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Echo 14 『 新原神社 』



「...とうとう、うちら2人だけになったね~」
「暗くなる前に早くいかないとな」
「ちょ、まだ降おりたばっかだから...待っててばー」

 山に足を踏ふみ入れた瞬間しゅんかんに世界が切り替わった。

 外界の乾かわいた熱気は嘘のように霧散むさんし、肌はだを撫なでる風が、しっとりとした重おもみを帯おびていく。
 鳥居とりいをくぐり抜ぬけた先、そこに広がっていたのは、数千年の時を止めたままの「森羅しんら万象ばんしょう」だった。足の裏から伝つたわる参道さんどうの石畳いしだたみは、幾万人いくまんにんの足跡あしあとに磨みがかれて驚おどろくほど滑なめらかだ。けれど、その奥には確かな硬かたさが残っている。

 左右から迫せまりくる杉の巨木たちは、天を突く矛ほこのようにそびえ立ち、威圧感を持って俺を迎え入れた。ふと、その厚い樹皮じゅひに触れてみる。指先を這はわせると、ゴツゴツとした生命の年輪が手のひらを強く押し返してきた。見上げれば、重なり合う枝葉が天然の天蓋てんがいとなり、陽光を無数の断片へと砕くだいている。時折、その光の粒つぶが頬ほほを掠かすめる。微かすかな熱と、森の深い呼吸が肌に触れ、俺は小さく息を呑のんだ。

 道沿いを流れる新原にいばる川のせせらぎが、鼓膜こまくを心地よく震わせる。それは単なる音ではなく、空間全体を支配する清涼せいりょうな脈動だ。飛沫ひまつが弾はじけるたびに、冷ひやされた空気が薄いベールのようになって全身を包み込み、首筋に滲にじんだ汗をゆっくりと奪い去っていく。

 視線を上げると、この聖域の真骨頂である「巨岩」がその姿を現した。
「行者岩ぎょうじゃいわ」に「鞍掛岩くらかけいわ」――それらは湿しめった苔こけを分厚く纏まとい、どっしりとした湿り気を放ちながらそこに鎮座ちんざしていた。岩肌に近づけば、太古の火山活動が残した荒々しい質感と、雨露あまつゆをたっぷりと吸い込んだ土の匂いが鼻を突く。巨大な岩の割れ目に、まるで吸い込まれるようにして建てられた朱塗しゅぬりの社殿しゃでん。

 その古びた木材が放つ微かすかな脂やにの匂いと、長い年月をかけて染み付いたお香の香りが混じり合い、肺の奥まで清められていくのを感じる。さらに奥へ進むため、急峻きゅうしゅんな石段に足をかけた。一段、また一段と踏みしめるたび、太ももに心地よい負荷がかかり、呼吸はわずかに熱を帯おびていく。だが、その熱い息を吐き出すたびに、自分の中に溜まっていた濁にごりが洗われていくような、不思議な感覚に包まれた。

 最奥の「御姿岩みすがたいわ」に辿たどり着いたとき、俺の五感は最高潮に達した。社殿しゃでんの背後に覆おおいかぶさるようにそびえる巨岩。それはもはや無機質な石などではなく、意志を持った巨大な生き物そのものに見えた。岩から滲にじみ出る静かな冷気、絶え間なく滴したたり落ちる水の音。そして、森全体が発する「静かな轟音ごうおん」。その力に圧倒され、ただ立ち尽くす。そのとき、俺の皮膚ひふは確かに、この森の一部として溶け込んでいくのを感じていた。

「そ、そんなに急ぐことないじゃない...」
 その声に現実に意識が呼び戻され、我に返った。

「もう少しだから、そこで休もう」

「あぁ...一体どこなのよ~、その場所ってのは」
 苛いら立ちを隠せない麻椰まやをなだめていると、背後から澄すんだ声が響ひびいた。

「あのぉ...参拝客でしょうか?」

 振り返ると、夕日でオレンジ色に染まったその頬は、どこか透き通るような非現実的な質感を湛たたえていた。その瞳には動揺と困惑、そして淡あわい期待が混じり合っている。

「も、もしかして...執行者様?」

「あ、あぁ確かにそのように聞いているが」
 言い終わらぬうちに、その龍巫女は俺の両手を固く握にぎりしめた。彼女の手のひらは驚くほど熱く、指先に触れる柔やわらかな感触から、言葉以上の切実さが伝わってくる。

