彼と彼女のあれこれ
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ケルッツアは、国立図書館を上から下へと貫く石畳の螺旋階段の重力に振られながら、ぼんやり回想する。
去年のいつの頃からか、一日、二日も経てば助手が最上階に昼食や夕食を届けてくれるようになった。一緒に食べることもあったし、一人で食べることもあった。
ケルッツアとしては、助かる反面、こう頻繁だと助手君も大変だな、と。確かにそう思ったのだ。
『ソフィーレンス君。そんなに頻繁に持ってこなくてもいい。
......僕だって、おなかすいたら適当に食べるくらいはする』
だから、いつからかそんなことを何度か言うようになった。
『信用してないの?
ソフィーレンス君のいじわる。』
とも、もしかしたら付け加えたかもしれない。
石畳階段で振り回されて助手のベストの腰辺りにしがみ付き、細いな、折れないかなと思ったことと一緒に、ぽいっと。
確か夕飯。確か、四日前のことだった。
『うーん、あなたのご意見、これで十回を超えたから...。
じゃあ、あなたを信用して。......しばらく放っておくことにします。
お望みが叶って嬉しいでしょう? ドクター?』
向かい合って食べる助手が、そんなことをちょっと意地悪く作ったような笑顔で言った。
急に食べていた物が美味しくなくなった、のと、面白くない、と思った。
そんなことを、鬼の形相で石畳の螺旋階段を下っていく助手の小脇に抱えられながら、ぽい、と思い出す。
まあ、自分で言ったツケなら、仕方ないか。
連れ出された石造りの職員専用の地下食堂片隅、ケルッツアは、助手の手痛い仕打を概ね受け入れる気持ちだった。
テーブルの向かいに席を取ってにこにこしている助手に。
ねえソフィーレンス君。
四日分一気に摂るより、別けて摂った方が明らかに効率的じゃないかね?
とは、最後まで言わなかった。それは彼の彼によるケジメ。
とはいえ、料理の選択権は欲しかった。
ソフィレーナの、満面の笑みを真正面に。
ケルッツアの前には、大皿に積み上げられたナポリタンパスタの塔と、銀のボールいっぱいの添え付けサラダの山。同じくボールに盛られたコンソメスープの黄色い湖が鎮座していた。
ソフィレーナは遥かに少ない量の同じ献立を食べながら、料理に手を付けないケルッツアを、疑問の顔で見ている。
「どうなさいました、プロフェッサー? 貴方の怠った四日間分の料理です。
遠慮せずに、どうぞ胃に収めてくださいな」
客は時間帯がずれたためか、二人の他に見つけることはできない。
目の前の料理が何人前になるのか、助手が、お願いします、と厨房の奥に告げて出てきたのがこれなので、ケルッツアに正確な所は分からなかった。
ので、一応確認した。
「ソフィーレンス君。
僕が......元々三食は摂らない主義......なのは......」
「もちろん存じてますよ二食で計八食分です。 何か問題ございますか? プロフェッサー?」
彼の助手は、口元ばかり笑みを張り付かせてそう言い切ると、自分のサラダの中のプチトマトに、ぶち、とフォークを突き刺した。
「うん......。十二食でなくて良かったよ。
でも、ちょっと......。砂漠の夫婦神も、引いていそうだな、と」
人間は果たして八食分を一気に取ることができるのだろうか? 但し、胃下垂を含めないものとする。ケルッツアは考えて暫しの現実逃避を図った。
向かいのソフィレーナは、サラダをもう少し食べて、すました顔で続けた。
「貴方の大切な神様達は分かりませんけど。
でも、どんな神様も食を疎かにすると、御怒りになるのではないですか?」
ソフィレーナはその後黙々とナポリタンパスタを平らげた。
ケルッツアの目の前の料理が冷めてゆく。麺もくっつく。スープにオレンジ色の油が浮き始めた。
しかしケルッツアはやはり、赤い塔と緑の山と黄色の湖に、砂漠の守護神への祈りを捧げる気に。
「プロフェッサー・ワイズ? 「はい、あーん」をしてでも食べさせますからね。最後まで」
ケルッツアの躊躇している様子にだろう、助手の、特徴的な虹彩の眸がすい、っと細められた。おまけに、単なるプロフェッサー、から、賢者の称号まで付けて呼びはじめる。
これは............本気だ。
ケルッツアは、観念した。
重い息を吐き出し、目の前の料理と眼前の助手に、降参、と目を閉じた。
「......分かった。
一つ宜しいかね......『図書館勤めのダリル姫』」
常日頃学者にしては穏健である知恵者の口から、『ダリル姫』という、今夜の演目の美姫に掛けた、ささやかな皮肉が紡がれる。
「......窺いましょう? 栄光と誉れも高き、偉大なるプロフェッサー・ワイズ?」
同じく、その助手からも、大げさな褒め文句とケルッツアの嫌っているプロフェッサー呼びに称号を被せた皮肉が返ってきた。
「僕の料理の選択権は......」
「好物でしたでしょう? この組み合わせ」
「......否、僕はだねソフィーレンス君、好きは好きでもトマト味に香草を効かせた鳥の煮込みが」
「ナポリタンパスタもトマト味ですわね? プロフェッサー・ワイズ?
