序服 安赦帰堺(伍)
安赦されて堺に帰る
父の猿真似であっては、父の教えを実現できぬ。父の手を守り、修めてのち、旧弊を破り、父の教えから離れねばならなかった。何より利休の教えは「他人と違うことをせよ」である。その教えを継ぐということは利休と同じことをしてはならないということであり、利休は茶風を継いで欲しいとは考えていなかった。
それは、利休と違う茶の道を歩むということだった。利休の道具を受け継げば、他人は利休と同じ道具組みや茶風を心の何処かで求めるであろう。それでは利休の猿真似になり、四郎右衛門は何処に在るのか。滅私の思想など利休にも四郎右衛門にもありはしなかった。
それと、四郎左衛門は足萎えである。幼い頃に戦に巻き込まれて負った怪我が治らず、足を引き摺っていた。仲が悪く反目している相手とはいえ、一応妹婿でもあり、義弟である。道具を継げば、それなりに暮らしていけようとも考えた。堺の本家とは違う茶家としての千家を立てればよい。
四郎右衛門は理想に殉じる人ではなく、政商となるのも嫌であった。しかし、茶風とは生きていてこそ体現できるものであり、先ず生きていなければならない。権力争いに巻き込まれるのは御免だが、力がなければ面倒事が逃れることは出来なかった。
「茶堂として仕えるようにな。利休の茶は、そちにしか点てられん」
秀吉とて四郎右衛門と利休の茶風が違うことは分かる。しかし、それは美味い茶をどう出すかの道筋が違うだけで、父子は同じ茶の美味さに辿り着いていると見た。それこそが秀吉にとって利休の茶である。茶の本義は美味いことであると、秀吉は秀吉なりに茶を極めていた。
「かしこまりました」
四郎右衛門は観念して、水屋へと下がった。
そして、着の身着のままであった四郎右衛門に、秀吉は御伽衆として邸宅を与え、堺に戻る許しを与えた。こうして赦免されただけでなく、御伽衆となって四郎右衛門は戻ってきたのである。
「なんと......」
与一郎は絶句している。四郎右衛門としては登喜に秀吉より賜った京屋敷に来てもらい、鵆屋は引き続き与一郎と喜兵衛に任せ、ゆくゆくは紹二に譲ることにしたいと|伝えた。四郎左衛門には秀吉から利休の聚楽第屋敷が与えられる。
「四郎右衛門さまはそれで宜しいので?」
喜兵衛が訝しんだ顔で、利休の遺品が連子の子に受け継がれることを問い質してきた。思うところは分かる。喜兵衛は、宮王竹田氏は秦姓で、鵆屋田中氏は源氏であることに引っ掛かりがあるのだ。
「我らは商家であって、商いが本分。欲しければ儲けて買うなり、作らせるなりすれば好い。茶の湯を以て禄を喰むは本分に非ず」
そうは言っても、四郎左衛門は足萎えを理由に御伽衆を辞退しており、四郎右衛門まで御伽衆を断っては秀吉の勘気を再び被りかねない。
四郎右衛門はそれだけを言い残し、奥へと消えた。登喜が、旅装を解いて寛げるよう部屋着を用意したのである。喜兵衛は首を傾げた。
「あれはどういうことやろか」
喜兵衛はそばにいた六郎右衛門に尋ねてみる。
一頻り頸を傾げた紹和は微妙な顔をしたまま「まだ、伯母上のことが尾を引いているんかねぇ」と、宣った。
それはあるまい......と喜兵衛は思う。稲は利休と仲直りするように四郎右衛門に遺言しており、それを受け容れられず、悩んでいたことを知っているからだ。
「伯父上の才を受け継いでいる唯一の御人との自負か」
喜兵衛はそう独り言ちる。この喜兵衛が江戸時代、阿波千家を名乗って千道安の系譜を継いだ茶家の祖となる。
「喜兵衛さま、旦那様がお呼びです」
下女が、喜兵衛を呼びに来た。四郎右衛門が堺に滞在できる日は僅かである。喜兵衛も慌てて奥へと向かうのであった。
喜兵衛は折りをみて四郎右衛門に昔話をせがむ事にしようと決めた。
この物語は、田中四郎右衛門紹安が渡辺喜兵衛道通に語った千家三代の物語である。