き去りにして、軽やかに、風を抱くように奥へ進んだ。「なぁ、一体ここはどこなんだ」「あぁ、まぁ私の意識の中って感じ? 固有結界と言ったところかしら」「君は味方なのか?」「あら、今の君は記憶喪失ってことになってるんだ」「......以前の俺を知っているかのような口ぶりだな」「そりゃそうよ。だってこれから会う姉さんは、あなたにとってお母さんみたいな存在なんだから」「血の繋がりがあるって意味か?」「比喩よ比喩。あんたの力が授けられたのは姉さんのおかげ。一つ良いことを教えてあげる」 彼女は一旦立ち止まり、くるりとこちらに身体を向けた。彼女の瞳が、至近距離で射抜くような光を放つ。「あなたが昔この世界を統べていた時は、姉さんは女神様なんて言われていたわ。」「それだけ私の姉は凄い人なんだから、時間を無駄に使わないでよね」「よく分からないんだが、この世界はどうなっているんだ」 彼女が背を向けて歩き出した。その小さな背中が、一瞬だけ夕闇に溶けるような、震えるほどの寂寥感を湛えた気がした。「......あんたの世界はアノマリーによって、現実の生と黄泉の死が混ざり合った世界なのよ」 真剣な面持ち。彼女の言葉が、冷たい水となって俺の背筋を伝い落ちる。「人間が作り出した妄想が次々と湧き出て、そりゃ阿鼻叫喚の地獄絵図だったわ」「そこで八咫烏財団やエリュシオン財閥と協力してこの世界を繋ぎ止めることに成功したの」「でも次に訪れたのは主導権の争い。みんな、あんたを狙っているわ」 眩暈がした。自分の存在が、巨大な重力を持ったブラックホールに変わったような圧迫感。「俺の能力が、そんなに災害級だってことか?」「使い道を間違えればね。だからだからこそ、そんなあなたを世界は見逃すはずがない」「いったい何のために......」 彼女は、蔦が絡まり色とりどりの花とオリーブで飾られたガーデニングドアの前で立ち止まった。「世界は終末に向かっているの。SCP-001......太陽がこの世を灼熱の地獄に変えてしまう。その『 運命のオートマタ 』を書き換えるには、『 時の振り子 』から主導権を奪還する必要がある」 一言一言が、石塊となって俺の胃の腑に溜まっていく。「でも、あなたならきっと大丈夫。さぁ行きましょ」 彼女が扉を開けると、まばゆい光の奔流が網膜を焼き、俺の身体を異次元へと吸い寄せた。「ここからは姉の世界よ。足元を見て震えないでよね」 そこは、虹色の橋が雲の海を貫く、物理法則を無視した極彩色の領域だった。虹の橋はガラスのように滑らかで、足を踏み出すたびに足裏から澄んだ振動が伝わってくる。「姉さんのところはもう少し先よ。」 彼女は軽やかに虹の橋を歩いて行った。「そういえばなんだが」「変な質問はしないでよね。全部姉に聞こえてるんだから」「君たちをどう呼べばいい?」 彼女は一拍置いて答えた。「私は岩倉 光来。姉さんは灯里よ。呼び捨てでいいわ」「......光来。この世界のことを、どう思っている?」 俺は綾香の言っていた残酷な現実という言葉に引っかかっていた。確かに今まで見てきた風景はまるで夢のようだと思っていた。甘奈も、まるで最初から俺のことを知っていたかのように。 彼女は少しだけ考えて答えた。「嘘の虚構がずっと存在してる。でもだからこそ、見え透いた嘘はすぐにばれる」 光来の表情は、喜びと怒りが混ざり合い、熱と冷気が同時に顔を出すような、複雑な色を帯びていた。「つまらない人間が減ったという意味では過ごしやすいのかもね」「じゃあなんで君たちは直接俺の前に姿を現さなかったんだ」「SCPっていうアノマリーが出た当初はね、ずっと犠牲者が出ていたの...あの辻ノ姉妹も同じ」「先輩たちが?」「そう、彼女たちはアノマリーに両親を目の前で56されたの」 俺はその言葉に固唾を飲んだ。「この場所はとても安全なの。暴漢に襲われる心配も無ければ、ならず者に侵入されることだってないし」「彼女たちに能力が発現したのはそのあと。記憶力が良すぎてしまったから、きっとあの当時のこと...あなたも含めて覚えているんでしょうね」 俺はそれを聞き、心臓を氷の指で撫でられたような寒気を覚えた。「い、いやだとしても俺はただの高校生だぞ」「あなただけが若返りしたとでも言うべきかしら...姉さんがあなたを助けたのよ。感謝してもしきれないくらいにね」「あなたにもう一度生きる権利を与えてくれた、そのことをしっかり噛みしめて、姉さんに失礼の無いようにね」 彼女の笑みはどこか慈しむような顔で俺を見つめながらそう言った。(命の恩人というわけか...)