「ずっとお慕したいしておりました。お会いできて光栄ですっ!」
 彼女の異様な期待とは裏腹に、俺は記憶喪失であるため全く実感が湧わかなかった。

「会って早々そうそうで悪いんだが...由依ゆいはここで看病されていると聞いてきたんだ」

 俺がそう告げると、彼女はハッとした顔で手を離し、しとやかに両手を重ねた。
「これは失礼いたしました。私ここの巫女をしております若林わかばやし 杏奈あんなと申します。」

 彼女は出会いの喜びを隠せぬまま、指先を細かく絡からませ、強張こわばった肩を震わせながら、精一杯の緊張感でもてなそうとしていた。
「では、こちらにどうぞっ!」

 彼女の先導に俺と麻椰まやは付いて行った。

 ―――

 ――― 社務室しゃむしつにて



「ほらぁ、苦いかもしれないけどちゃんと飲むのよ」
 奥の部屋では、もう一人の龍巫女が布団に横たわる由依ゆいを看病していた。

 由依ゆいは高熱に浮かされ、乱れた吐息と共に身体を小さく震わせている。その肌は不自然な熱を放ち、苦しげに胸を上下させていた。

「はぁ...お姉さんが誘拐ゆうかいされた上に、この子も攫さらわれて捨てられていただなんて...不憫ふびんよね」

「お姉さん、お客様がいらっしゃいましたよ」

 その声に、看病していた巫女が少しだけ声を尖とがらせた。
「今看病中なんだから、お客さんは後で...って」
 振り返った彼女の視線が、俺の姿を捉とらえて止まった。

「由依ゆいっ!!!」
 俺は荒々あらあらしく靴を脱ぎ捨て、足裏に畳たたみの摩擦まさつを感じながら由依ゆいの傍かたわらへ駆かけ寄った。

「ちょ、ちょっと!病気が移ったらどうすんの!ただでさえ危篤きとくな状態だってのに」

「...ふぅ...はぁ...由記ゆうきお兄ちゃん?」

「由依ゆい!無事だったのか。ごめん、ごめんよ...忘れてしまって...」
 俺は込み上げる涙を堪こらえきれず、由依ゆいの熱い身体を壊さないよう、けれど確かめるように抱きしめた。

「お姉ちゃんが...連れていかれてしまったの...」

「あぁ、話は聞いてる。俺が必ず、甘奈あまなを助け出してやるからな」

「...そう...由記ゆうきお兄ちゃんなら、出来るって信じてるから。お姉ちゃんをお願い...」
 彼女は安堵あんどしたのか、強張こわばっていた身体をふっと緩ゆるめ、規則正しい寝息を立て始めた。

「......あなたの大切な人の妹さんだったのね」

「そうだ。俺はここに来て、甘奈あまなのことも聞こうと思っていたんだ」
 俺は真剣な眼差まなざしで彼女に懇願こんがんした。

「どうすればいい?俺に何かできることはあるか?」

「...あのね、急ぎたい気持ちは分かるんだけど、杏奈あんなの儀式ぎしきの準備もしなきゃいけないし、結構大掛おおがかりなの。だから数日間、ここに泊とまっていきなさい」

「あぁ、ようやく休めるぅ...くたくただよぉ」
 麻椰まやが畳たたみの上でゴロンと仰あお向けになり、手足を大きく伸ばした。硬い畳たたみが背中を支える感触に、全ての緊張が抜けていく。

「そうね。執行者は記憶損失だって言うし、少し状況を整理したいところだしね」

 彼女はそう言うと俺を見て少しバツが悪そうな顔になった。
「えっと...自己紹介が遅おくれたけど、私ここの巫女をしてる若林わかばやし 佑果ゆうかと言います。あなたたちには悪いけど、しばらく協力してもらうわ」

「あぁ~、ご飯食べられるなら嬉しいんだけどなぁ」

「こら麻椰まや、一応お世話になる身なんだから、そんなことは言わない」

「えぇだって、そしたらどこで食べるのさ。魚でも釣って焼いて食うの?」
 ...まぁ確かに、一方的にこちらから押しかけているようなものだから、そのあたりはもう少ししっかり考えておくべきだったな。