香辛料もお好きにかけてお召し上がりくださいませ?」
ソフィレーナは、流れる様にのたまうと、これまた流れる様に自分の食器を片付け、一人分のコーヒーを片手にケルッツアの隣に座りなおす。
「はい、あーん」も、冗談ではないんだな、とケルッツアは悟った。
まあ......ゆっくり食べよ。
心の中で決意すると、おもむろにナポリタンパスタの細いピーマンを横に除け始める。
「............ピーマン除けない」
狙った通り助手が元に戻したので、今度は半月型の半透明な玉ねぎを除けることにした。
「......タマネギ避けない」
こちらもすぐさま助手が戻したので、極めつき。
「膨れっ面もしないッ!
あなた、一体何歳ですかッ!!!」
君よりたくさん生きてるけど、それはあんまり関係ない。
などと内心思いながら。
ケルッツアは、見た目には渋々、内心はそうでもなく彼の故郷の夫婦神に祈りを捧げた後、サラダとパスタとスープを順に食べ始めた。
最終的に、ソフィレーナの「はい、あーん」は実行された。
食事に掛かった時間は、一時間と十五分。
「済まない......。歩けない。タンカを......」
「何言ってんですか。皆来年の仮定図書目録作ったり、入れ替え書籍の整理で忙しいんです。
私がおぶりますから、はい、乗ってください」
膨れたお腹が苦しく、もはや椅子に凭れてなんとか吐き気を宥めていたケルッツアの横に、ソフィレーナは背を向けてしゃがみこんだ。
うん......まあ、いいか......。
細いし軟そうなのに意外と潰れないのは、不思議なものだ。何度か向けられたことのある背中に、毎度思うことをまた思いつつ、ケルッツアはどっこらせ、と彼女におぶさった。
ソフィレーナは、見た目とは裏腹に危なげなく立ち上がり、一度ケルッツアをおぶりなおす。
「おなか、大丈夫ですか? この姿勢、おなか圧迫してません?
なるべく、ゆっくり進みますからね?」
そして、馬鹿に長く大きな石柱に巻きつく石畳の職員専用階段を、ゆっくりと登っていった。
どれだけ螺旋を回ったか。
ソフィレーナは、独り言のように、少し悲しげにケルッツアに語り掛ける。
「今回は......かなり手ひどいことをしましたけど......。
このくらいしなくちゃ、ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、骨身に沁みては、判って下さらないでしょう...?
月に一回出してる、論文に............ミスがあったら、命に関わるんです。
もう少し、ご自分に頓着、してくださいな......。
毎日、食事しろっては、言いません。...けど。
けど、あなたの限界は、三日......六食抜きぐらいって、もう断言するわ。
一昨日までなら、星の演算も、ちゃんと紙の上でも成せてました。
けど......それを超えると............危ない、んです。そう思ってください。」
かつん、こつん。迷いない静かな足取りで、ソフィレーナはゆっくりと石畳の階段を上っていく。
ケルッツアは、薄い肩越しに聞く柔らかに染みるような声を、言葉を、理解した後。苦しい息をおして聞いてみた。
「......きのうの、計算式は、どれだけ、狂ってた............?」
「軌道の計算式、五つ書いてたでしょう?最後の式で、簡単な数字ミスが十個。
それに段違いで計算している箇所が二つ。です。
答えの桁が他の四つと明らかに違うのに、あなた、気付いてなくて。
......焦りましたよ」
応えられた内容の酷さに、ケルッツアはから笑い。そんな論拠と論文を出したら、狂ったと思われて即解剖台行きだろう、と。苦めに笑った。
助手の声は、もう少しだけ、続く。
「私が気付いたときには、もうあなた、爆睡してて。
急いで直し終えたら、図書館業務の時間になってしまって......。
本当............っもう少し、自分を大切に、しないと駄目ですよ!!!」
やたらとぼう、としていた時間が長かったり、酷く動きたくなかったりという、心当たりはある。
そして、最上階禁書隣の展望部屋のお気に入りのソファーに、毛布を掛けられて寝かされていた彼は、起きて早々、本棚整理に取り掛かった。
国立図書館最上階。ずらりと本棚が立ち並ぶ禁書庫の中ほど。
積読してある書籍の塔を足元に大量に従え、ケルッツアは見上げても詮無い高さにある、本棚の隙間を見ていた。
今は横に持って来てある彼専用の三脚を使っても、届かない位置を定位置とする大量の積読の塔は、ここ二カ月で彼が用いた論文の参考資料の山。
片付ける段になって、あ、僕の背丈も助手君の背丈も足りない、と気付いたのである。
「さて、どうしようかな」
独り言をつぶやき、もう一つ、今抱えている小さな三脚を見やる。
二重三脚――――大きな八メートル大の三脚の頂点で、小さな五十センチほどの三脚に乗って作業をすれば片付けられないことはない。
でも、ちょっと今は体が重すぎる。無理だな......。
......この間、ソフィーレンス君が渋い顔してたんだよなあ......。
彼女が重ね三脚をしようと思う前に片付けなくては、と漠然と焦っていた。なぜなら落下したら危ないからだと、つらつらと考える。
絶対的な脳が失われてしまう可能性は排除しないと
怪我したら業務に支障が出るかもしれない
辛いだろう
最悪死んでしまったら?
