剣の乙女06 黒衣の騎士
茜色を残した空に炊事の煙が漂っている。
戦場の殺伐とした空気が嘘のようにのどかな夕餉の風景を目に映しながら、カーラインはマルティンを後ろに従え、自分の天幕に向かっていた。
色とりどりの紋章旗がかかげられた天幕の中で、ふと、一つの旗に目がとまった。
闇に深紅の竜が炎を吐く。その紋章は、領土の境界線をめぐって争っていた領主のものだ。父が十字軍に参加する前、挟み撃ちする位置にある老領主に娘を嫁がせることで同盟を結び、牽制しようとしたこともある。たしか先代の領主は三年前の南イタリア遠征中に命を落として、息子が領土を継いだはずだ。
そして――通り過ぎた刹那、目に焼きついた黒い残像。あの男の黒い軍衣にもこの紋章があったのではなかったか。
「どうしたんですか?」
マルティンは突然立ち止まったカーラインを訝しげに見た。彼女の視線をたどって、眉をしかめる。
「この紋章は、ドラッヘンフェルス家じゃないですか。昔から、領土の取り合いでうちと犬猿の仲の。なんかまた因縁つけられたんですか」
だったらタダじゃおかないぞという顔をみせたので、カーラインは苦笑した。
「そんなんじゃないわよ。むしろ......」
助けられたと言おうとしたところで、まるで登場する機を計ったように天幕の入り口が開いた。
現れたのは、あの男だった。サイン伯家の宿敵ドラッヘンフェルス家の領主であり、戦場で命を助けてくれた男が、目の前にいた。
威圧感を覚えるほど背が高い。がっしりと広い肩、腰にむけて引き締まっていく鍛え抜かれた体は、獰猛な肉食獣の美しさがあった。
戦場で一瞬、目が合っただけなのに強く印象に残ったあの、強い眼差しに捕らえられる。
狼の前の羊の気持ちになった彼女は、食われてたまるかと負けずに強く見返した。命の恩人に礼を言うつもりだったのにすっかり忘れている。
日に焼けて精悍な頬がふとゆるみ、濃紺の瞳には面白がるような輝きが宿った。
「不躾に見て悪かった。知っている奴に似ていたんだ。付け加えると俺が会ったなかで一番の美人だ」
カーラインは鼻で笑ってやろうかと思ったが、考え直し、それが何と言わんばかりに眉を上げるだけにとどめた。
「といっても、そいつは男なんだがな」
結局、何が言いたいんだこの男は。冷めた目を向ける。
「妹がいたら紹介してくれと頼んだら、断られた。亡くなったサイン伯の従者をしていた男だ」
冷ややかな表情が崩れた。
「......アルベルト」
恋しい人の名前を呼ぶだけで今でも声が震える。
「あんた、アルベルトさんとどういう関係なんだよ?」
邪魔にならないよう控えていたマルティンがたまらず、口をはさんだ。主人の心の傷を開かせたことに憤り、顔が真っ赤だ。
「......誤解を招きそうな言い方だな」
顎を撫でて人の悪い笑みを浮かべる。主人を守るため吠える子犬のような従者を見下ろした後、からかうような態度を引っ込めて、カーラインに向き直った。
「十字軍で一緒だった。俺と互角に戦える男はあいつしかいない。いや、いなかった。あなたの兄は死ぬまで真の騎士だった」
「――あなたは勘違いしている。彼はわたしの兄なんかじゃない。恋人よ」
カーラインは炎のような烈しさで男を見据えた。
男は目を細める。
「恋人に殉じるため、髪を切って男の格好で戦場にやってくるとは、けなげだな」
彼女は怒りに震え、拳を握りしめた。
「わたしが領主だからよ! 領主の務めを果たすためで、私情のためではないわ」
むきになって反論するのは、それが核心をついていたからだ。だが認めたくない。己の手で命を絶つことも、アルベルトに殉じることを覚悟した戦場でも、生き残ったことを喜んだ自分なのだから。
「立派だな」
感心したように言われたが、馬鹿にされたと感じた。
怒りに燃えた目で睨みつけられ、男は苦笑する。
「俺は本気で言ってるんだがな。一ヶ月以上の過酷な行軍に耐え、死と背中合わせの戦場を自分の力で生き抜いたんだ。しかも最も勇敢でなければ務まらない旗手をやってのけたんだ。悲劇のヒロイン気取りの姫君じゃないさ。まったくたいしたもんだよ」
男たちに女のクセにと影口を叩かれることには慣れていた。だがそんなふうに自分を認めてくれた男は初めてで、どう返したらいいのか戸惑った。しかも今まで怒らせることばかり言っていた男に言われて、目を合わせられなくなり、頬が熱くなる。
姿勢を正し、息を吸いこんだ。そらしていた視線を合わせる。
「お礼を申し上げるのが遅れました。今こうしていられるのは、命を助けていただいたおかげです」
「礼を言われることじゃない。たまたま俺の行こうとしたところに敵が立ちふさがっていただけだ」
なんでもないことのように言ってから、短く笑った。
「すっかり忘れていたが、まだ名乗っていなかったな。俺はオスヴォルト・フォン・ドラッヘンフェルスだ」
大きな手が差しだされた。彼女の手をとって口づけるのではなく。対等の者として、友として認められた気がして。胸に熱いものがこみあげるまま、男に比べて小さくほっそりとした手を差しだした。
少年のように髪を短く切った乙女の華奢な後ろ姿が遠ざかっていく。
去り際に従者の少年が、彼をまるで薔薇にたかる害虫のように睨みつけていった。
「あれだけ美しいと害虫駆除も大変だな」
と言いつつ、もちろん同情していない。
「噂には聞いてましたけど、本当に美人でしたね」
天幕から出てきた従者の言葉には答えず、振り返って言った。
「俺は結婚するぞ」
「やっと結婚する気になったんですね。おめでとうございます。で、相手は誰なんですか?」
彼は笑った。
「決まってるだろう」
従者は眉間に皺を寄せた。
「......さっき会ったばかりの美少女のサイン伯ですか」
従者は、呆れたように首を振った。
「そりゃ、美人ですけど。噂では言い寄った男を拳で殴り、男の急所を蹴り上げた凶暴な女らしいですよ」
彼は声を上げて笑うと、言った。
「ますます気に入った」
「え? オスヴォルト様って女に殴られるのが趣味だったんですか!?」
オスヴォルトは従者の頭をはたいた。
痛いじゃないですかと文句言いながら頭をさすっている従者には構わず、彼は不敵な笑みを浮かべた。
「陥落させるのは難しいだろうが、気長に攻めるさ」