「まぁいいでしょう。ただし、ここはホテルじゃありませんから、1日2食までです。今回は特別ですよ」

 あぁ、助かった。俺と麻椰まやが安堵あんどした瞬間、腹の底から情なさけない音が鳴り響いた。
「早速さっそくで悪いけど、ごちそうになってもいいかな?」

「えぇ、すぐに用意いたしますので待ってくださいね、執行者様!」

「こらぁ、そうやって勝手に決めないの杏奈あんな。嬉うれしいのは分かるけど、もう少し計画的にやりなさいよね」
 杏奈あんなが嬉しそうに駆け出していく。佑果ゆうかはその背中を見送りながら、小さく溜息ためいきをついた。

 拝殿はいでんを揺ゆらす風の音が、遠くで低く唸うなっている。さっきまで歩いていた参道さんどうの険けわしさが、今はこの静かな社務室しゃむしつの畳たたみを通じて、じんわりとした下半身の重だるさとして残っていた。

「さあ、冷さめないうちに召し上がってください」

 杏奈あんなが運んできたおぼんが、低めの木机にコトリと置かれた。漆塗しつぬりの御椀おわんから立ち上のぼる湯気ゆげが、目の前でゆらゆらと白く踊おどっている。鼻先をかすめたのは、どこか懐なつかしい、発酵はっこうした味噌みその濃い香りと、炊たき立ての米が放はなつ甘い芳香ぼうこうだ。

 まずは、箸はしを割る。指先に伝わる割り箸ばしの、カサリとした白木はくぼくの感触。それを丁寧に割り、まずはみそ汁の御椀おわんを手に取った。指先から伝わる御椀おわんの熱が、かじかんでいた手のひらをじわじわと解とかしていく。

 一口、汁を啜すする。
「......あぁ」
 熱い液体が喉のどを通り、胃の奥まで真っ直ぐに落ちていく感覚。出汁だしの旨味うまみと味噌みその塩気しおけが、染み渡るように五臓六腑ごぞうろっぷに広がった。具材の豆腐とうふは、舌の上で頼りなく崩れ、その淡白な甘みが荒あれた心まで穏おだやかにしてくる。

 次に、茶碗ちゃわんにこんもりと盛もられた白い米に箸を伸ばす。粒の立った米を一口頬ほお張れば、噛むたびに程よい弾力が歯を押し返し、唾液だえきと混ざり合って濃厚な甘みへと変わっていく。この、重みのある「主食」の感覚が、今まさに自分の生命いのちを繋つないでいるのだと、心の奥底で噛みしめる。

 箸休めに、小皿の漬物つけものをつまむ。薄く切られた黄色に染められた沢庵たくあんを噛み締めると、ポリッ、ポリッという小気味よい音が、静かな部屋の中で自分の頭蓋とうがいに響ひびいた。ひんやりとした冷たさと、ツンと鼻に抜ける酸味。それが、米の甘みで満たされた口内を、鋭するどく、それでいて心地よく引き締めてくれる。

「どう?見栄みばえこそしないかもしれないけど、これでも十分美味おいしいでしょ」
 向かい側に座る佑果ゆうかが、少しだけ表情を緩ゆるめて訊たずねてきた。

「......ああ。生き返るよ」

 外ではまだ、新原にいばる山の深い森がざわめいている。けれど、この四畳半ほどの空間には、ただ米を噛み締める音と、汁を啜すする温あたたかな気配けはいだけが充満していた。簡素かんそな食事。けれど、この確かな味と感触こそが、今、俺がこの「現実」に立っている唯一の証拠のように思えた。