いけない目も当てられない。大きな損失だ。
誰にとっての何の損失なのかは曖昧に、うん、と一人納得。胃の痛みやら吐き気やらでもはや倦怠感の塊と化しているケルッツアは、意外に、機嫌はそれほど悪くなかった。
不摂生は限度三日、そんなことを頭の隅で考えていると、ふと、重い鉄の扉が開けられる音が彼の耳に届いた。
広く薄暗い国立図書館最上階のほこりを吸った絨毯に、ゆったりとした歩調がわずか交じり、微かに、呼称を呼ぶ声がする。その声に、ケルッツアは意外そうに目を丸くして、声のした方へと歩き弾ける様に笑った。
「...やあ...グラン...! 久しぶりだなぁ!」
***
国立図書館職員、十五時の休み時間のことである。
「なんと言うか、よくもつわねぇソフィレーナ」
はい、と。給仕室の机にだらしなく突っ伏したソフィレーナの近くに、カップが置かれた。
彼女が無言で顔を上げると、そこには金髪を片側でお団子にし端を垂らしたつり目美人、同期のレティシアが、呆れたように、しかし緑の眸にどこか心配の色を滲ませて机に腰掛け、彼女を見下ろしている。
「......」
ソフィレーナが、無言のままカップを引き寄せ机にあごを付けた状態で中身に口を付けようとすると、こら、とその人物は彼女からカップを取り上げ。
「お姫さまお姫さま? まあまあ礼儀を習わなかったのかしらね。
ダリル家の美しい姫君?」
カップの中のココアを零さないように掲げながら、小鳥のさえずりの様に高く澄んだ声で、今夜王都で盛大に演じられるオペラ『ダリル姫』の中の、召使の歌を謡い始めた。
「! それ厭!」
その歌にソフィレーナは酷く眉を寄せて飛び起き、やめてよぅ、と、気弱に抗議の声を寄せる。
「それはウチのママに当てた歌。私は美しくなんかありませんよーっだ」
返してもらったカップに口をつけ、レティシアのいじわるぅ、とごねて又背を丸めたソフィレーナに、まあシスターだったときのあんたのお母様に比べりゃアンタは落ちるけどね! 、とレティシアは鼻で笑う。
「あったり前でしょー」
しかし、何故か威張った調子で返された返事にも覇気はない。
いつもならばもっと豪快に減っていくはずのココアの量。
その様子にレティシアは、はじめこそ今夜のことに浮かれてオペラ口調で振舞っていたが、ソフィレーナがその冗談にも乗ってこないので本気で心配し始めた。
「......つかさ、本当にソフィー元気ないわね? ...大丈夫?」
芝居がかった動作のまま目を覗き込んでくるレティシアに、ソフィレーナは放心したかのように、ぼう、と空を見つめながらココアを舐めるのみ。
「レティー......今日は...今日はねぇ......。ほんとうに、本当にきつかったのよ............。
要請があったから一階の書庫整理手伝ってたらお昼になって......その足で......あれ、ドクター・? ......プロフェッサー・?
