第8話 触れずに分かる
目覚めると、右肩から肘にかけて、じんわりとした重みが残っていた。寝台の上でゆっくり腕を回す。関節が痛むほどではない。昨日、どこへ余計な力を入れていたのかを、その重さが教えてくれていた。
洗面を済ませ、服を整える。腰の袋から銅貨を三枚取り出し、上着のポケットへ別にしておいた。毎朝前払いの稽古料だ。
食堂には、まだ客がまばらだった。女将がスープとパンを出してくれる。熱いスープが胃へ落ちると、身体の内側がゆっくり温まった。
「そういや、剣の指南役は見つかったのかい」
「はい。ドランさんに教えていただけることになりました」
女将は一度だけ俺を見た。
「そうかい、良かった」
それだけ言って、空いた皿を手に取った。
「あんた、名前は?」
「ノワールです」
「覚えたよ」
少し嬉しい。
「行ってきます、女将さん」
「はいよ。怪我してくるんじゃないよ」
礼を返し、宿を出た。朝の空気はひんやりとして、通りには朝露の湿った匂いが残っている。職人区へ向かう途中で、早い鐘が遠く鳴り始めた。板垣で囲まれた稽古場へ着いたのは、鐘が鳴り終わる前だった。
ドランは庇の下で、木剣の柄に巻かれた革紐を締め直していた。板垣の内側へ入ると、一度だけこちらを見る。
「早いな」
「大事な人は待たせるな、という祖母の教えでして」
「お前......気持ち悪い奴だな」
心底嫌そうな顔をされた。だが、手元の木剣を引っ込める様子はなかった。
俺はポケットから銅貨三枚を出し、庇近くの平らな石へ置いた。硬い金属音が朝の空気へ響く。ドランはそちらを見もせず、木剣を一本放ってよこした。
受け取る。昨日と同じ、無骨で重い木剣だ。
「構えろ」
「はい」
足を肩幅へ開き、右手を上、左手を下にして木剣を持ち上げる。昨日注意されたことを頭の中で反復した。右肩を下げる。握り込みすぎない。足幅を狭くしない。
ドランはその場から動かず、俺の肩、手元、足へ順に視線を落とした。
「足幅は、そのままでいい」
足幅は昨日の教えを守れていたらしい。
「右肩」
言われて下げる。肩へ意識を向けた途端、柄を握る指へ力が入った。
「今は肩だけだ。そのまま十回振れ」
振り上げ、下ろす。三度目には、また肩が上がった。
「肩」
短い声に合わせて下げる。七度目にも同じことを言われた。十回を終えると、ドランが俺の手元を見た。
「次は握りだ。肩は今の位置から動かすな」
「一つずつですか、丁寧に教えてくれるんですね」
「一つもできてない奴が、全部まとめてできるか」
「できませんね」
新人へ採血を教える時も、最初から全部を直そうとはしなかった。まず駆血の仕方、血管の選び方。それができてから、皮膚の押さえ方。針の持ち方。覚えた一つを残したまま、次を積んでいく。
今度は俺が、積む側だった。三十回ほど振ったところで、ドランが言った。
「止まれ」
木剣を下ろした。
「呼吸」
「呼吸ですか?」
「振る時に、息を止めているだろう」
意識していなかったが、言われてみればそうだった。動作へ集中するたび、振り下ろす瞬間だけ呼吸が浅くなる。
「そういう奴ほど、限界まで黙って続ける」
「経験談ですか?」
「昔、そういう馬鹿がいた」
「倒れたんですか」
「倒れてから、まだやれると言った」
「それは大丈夫じゃないですね」
「大丈夫じゃなかった」
ドランはそれ以上説明せず、木剣の先で俺の構えを示した。
「次から、振る時に吐け。止めたまま続ければ、そのうち手が震える」
試してみる。吐きながら振るのは、最初こそ妙な感覚だった。動作と呼吸を別々に扱うことを、頭が嫌がる。四度、五度と繰り返すうちに、だんだん同じところへ揃ってきた。
「少しはましだ」
短い休憩を挟み、後半は相手を置いた練習になった。ドランが向かいへ立ち、木剣を片手で構える。
「振り下ろせ。まっすぐだ」
息を吸い、吐きながら木剣を振り下ろす。昨日より剣筋はぶれなかったが、振り切った瞬間、右肩へ嫌な力みが走った。
「まだ腕で叩こうとしている。足から動かせ」
「足から、ですか」
「足が地についてから剣が落ちるんじゃない。足が出る勢いを、そのまま剣先へ乗せるんだ」
ドランが一歩踏み出し、木剣を振ってみせた。風を切る音が鋭く響く。足、腰、肩、剣先が、途切れず一つの動きになっていた。
俺も同じように踏み出しながら振る。だが、足が地面へ着く時と木剣が下りる時がずれた。手と足が別々に動き、勢いが途中で失われる。
「考えてから足が出てる」
ドランが短く言った。
「え?」
「俺の動きを見て、頭で考えて、それから足を出してる。だから遅い」
俺は動きを止めた。動きを真似るためには当たり前の過程だと思っていた。ドランの言っていることは、まだよく分からなかった。
目の前の動きを確かめ、頭の中で整理してから足を出す。その順番が、身体へ染みついていた。だが、ここでは考えてから動く、その間が遅れになる。
「素振りはここまでだ」