「あぁ~お腹いっぱい。このまま寝ちゃいそう」

「布団は押し入れの中にありますから、好きに使ってくださいね」
 杏奈あんなはそう言うと、俺たちの食器を片付けてくれた。

「ありがとう杏奈あんな。俺も手伝うよ」

「あ、あの...その...」
 杏奈あんなは顔を赤らめ、両手で指先をモジモジとした。

「えっと、どうしたんだ?」

「もう、そのくらい察さっしなさいよ。あんたが近くにいるせいで、杏奈あんなが集中できないんだから、余計なお世話よ」
 佑果ゆうかは俺に文句を言うと、俺は苦笑した。

「べっ、別に!嫌いとかじゃありませんから!!その...嬉しくて」

「杏奈あんな、夜も遅くなってきたんだし早く片付けないと」

「あぁ~!すみませんっ、今すぐ片付けてきますからぁ!」
 杏奈あんなはドタバタと速足はやあしで食器を下げて持っていった。

「えっと...杏奈あんなちゃんっていつもあんな感じなのか?」

「どうでしょうね~、毎日あんたの抱き枕を抱きしめてるくらいには意識してるんでしょうけど」
 ...喜べばいいのか、笑えばいいのか。

 佑果ゆうかの苦言に苦笑いしていると、厨房ちゅうぼうの方でドッシャーーン!!と派手はでな音が響いた。
「あぁ!!!うぅ...食器を落としちゃいました...」

(......あんな調子ちょうしだと心配なんだよな)

「はぁ...私が見に行くから、あんたたちは寝る準備をしなさいな」
 佑果ゆうかは畳を力強く蹴って立ち上がり、厨房ちゅうぼうへと駆け込んでいった。

 麻椰まやの不慣れな手つきを借りて布団を敷しき、俺たちは由依ゆいの隣室で休むことにした。
「うち布団人生2度目!!あぁ布団で寝れるなんて幸せ~」

「麻椰まや、未夏みかの身体にいた時はノーカンなのか?」

「えぇ~?まぁ快適だったけど、狭いし手足伸ばしにくいしで自由ではなかったかも?」

「...今のは聞かなかったことにするよ」
 俺は若干の気まずさを覚えながら、布団のシーツの糊のりのきいた感触と、社務室に漂ただよう乾かわいた野草の匂いが、身体を深い眠りへと誘さそう。

「ふわぁ~、お腹いっぱいで眠いし、うち先に寝るね~」

「あぁ、おやすみ」
 電灯の紐ひもを力強く引き、目を瞑つぶった。何分だっただろうか。意識が闇やみに落ちかけたその時。
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「...とうとう、うちら2人だけになったね~」
「暗くなる前に早くいかないとな」
「ちょ、まだ降おりたばっかだから...待っててばー」

 山に足を踏ふみ入れた瞬間しゅんかんに世界が切り替わった。

 外界の乾かわいた熱気は嘘のように霧散むさんし、肌はだを撫なでる風が、しっとりとした重おもみを帯おびていく。
 鳥居とりいをくぐり抜ぬけた先、そこに広がっていたのは、数千年の時を止めたままの「森羅しんら万象ばんしょう」だった。足の裏から伝つたわる参道さんどうの石畳いしだたみは、幾万人いくまんにんの足跡あしあとに磨みがかれて驚おどろくほど滑なめらかだ。けれど、その奥には確かな硬かたさが残っている。

 左右から迫せまりくる杉の巨木たちは、天を突く矛ほこのようにそびえ立ち、威圧感を持って俺を迎え入れた。ふと、その厚い樹皮じゅひに触れてみる。指先を這はわせると、ゴツゴツとした生命の年輪が手のひらを強く押し返してきた。見上げれば、重なり合う枝葉が天然の天蓋てんがいとなり、陽光を無数の断片へと砕くだいている。時折、その光の粒つぶが頬ほほを掠かすめる。微かすかな熱と、森の深い呼吸が肌に触れ、俺は小さく息を呑のんだ。

 道沿いを流れる新原にいばる川のせせらぎが、鼓膜こまくを心地よく震わせる。それは単なる音ではなく、空間全体を支配する清涼せいりょうな脈動だ。飛沫ひまつが弾はじけるたびに、冷ひやされた空気が薄いベールのようになって全身を包み込み、首筋に滲にじんだ汗をゆっくりと奪い去っていく。