俺は空高く太陽の輝くところにある雲の上に辿り着こうとしてた。「さぁ、ここが姉さんのところよ。失礼の無いように頑張りなさいよ」 光来は小さな雲を捕まえ、それに乗って下層へと消えた。俺は肺の奥まで空気を吸い込み、一人、最上層へと足を踏み入れた。 ―――
昼が夜に反転し、太陽の輝きがランプの淡い灯火へと変わる。どこか懐かしい、虫の音と光が漂う静けさが心地よい穏やかな静寂が肌を包み込む。「あら、お客様?」 奥から聞こえるのは、銀の鈴を転がすような、鼓膜を優しく愛撫する可憐な声。「こちらにいらしても構いませんわよ」 辿り着いた先には、揺らめく光に彩られたお茶会のような光景があった。「あら、お久しぶりね。今は...由記くんって呼べばいいかしら」 椅子に座る彼女――灯里の潤んだ唇と、吸い込まれそうな深い瞳が俺を射抜く。「今の君からしたら、はじめましてかな。私が灯里と言います。お会いできて嬉しいわ」 彼女は再会できた親友を迎えるかのように笑みが溢れ、座るように促した。 差し出されたカップ。熱い陶器の感触が指に伝わり、フルーティな香りが鼻の奥まで華やかに広がる。「この紅茶、とても好きなの」「フルーティな味わいですね...」 彼女の立ち振る舞いすべてが、熟した果実のような、芳醇な大人の香気を放っていた。「...少しばかり昔話に付き合ってくれるかしら...あぁ外のことは心配しなくていいんですよ。ここは別の時間軸だから大した影響はありませんわよ」 彼女は一拍置いて懐かしむような顔で話し始めた。「...まだあの頃は、混乱と闘争の世界だった。私も含め、みなが散り散りになって物資の奪い合いで互いに傷つけ合い、心も風紀も乱れた世の中でした」「そんな中、まるで運命が手繰り寄せたかのようにあなたに出会いました。あなたの言葉に耳を傾け、あなたのその姿に私は一生を捧げようと誓いました」「私はあなたに力を授け、次々と困難を打ち砕き、いつしかあなたは民衆から『正義の執行者』と称えられるようになりました」「しかし権力者たちは黙っているはずもなく、あなたの力を根こそぎ奪おうとしたのです。名目上はアノマリーの超常能力で民衆を惑わしたテロリストとして」「そこであなたは、その力が途絶えてしまわないように、その力を扱える人間22人へ継承されました」「あなたは、その奪われた力によって、記憶も身分も存在でさえも消され、深海の海底に沈められました」「私はあなたの妻でもあり、母なる女神です。あなたに救われた恩返しとして、私はあなたを水底の淵からあなたを探し出しました」 もし彼女の話が本当であれば、俺が記憶喪失なのも説明が出来る。「しかしではなぜ、何もかも失った俺を狙うやつらがいるんだ?」「それは私が説明するより、見た方が早いでしょう」 彼女はランプを手に取り、空中にふわりと持ち上げたかと思うとゆっくり上昇し、淡い月の光から太陽に変わった。彼女が両手で雲をかき分けるように合図すると、ひとりでに雲は開けた。「あれを見て」彼女が指を指した方向を見てみるとそこには
赤く染まるおぞましい数の目玉が飛び交い、樹木のような形をした超弩級衛星が空を横切るように佇んでいた。あまりの異様さに、内臓がせり上がるような不気味な圧迫感で呼吸が止まりそうになる。「あの名前はSCP-6002、通称『ユグドラシル』。あなたたちが『精霊』と呼んでいるデバイスはあの『ユグドラシル』によって管理、監視されているのですよ」「あなたはこの世界にとって『異分子』なのです。私とあなたによって顕現した『奇跡』は、彼らの監視社会にとって不都合な存在として見られています」「つまり俺たちはどこにいても狙われる身だというのか?」「確かにそうとも言えます。この中は外からも検知できないので基本的に大丈夫ですけれど」 彼女はカーテンを閉めるように雲で空を隠し、太陽を手に取ってランプに取り付けた。「そろそろ寝ましょう。あなたも身体を休めないと」「えっと...それってつまり?」「えぇ、私と一緒に寝るんですよ。それがどうかしたんですか?」 こんな絶世の美女と寝るだなんて...恥ずかしすぎる。 いやね?一応元夫?と言えばそりゃ当たり前なのかもしれないけどさ
だとしても節操ってものがあってだな!!! そうこう焦って戸惑っていると、彼女は俺を不思議そうに見つめ、下に目線が映ると驚きと興奮を隠していなかった。「あら、あんなに戦闘でボロボロでしたのに、お元気ですこと」「いいんですよ、ここは夢の中だと思って、私に身を委ねて...」 俺は定められた運命を呪うかのように、沈みゆく胸の中で灯里に問いかけた。「俺は思うんだ。こんなことに巻き込まれるくらいなら、どうしてあの時、俺を放っておいてくれなかったのかって」 灯里は困惑と悲しみの顔に満ちた表情で、しかしそれでも彼女は彼に伝えなければならなかった。「状況は厳しいかもしれません。しかしあなたは私たちの希望でもあり、救い主なのですから」 そう言うと彼女はこわばっている俺の身体を両手で優しく包み、その豊満で柔らかな胸元に顔を抱き寄せた。「あなたは決して一人なんかじゃありません。辛い時には私を思い出してください。どんな時でも私はあなたの味方ですから」 石鹸のような柔らかな匂いに包まれて、シルクのような肌触りの身体に顔を埋めた。どこにもぶつけられなかった悲しみとともに、あの冷たい海底の記憶をかき消すように、何度も、何度でも身体を重ねた。 彼女が操る雲は、まるで温かい風呂に沈んでいくような柔らかさで、全身の毛穴が弛緩していく。俺の意識は、彼女の甘い残り香と共に、深い眠りへと沈下した。「どうかあなたの行く道が、明るい至福に導かれますように...」