サイコパス 異世界を征く
景山千尋は迷っていた。歩き回っているうちに夜が明け、朝日が昇ってしばらく経っていた。
短めの黒髪や、前髪の隙間から覗く額には汗が滲む。その汗は端正な顔を伝い流れ落ちていく。オフホワイトのオックスフォードシャツに、黒のスキーニージーンズに革靴と、森の中を歩くには不向きな服装だが、違和感は服装だけではなかった。シャツにおびただしい返り血がついており、時間の経過と共に、鮮やかな赤から錆色へと変色していた。
血の匂いを感じながら過ごせるのは千尋にとっては僥倖だが、そもそも何故ここにいるのかも分からず、目的地が分からない時点で、五里霧中もいいところだった。
鳥だか獣だかの鳴き声がして、千尋は周りを見る。何が潜んでいるのかも分からないこの仄暗い森の中を、愛用のダマスカスナイフ一本で闊歩する。背の高い木々が覆い茂り、長年の森の新陳代謝で作られた腐葉土の地面を踏みしめれば、芳醇な土の香りが千尋の鼻腔を刺激する。
その自然の営みが作り出した香りで、せっかく身体を包みこんでいた鉄錆の匂いがぼやけて、思わず千尋は毒づく。
「なんなんだ、全く......」
深緑が映えるが、あまり既視感のない葉をつけた広葉樹に、千尋は手を触れるとナイフで固めの樹皮にガリガリとキズをつける。迷った時に備えて、アルファベットのLを書き、印をつけると木の匂いが鼻をくすぐる。
その印を愛おしそうになぞる。千尋はナイフの跡を撫でながら、昨日のナイフを刺した瞬間を反芻するように思い出し、自然と笑みがこぼれていた。
千尋は昨日。通りすがりの女性を、このナイフで刺した。女性特有の柔らかい皮膚を斬り裂いた感触が、ついさっきの出来事のように思い出され、千尋は興奮する自らの体を抱きしめ、心を落ち着かせる。
雨が激しく降りしきり人通りも車通りも少ない中、街灯に照らされた彼女の赤い傘が、血のように見えて高揚が抑えられなくなってしまい、千尋は襲いかかってしまった。
激しい衝動と興奮に任せて何度か刺していたら、彼女は動かなくなってしまった。過程を大事にし、理知的な行動を是とする千尋自身も、悪い癖だなと思っているが、反省も後悔もしていない。
お詫びがてら彼女を綺麗に飾ろうと、隠れ家にしている廃屋に行った後。床に彼女の血でルーン文字を模して魔法陣を描いたり、蝋燭を立てて遊んでいたら血が光り出し、千尋は目を瞑った。
そして、気がついたら血まみれで1人きり、こんな森の中で道に迷っている。
同じ頃。フィル・ブライヤ領の領主、アンドレアス・フィル・ブライヤの三女。アリシアは護衛のターニャと二人で、隣の領主の跡継ぎとの見合いから帰る途中であった。
馬車に揺られて帰路につきながらも、小太りの跡継ぎの脂ぎった手の感触を思い出して、ゾッとしたようにアリシアは身震いする。
「領民からの税であんなに肥える豚には、アリシア様はふさわしくありません!」
アリシアの護衛と側仕えを兼ねるターニャは、力強く握り拳を作り、鼻息荒く言い放つと二人で笑い合う。年はターニャのほうが一つ上だが、こうやって笑い合えるターニャの存在がアリシアには有難かった。
笑い合っていると馬車が急に止まり、大きく揺れた。馬車の中でアリシアは、座席を覆う手触りの良い布をしっかり握り、倒れないように何とか耐え忍んだ。
「きゃ!」
軽く悲鳴をあげたアリシアを、ターニャは庇うように抱きとめる。アリシアの無事を確認したターニャは、自身の背後にある小窓を開ける。
「何事か!」
ターニャが御者に怒鳴るように声をかけると、小窓から痩せ型の御者が、体を曲げて顔を覗かせる。
「動物の死骸です、多分ヒアシュですかね?」
ヒアシュとは、雑食性の獣で何でも食べてしまう害獣だ。大きな角を持ち、出くわした人を襲うことでも有名である。害獣ゆえに狩られる事も珍しくはい。
「誰かが切り殺したのか?片付けろ」
ターニャが御者に命令すると、御者は一瞬、面倒くさそうに顔を歪めたが、大きく鼻から息を吐くと渋々、了承したようだ。
「へいへい」
御者は嫌そうに返事をして立ち上がると、馬車を降りる。御者が降りる際にギシッと少し馬車が揺れ、2人にも御者が遠ざかっていくのが分かる。
暫し間が開いて、御者が声を上げた。
「ぎゃ......」
獣の死骸ごときに驚く、気の弱い御者に呆れながらターニャが、馬車の扉を少し開けた。その時だった。
昔嗅いだことのある小鬼の匂いがする。肉が腐ったような口臭、汗臭くすえたような体臭。そう、ゴブリンだ。
急いでターニャは扉を閉めた。
ゴブリンごときに怯える護衛がいるかと、ターニャは震える手を必死に押さえる。過去の出来事を想起させる匂いに震える手は、どんなに押さえつけても収まらない。押さえることで震えが倍増しているのではと思える程に、ターニャの手は彼女を意思を無視している。
丸まって震えるターニャの様子を心配したアリシアは、ターニャの顔を覗き込む。アリシアは震えるターニャの手に触れると、落ち着かせるように声をかける。
「どうしました?ターニャ......」
「ゴ......、ゴゴ、......ゴブ、ゴ」
ターニャは必死にゴブリンと発音しようと試みるが、上手く発音することが出来ない。涙目になり、激しく痙攣するターニャが口を開けば、吃音のようにゴブリンのゴとゴブか繰り返されるばかりで、要領を得ない。
アリシアがターニャの背中を擦り、落ち着かせようと試みていた時、馬車が横に大きく揺れだした。
馬車の左右にある小窓からゴブリンたちが2人を覗き見ている。ゴブリンたちは両脇からドンドンと扉を叩き、馬車の扉を開けようと、ガチャガチャと取っ手を回している。辛うじて鍵が機能しており、アリシアたちを守ってくれている。
が、その開かない状況すら楽しむかのような、下卑た薄汚いゴブリンの笑い声が車内に響く。その笑い声がさらにターニャを追い詰め、ターニャは頭を抱える。昔、村をゴブリンに襲われた時に聞いた声と同じだった。
「やめてくれー!!!」