 視線を上げると、この聖域の真骨頂である「巨岩」がその姿を現した。
「行者岩ぎょうじゃいわ」に「鞍掛岩くらかけいわ」――それらは湿しめった苔こけを分厚く纏まとい、どっしりとした湿り気を放ちながらそこに鎮座ちんざしていた。岩肌に近づけば、太古の火山活動が残した荒々しい質感と、雨露あまつゆをたっぷりと吸い込んだ土の匂いが鼻を突く。巨大な岩の割れ目に、まるで吸い込まれるようにして建てられた朱塗しゅぬりの社殿しゃでん。

 その古びた木材が放つ微かすかな脂やにの匂いと、長い年月をかけて染み付いたお香の香りが混じり合い、肺の奥まで清められていくのを感じる。さらに奥へ進むため、急峻きゅうしゅんな石段に足をかけた。一段、また一段と踏みしめるたび、太ももに心地よい負荷がかかり、呼吸はわずかに熱を帯おびていく。だが、その熱い息を吐き出すたびに、自分の中に溜まっていた濁にごりが洗われていくような、不思議な感覚に包まれた。

 最奥の「御姿岩みすがたいわ」に辿たどり着いたとき、俺の五感は最高潮に達した。社殿しゃでんの背後に覆おおいかぶさるようにそびえる巨岩。それはもはや無機質な石などではなく、意志を持った巨大な生き物そのものに見えた。岩から滲にじみ出る静かな冷気、絶え間なく滴したたり落ちる水の音。そして、森全体が発する「静かな轟音ごうおん」。その力に圧倒され、ただ立ち尽くす。そのとき、俺の皮膚ひふは確かに、この森の一部として溶け込んでいくのを感じていた。

「そ、そんなに急ぐことないじゃない...」
 その声に現実に意識が呼び戻され、我に返った。

「もう少しだから、そこで休もう」

「あぁ...一体どこなのよ~、その場所ってのは」
 苛いら立ちを隠せない麻椰まやをなだめていると、背後から澄すんだ声が響ひびいた。

「あのぉ...参拝客でしょうか?」

 振り返ると、夕日でオレンジ色に染まったその頬は、どこか透き通るような非現実的な質感を湛たたえていた。その瞳には動揺と困惑、そして淡あわい期待が混じり合っている。

「も、もしかして...執行者様?」

「あ、あぁ確かにそのように聞いているが」
 言い終わらぬうちに、その龍巫女は俺の両手を固く握にぎりしめた。彼女の手のひらは驚くほど熱く、指先に触れる柔やわらかな感触から、言葉以上の切実さが伝わってくる。

「ずっとお慕したいしておりました。お会いできて光栄ですっ!」
 彼女の異様な期待とは裏腹に、俺は記憶喪失であるため全く実感が湧わかなかった。

「会って早々そうそうで悪いんだが...由依ゆいはここで看病されていると聞いてきたんだ」

 俺がそう告げると、彼女はハッとした顔で手を離し、しとやかに両手を重ねた。
「これは失礼いたしました。私ここの巫女をしております若林わかばやし 杏奈あんなと申します。」

 彼女は出会いの喜びを隠せぬまま、指先を細かく絡からませ、強張こわばった肩を震わせながら、精一杯の緊張感でもてなそうとしていた。
「では、こちらにどうぞっ!」

 彼女の先導に俺と麻椰まやは付いて行った。

 ―――

 ――― 社務室しゃむしつにて



「ほらぁ、苦いかもしれないけどちゃんと飲むのよ」
 奥の部屋では、もう一人の龍巫女が布団に横たわる由依ゆいを看病していた。

 由依ゆいは高熱に浮かされ、乱れた吐息と共に身体を小さく震わせている。その肌は不自然な熱を放ち、苦しげに胸を上下させていた。

「はぁ...お姉さんが誘拐ゆうかいされた上に、この子も攫さらわれて捨てられていただなんて...不憫ふびんよね」

「お姉さん、お客様がいらっしゃいましたよ」

 その声に、看病していた巫女が少しだけ声を尖とがらせた。
「今看病中なんだから、お客さんは後で...って」
 振り返った彼女の視線が、俺の姿を捉とらえて止まった。

「由依ゆいっ!!!」
 俺は荒々あらあらしく靴を脱ぎ捨て、足裏に畳たたみの摩擦まさつを感じながら由依ゆいの傍かたわらへ駆かけ寄った。

「ちょ、ちょっと!病気が移ったらどうすんの!ただでさえ危篤きとくな状態だってのに」

「...ふぅ...はぁ...由記ゆうきお兄ちゃん?」

「由依ゆい!無事だったのか。ごめん、ごめんよ...忘れてしまって...」
 俺は込み上げる涙を堪こらえきれず、由依ゆいの熱い身体を壊さないよう、けれど確かめるように抱きしめた。