ドランは木剣を持ち直し、腕一本分ほどの間合いを取った。
「次は、俺が実際に打ち込む。剣先だけを見るな。肩と腰を見ろ。動き出す前に、軸が変わる」
ドランは一歩下がり、静かに構え直した。
「考えるより先に足を出せ。もう一度」
正面から踏み込んでくる。俺は軸というものを見ようとしたが、どうしても木剣の先を追ってしまった。それ以前に軸というのが何なのかよく分からなかった。受けようとした時には、ドランの木剣が胸元の直前で止まっていた。
「ほらな」
木剣が引かれる。
「動き出す前を拾え。もう一度」
息を整え、構え直した。
「あの......軸ってどういう意味ですか?」
「感覚で理解しろ」
この師匠、無茶を言ってくれる。教える気はあるのに説明が雑だ。相手を間違えたのだろうか。
踏み込み、振り下ろし、受け、立て直す。何度も繰り返すうち、汗が背中へ張りつき、息が荒くなっていった。それでも、昨日のように木剣を落とすことはなかった。
稽古が始まって半刻ほど経った頃だった。打ち込みを繰り返す途中で、右手首の高さがわずかに下がった。
「手首が落ちてる」
ドランが踏み込み、空いている手を伸ばしてくる。その指が触れるより先に、ドランの手首の内側で、温かなものが一定の間隔で脈打っているのが分かった。自分とは違う、落ち着いた周期だった。稽古で上がっている俺の脈よりも遅い。
次の瞬間、分厚く、皮の硬い手が俺の右手首を下から掴んだ。皮膚から伝わる拍動が、触れられる前に感じたものと重なる。
「ここだ。この高さを覚えろ」
ドランが手を離した。思わず、離れていく手を見る。
「何を見てる。構えを崩すな」
「あ......すみません」
木剣を持ち上げ直す。
「集中が切れたな」
ドランは一歩下がり、腕一本分ほど離れた位置で木剣を構えた。その右手首へ意識を向ける。ほんの一瞬だけ、先ほどと同じ拍動が返ってきた気がした。だが、確かめようとした時にはもう消えていた。
(......いまのは)息をのむ。稽古を止めかけ、踏みとどまった。
「足幅が狭くなってるぞ」
「あ、はい......」
足を踏み直し、木剣を構える。疑問はあとへ回した。
「最後に一度だけ受けろ」
ドランは右足を半歩引き、木剣を肩の前へ置いた。俺も正面へ構える。剣先だけを見るな。肩と腰を見ろ。
そう言われたことを思い出し、俺は右手首だけに向けていた意識を、ドランの腰と肩へ広げた。
ドランの木剣が動く気がした。
反射的に俺の両手が動いた。木剣が胸の左前へ上がり、何もない場所で斜めに止まる。その直後、ドランの肩が沈んだ。振り下ろされた木剣が、先に置かれていた俺の木剣へぶつかった。
硬い音が鳴る。受けた、という感覚ではなかった。向かってくる剣を追ったのではない。何もなかった場所へ置いた木剣に、あとからドランの剣が飛び込んできた。
衝撃に腕が沈み、体勢を崩して下がる。受け止めた形までは保てず、剣先が土へ落ちた。ドランは木剣を引き、俺の手元を見た。
「......今のを、もう一度やれ」
「どこへ来るか分かったような気はするんですが......」
「気がする、で動くな。やれ」
感覚で理解しろと言った人の言葉とは思えない。構え直す。今度はドランの腰と肩を見た。どちらも見落とさないように目で追う。
ドランの肩が沈む。そこから剣の行き先を考えた時には、もう遅かった。持ち上げかけた木剣の前で、ドランの剣先が止まる。
「違うな」
「はい」
最初にどうしてあの場所へ剣を置いたのか、自分でも分からなかった。
「偶然でも、身体が先に動くことはある。だが、偶然を当てにするな」
「はい」
「今日はここまでだ」
ドランが木剣を引き、庇の脇へ戻した。朝の一刻が過ぎている。木剣を返し、頭を下げた。手首と肩には、重い疲労が乗っていた。
「明日も来るのか」
「会いたいです」
「......だから気持ち悪いんだよ。呼吸だけは忘れるな」
ドランは低い腰掛けへ戻り、手で追い払う仕草をした。明日来るなとは言われなかった。
◆
職人区を抜けたところで足を緩めた。左手の指を、右の手首へ当てる。
トックン、トックン、と自分の脈が打っている。先ほど感じたものは、これより遅かった気がした。だが、稽古直後の高鳴りの中で、どこまで正確に区別できていたのかは分からない。
川で血流へ意識を向けた感覚が、まだ頭に残っているだけかもしれない。ドランの手が近づくのを見て、触れた後の感覚を先に思い浮かべてしまったとも考えられる。最後の一打も、肩と腰を見るよう言われた直後だった。たまたま置いた場所が合っただけなのかもしれない。
ただ、あの一瞬は、触れていなかった。次に同じ感覚があった時に確かめればいい。それでも、触れずに分かったことだけは、セイに話してみた方がいいだろう。
通りでは、職人たちが朝の仕事に取りかかっている。明日の稽古代の銅貨三枚と今夜の宿代を稼ぐため、俺もギルドへ戻らなければならない。左手の指を、右の手首から離した。自分の脈だけが、まだ少し速かった。