.........何でもいいけど、あの最上階に棲み付いてらっしゃる......名声高き、あんのケルッツア・ド・ディス・ファーンサ・マッ! を小脇に抱えて、地下の食堂まで連れて行って......一時間かけて、ご飯食べさせて............。
......またあの天辺......展望部屋に戻して......。
一階の書庫整理の残りを終わらせてきたの。
ふふ、言葉で言うのは簡単だわ......そうよね。簡単なことだったのよね...。
じゃあ私、どうしてこんなに疲れてるのかしら............」
レティシアは、ソフィレーナの台詞を聞いて、何によらん、整った顔立ちの片頬をぴくりとさせた。
ソフィレーナは、今にもその口につけたカップの端からココアが零れ出そうな虚ろさで笑っている。
「......あのッ......テェレル・ド・イグラーン第二図書館長様は......ま・た!!
一年分の書庫整理を言いつけて下さるし」
テェレル。その言葉にレティシアの緑色の目が座った。あんのズボラ豚めと毒づいた彼女には直属上司への親愛が欠片も見られない。
そんな友達の横で、ソフィレーナは続ける。
「まぁそれは良いのよ......。」
は?
レティシアは大きく目を見開いてソフィレーナを見た。
去年も一昨年も、のーんびりとした声で、やってなかったーごめーん、と言ったテェレル。あの第二図書館長の何を許せるのか。レティシアには分からない。
ソフィレーナは、そんな友達の様子も知らず、ことさら重くため息をつく。
「......でも。でも、でも!!!
ねぇレティー......あのくそぼけどアホケルッツ」
思わず口を滑らせたか、ごほん、とカップを口から離して声の調子を整え。
「......もとい、あのひとったら、また四日間も飲まず食わずだったのよ?!
お腹すいたら食べるっていつもいつも言ってたから!!!
じゃあって、信じたら、四日よ!?!?
どうして不調が出てても気づかないの!? あのひと?!?!
ちょっとミスしてる計算書とか見る度に!!!! こっちは心臓が止まりそうになるのに!!! 動揺隠して必死で直すのに!!!!!
もしかしたら解剖されちゃうかもしれないって気が気じゃないのに!!!
変な論文出したら身が危ないって、本当に分かってるのかしら!?!?」
ソフィレーナが焦がれている相手は、月一で国に論文提出が義務。その内容で頭の度合いを図られて、生存価値の精査をされる。
そのことはレティシアも知っている。
ソフィレーナは、いまや涙交じり。まるでオペラの虐げられている令嬢宜しくカップを抱きしめて悲嘆に暮れている。
知っているうえでレティシアは、別にいーんじゃない? あんたの目も覚めて。と心の底から思った。
しかし、目の前でさめざめ悲しんでいる、盲目な恋に両足突っ込んでるオヒメサマからしたら、自分の仕事量の増加と負担と場合によっては体調不良より、恋のお相手の体調と生存の方が重要のようだった。
ほっときゃいいのに。この子ったら......。
レティシアは今、無性に踵で石畳の床を蹴りたいと思った。踵で意味なく宙を蹴る。言ったって無駄だと分かっているが、それでも言わずにいられない。
「...ねえ、ソフィー? いい加減、あんな奴見放したら?」
落とした言葉で石造りの休憩所の空気が変わったことに、やっぱりね、とため息をついた。
ソフィレーナはといえば。
持っていたカップをぐっと掴み、残りのココアを一気に流し込むと、愚痴聞いてくれてありがと、と。レティシアに笑いかけつつ、席を立った。
「泣き言言ったら元気出たわ! ココアも美味しかったし!
仕事頑張りましょ!!!」
そういって足早に休憩所の給仕スペースへと進んでいく友達に、苦い苦い思いを禁じえない。
あんたの献身に、あのケンジャサマは応えてくれてる?
あんた、何も報われてないかもしれないのよ?
痛い目見ないうちに、目を覚ましなさいよ。
レティシアは、その言葉もなんとか飲みこんで、しばらくソフィレーナがカップを片付ける様子を見つめていたが、軽く肩をすくめた。
ま、突っ込み過ぎか。......話題変えましょ。
「ソフィー、今日は帰るの?」
軽く伸びをして気分転換にと掛けた言葉に、ううん、とソフィレーナは、レティシアから見たら嬉しそうに、首を横に振って答える。
「今日も星の観測会。
当分帰れそうもないから、もうお泊りセット持ってきちゃってるのよ」
星の観測って、またアイツの研究の手伝いじゃない!!!
アイツ!!!
この子に朝から各館の手伝い行かせてるけど、仮眠とかちゃんとさせてんの!?!?
ホントに、この子大丈夫かしら......。
レティシアは、苦虫を噛み潰したような顔をなんとか上品に整えるので精いっぱい。そのまま、気合と共に給仕室を出て行くソフィレーナの小さな背を、心配そうに見ている。