剣の乙女02 出発
神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒは、シチリア王ヴィルヘルム善王の死後、王位を求めてシチリアに軍事行動を起こした。
ヴィルヘルム善王には子供がなかった。伯母コンスタンツァが最も有力な王位継承者であったが、彼女は皇帝に嫁いでいたのだ。
シチリアの領主たちは、皇帝のシチリア進出を避けるため、ヴィルヘルム善王の伯父の庶子であるタンクレッドを擁立し、皇帝軍と対立した。
シチリア王国の諸侯、都市は次々と皇帝の軍門に降っていった。勝利は目前のように思われた。しかし、ナポリへの包囲攻撃が長引く中、皇帝軍の最大の敵となったのは疫病だったのである。皇帝は軍を引きあげるしかなかった。
だが、失意の皇帝に幸運の女神が微笑んだ。
一一九四年二月、シチリア王タンクレッドが病にたおれたのだ。
それだけでなく、十字軍帰りのリチャード獅子心王を捕らえ、莫大な釈放金を脅しとることもできたのである。
千載一遇の好機と軍資金を手に入れた皇帝は、再びシチリア王位を手にするため動きだした......
皇帝からの軍務招集を受け取って後、準備は慌ただしく進められてきた。
そして今、サイン伯家から封土を与えられた騎士たちとその盾持ち小姓たちが領主の要請に応えて集まってきている。彼らの軍馬は厩舎からだされ、中庭は人と馬でごったがえしていた。
パン、ワイン、肉、チーズなどの糧秣や馬の飼料、鎖帷子や兜などの防具、天幕や煮炊き用の大きな鍋など野営に必要なものが召使いたちによって荷車に積まれていく。
用事を済ますのが遅い従者を怒鳴りつける声、興奮している馬のいななき、猟犬の吠え声、別れを告げている恋人や家族たちの声が響き合って、中庭は音の洪水によって押し流されそうだ。
「マルティン。カーライン様をよろしく頼むわよ。お一人だけ女性なんて心細いし、男だけの中で生活するにはいろいろ困ることがあるんだし、私が本当は付いていってお世話したいのだけど......自分の身も守れない女は戦場には行けない。姫様を守れるのは男のおまえなんだから、私の代わりに真心こめてお仕えするのよ!」
「ハイハイ、わかってるって! 姉ちゃんの分までカーライン様にお仕えするから心配すんな!」
麦わら色の髪の少年は、胸をそらした。雀斑の散った鼻が得意そうに上を向いている。
十四歳の弟はエルザよりも背が低いくせに、もう一人前の男だと勘違いしている。
「ハイは一回だけにしなさいっていつも言ってるでしょ! まったくもう、おまえの方が姉ちゃんは心配だよ」
小言が始まることを察知したマルティンは素早く回れ右すると、片手をあげる。
「じゃ、オレはそろそろ行くよ。カーライン様のお側に控えとかなきゃ、なんたってオレは姫様付きの従者だかんな!」
「こら! 待ちなさい! おまえに預けた薬草、使い方間違えるんじゃないよ」
「わかってるって!」
そう言うが早いかもう駆けだしている。
エルザが言葉を続けようとしても、弟の姿は人混みにまぎれてしまった。
「あの子ったら、別れの挨拶もしないで。最後の言葉が小言で終わるなんて嫌なんだから......ちゃんと無事で帰ってこなきゃ承知しないからね」
「出発の準備は完了しました」
グスタフの報告にカーラインはうなずき、男のように大股で歩きだす。
整列した軍の先頭にマルティンが主人の軍馬の手綱を取って、待っている。手綱を渡す際に、主人である少女をまぶしそうに見上げた。
短く切った髪よりも金の炎のごとき瞳が、なによりも彼女を凛々しい少年にみせていた。
「マルティン。なに惚けた顔してるの。そんなにわたしが奇妙に見える?」
息がとまるほどの美しい顔にのぞきこまれ、彼の顔は真っ赤になった。麦わら色の頭を激しく横に振って、必死で否定するが。
「そ、そんなことないです! 戦装束がバッチリ似合ってますよ。女の子に見えないや!」
口に出してから、しまったという顔をみせたが、もう手遅れだ。
少しの間をおいて、カーラインの唇が花びらのようにほころんだ。
「ありがとう」
崇拝する女神の笑顔に惚けていたマルティンの頭に拳が降ってきた。
「いてっ」
抗議しようとして上を向くと、グスタフが灰白の厳めしい眉を上にあげて見下ろしていた。
「貴婦人に対する口の利き方を覚えなきゃな、ちび助」
その常に真面目な声には面白がっている響きがまじっていた。
カーラインは助けもなしに鐙に足をかけると、身軽に軍馬にまたがった。
さっと片手をあげて、出発の号令をかける。
サイン伯家の紋章である白地に金獅子の軍旗、後ろに領臣たちの色鮮やかな軍旗をなびかせて、列はうごきだした。蛇腹がうねるように、陽射しに鎖帷子が輝いている。
目指すは遠征の集合地、アルプス山脈を越えてロンバルディア平原へ。