「お姉ちゃんが...連れていかれてしまったの...」

「あぁ、話は聞いてる。俺が必ず、甘奈あまなを助け出してやるからな」

「...そう...由記ゆうきお兄ちゃんなら、出来るって信じてるから。お姉ちゃんをお願い...」
 彼女は安堵あんどしたのか、強張こわばっていた身体をふっと緩ゆるめ、規則正しい寝息を立て始めた。

「......あなたの大切な人の妹さんだったのね」

「そうだ。俺はここに来て、甘奈あまなのことも聞こうと思っていたんだ」
 俺は真剣な眼差まなざしで彼女に懇願こんがんした。

「どうすればいい?俺に何かできることはあるか?」

「...あのね、急ぎたい気持ちは分かるんだけど、杏奈あんなの儀式ぎしきの準備もしなきゃいけないし、結構大掛おおがかりなの。だから数日間、ここに泊とまっていきなさい」

「あぁ、ようやく休めるぅ...くたくただよぉ」
 麻椰まやが畳たたみの上でゴロンと仰あお向けになり、手足を大きく伸ばした。硬い畳たたみが背中を支える感触に、全ての緊張が抜けていく。

「そうね。執行者は記憶損失だって言うし、少し状況を整理したいところだしね」

 彼女はそう言うと俺を見て少しバツが悪そうな顔になった。
「えっと...自己紹介が遅おくれたけど、私ここの巫女をしてる若林わかばやし 佑果ゆうかと言います。あなたたちには悪いけど、しばらく協力してもらうわ」

「あぁ~、ご飯食べられるなら嬉しいんだけどなぁ」

「こら麻椰まや、一応お世話になる身なんだから、そんなことは言わない」

「えぇだって、そしたらどこで食べるのさ。魚でも釣って焼いて食うの?」
 ...まぁ確かに、一方的にこちらから押しかけているようなものだから、そのあたりはもう少ししっかり考えておくべきだったな。

「まぁいいでしょう。ただし、ここはホテルじゃありませんから、1日2食までです。今回は特別ですよ」

 あぁ、助かった。俺と麻椰まやが安堵あんどした瞬間、腹の底から情なさけない音が鳴り響いた。
「早速さっそくで悪いけど、ごちそうになってもいいかな?」

「えぇ、すぐに用意いたしますので待ってくださいね、執行者様!」

「こらぁ、そうやって勝手に決めないの杏奈あんな。嬉うれしいのは分かるけど、もう少し計画的にやりなさいよね」
 杏奈あんなが嬉しそうに駆け出していく。佑果ゆうかはその背中を見送りながら、小さく溜息ためいきをついた。

 拝殿はいでんを揺ゆらす風の音が、遠くで低く唸うなっている。さっきまで歩いていた参道さんどうの険けわしさが、今はこの静かな社務室しゃむしつの畳たたみを通じて、じんわりとした下半身の重だるさとして残っていた。

「さあ、冷さめないうちに召し上がってください」

 杏奈あんなが運んできたおぼんが、低めの木机にコトリと置かれた。漆塗しつぬりの御椀おわんから立ち上のぼる湯気ゆげが、目の前でゆらゆらと白く踊おどっている。鼻先をかすめたのは、どこか懐なつかしい、発酵はっこうした味噌みその濃い香りと、炊たき立ての米が放はなつ甘い芳香ぼうこうだ。

 まずは、箸はしを割る。指先に伝わる割り箸ばしの、カサリとした白木はくぼくの感触。それを丁寧に割り、まずはみそ汁の御椀おわんを手に取った。指先から伝わる御椀おわんの熱が、かじかんでいた手のひらをじわじわと解とかしていく。

 一口、汁を啜すする。
「......あぁ」
 熱い液体が喉のどを通り、胃の奥まで真っ直ぐに落ちていく感覚。出汁だしの旨味うまみと味噌みその塩気しおけが、染み渡るように五臓六腑ごぞうろっぷに広がった。具材の豆腐とうふは、舌の上で頼りなく崩れ、その淡白な甘みが荒あれた心まで穏おだやかにしてくる。

 次に、茶碗ちゃわんにこんもりと盛もられた白い米に箸を伸ばす。粒の立った米を一口頬ほお張れば、噛むたびに程よい弾力が歯を押し返し、唾液だえきと混ざり合って濃厚な甘みへと変わっていく。この、重みのある「主食」の感覚が、今まさに自分の生命いのちを繋つないでいるのだと、心の奥底で噛みしめる。

 箸休めに、小皿の漬物つけものをつまむ。薄く切られた黄色に染められた沢庵たくあんを噛み締めると、ポリッ、ポリッという小気味よい音が、静かな部屋の中で自分の頭蓋とうがいに響ひびいた。ひんやりとした冷たさと、ツンと鼻に抜ける酸味。それが、米の甘みで満たされた口内を、鋭するどく、それでいて心地よく引き締めてくれる。

「どう?見栄みばえこそしないかもしれないけど、これでも十分美味おいしいでしょ」
 向かい側に座る佑果ゆうかが、少しだけ表情を緩ゆるめて訊たずねてきた。

「......ああ。生き返るよ」

 外ではまだ、新原にいばる山の深い森がざわめいている。けれど、この四畳半ほどの空間には、ただ米を噛み締める音と、汁を啜すする温あたたかな気配けはいだけが充満していた。簡素かんそな食事。けれど、この確かな味と感触こそが、今、俺がこの「現実」に立っている唯一の証拠のように思えた。

「あぁ~お腹いっぱい。このまま寝ちゃいそう」

「布団は押し入れの中にありますから、好きに使ってくださいね」
 杏奈あんなはそう言うと、俺たちの食器を片付けてくれた。

「ありがとう杏奈あんな。俺も手伝うよ」

「あ、あの...その...」
 杏奈あんなは顔を赤らめ、両手で指先をモジモジとした。

「えっと、どうしたんだ?」

「もう、そのくらい察さっしなさいよ。あんたが近くにいるせいで、杏奈あんなが集中できないんだから、余計なお世話よ」
 佑果ゆうかは俺に文句を言うと、俺は苦笑した。

「べっ、別に!嫌いとかじゃありませんから!!その...嬉しくて」

「杏奈あんな、夜も遅くなってきたんだし早く片付けないと」

「あぁ~!すみませんっ、今すぐ片付けてきますからぁ!」
 杏奈あんなはドタバタと速足はやあしで食器を下げて持っていった。

「えっと...杏奈あんなちゃんっていつもあんな感じなのか?」

「どうでしょうね~、毎日あんたの抱き枕を抱きしめてるくらいには意識してるんでしょうけど」
 ...喜べばいいのか、笑えばいいのか。

 佑果ゆうかの苦言に苦笑いしていると、厨房ちゅうぼうの方でドッシャーーン!!と派手はでな音が響いた。
「あぁ!!!うぅ...食器を落としちゃいました...」

(......あんな調子ちょうしだと心配なんだよな)

「はぁ...私が見に行くから、あんたたちは寝る準備をしなさいな」
 佑果ゆうかは畳を力強く蹴って立ち上がり、厨房ちゅうぼうへと駆け込んでいった。

 麻椰まやの不慣れな手つきを借りて布団を敷しき、俺たちは由依ゆいの隣室で休むことにした。
「うち布団人生2度目!!あぁ布団で寝れるなんて幸せ~」

「麻椰まや、未夏みかの身体にいた時はノーカンなのか?」

「えぇ~?まぁ快適だったけど、狭いし手足伸ばしにくいしで自由ではなかったかも?」

「...今のは聞かなかったことにするよ」
 俺は若干の気まずさを覚えながら、布団のシーツの糊のりのきいた感触と、社務室に漂ただよう乾かわいた野草の匂いが、身体を深い眠りへと誘さそう。

「ふわぁ~、お腹いっぱいで眠いし、うち先に寝るね~」

「あぁ、おやすみ」
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