27.卒倒
「――くん」
微睡む意識の中、激しく動揺した声が意識を呼び覚ます。
「――さぎくんっ」
身体に纏わりつく衣服が体温を奪っていき、小さな温もりが肩を支えていた。
「白鷺くんっ!」
呼ばれる声に薄く目を開き、脳はかき回されたかのように巡り揺れる。
回る意識の中、薄く開かれた瞳を声の主に向けた。
「ふじ、みや?」
藍色の瞳が揺れ、心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫っ?」
「ん、ああ」
深く息を吐きながらふと背中に意識を向ければ、藤宮の掌の温もりが直接伝わる。
片手で頭を抑えながらゆっくりと身体を起こす。
同時に肩から手を離した藤宮を横目で見返した。
「こんなところで、何してるんだ?」
「それはこっちのセリフだよ! なんでこんなところで倒れてたのっ?」
普段とは違い荒々しい声が脳を揺さぶり、思わず顔が歪む。
未だ頭の中は霧がかかったようにスッキリしない。
――果たして、何故僕はこんなところにいるのか。
「眠たかったから寝てたんだよ」
「それならベッドで寝てるでしょっ」
「そりゃまあ、確かに」
返す言葉も見当たらず頷く。
藤宮は一度僕の地面の周囲を見て、ぎょっと目を丸くした。
「というかビチョビチョじゃんっ! あの雨の中傘なしで帰ったの!?」
床を見てみれば、確かに人一人サイズの水の円が出来上がっている。
それを見てようやく雨の中の帰路が脳裏に浮かび上がった。
「そう、だな」
ズキンと頭の奥に小さな痛みが響く。
体育のペットボトル事故。
保健室での先生との会話。
藤宮が保健室に運んだ弁当。
今日の出来事が鮮明に蘇った。
「全く」
落ち着きを取り戻したのか、視界のすみで大きくため息がこぼれる。
「ちょっと待ってて」
藤宮はそう言い残し、立ち上がって洗面所に向かう。
コロコロとスライド扉が開き、蜜柑色の明るい色が洗面所についた。
急いだ足取りで戻って来るその手には、二枚のタオルが握られていた。
「はいこれ身体拭く用。自分でできる?」
「ああ。ありがとう」
頷きながらタオルを受け取り、腕、足、首と局所的に拭っていく。
葵はしゃがみ込み、もう一枚のタオルで床の水分を取り始めた。
「それで、なんで藤宮はここにいるんだ?」
「そりゃあ、歩いて帰ってきたんだよ。そしたら貴方が倒れてたの」
タオルを髪に被せて、わしゃわしゃと水を払う。
グワングワンと、意識が揺れた。
「ほら立って、靴下脱いで、足拭いて。やっとくから」
ふと下部に視線をやれば、ポタポタと服の裾から液体が滴る。
「流石にそれは――」
「病人は風呂に入ってベッドで暖かくして寝る。いいね?」
言葉を続けようと口を開くが、藤宮がまっすぐな視線で見つめる。
反論の言葉が消えた。
「......わかった」
タオルを頭に乗せたまま手を離し、胸元のボタンを一つ外す。
「ちょっ」
寒々しい空気が胸元を貫くように身体を冷やした。
「何やってんのっ」
見上げていた藤宮がびくっ身体を震わせる。
即座に彼女は濡れたタオルを持って視線を逸らした。
「何って、冷えるから着替えるんだよ」
藤宮は顔を赤くして片手で顔を軽く覆う。
が、その瞳はチラチラと僕を見ていた。
「だからってこんなところで」
「このままだと風邪ひくぞ」
――まあ、最早手遅れな気もしなくはないが。
ボタンをまた一つ一つと外していく。
「ちょちょちょっ」
彼女の顔が更に朱色に染まっていく。
「着替えるのはいいけどせめて洗面所でしてっ」
「面倒くさい」
「その一言で片付けないのっ。ほらこっち」
スッと立ち上がり、瞼のほとんどを閉ざして僕の手首を握る。
促されるがままに洗面所に案内され、軽く放り入れられた。
「私、洗濯とかご飯とか作っとくからっ。今日だけでも、お風呂上がったらドライヤーすることっ」
「えー」
「えー、じゃありませんっ。ほんとに風邪ひくよっ」
タオルを洗濯籠に放り込む。
そっと、小さく息をこぼした。
「......わかったよ」
そう言って、シャツの襟に手をかける。
グッと腕の半分まで露出したその時だった。
「脱ぐのも私が出てからっ」
顔を真っ赤にした藤宮が、そう言ってスライド扉を勢いよく締めた。
その場には処理できない情報に固まる僕と、廊下から漏れ出る冷気だけが残っていた。
・・・・・・
風呂から上がり、きちんと髪を乾かした後。
完全に暗くなった廊下を歩くこの身体からは、湯気が立ち上っていた。
「上がったぞー」
リビングへと続く扉を開く。
やんわりと温かい空気が出迎えた。
仄かな風味のある米の匂いとともに。
「お、いいね。スッキリした」
ふと声のした方向を向く。
藤宮が制服にエプロンをして台所に立っていた。
既に顔の赤色は抜けている。
そのすぐ側では僕とは比べ物にならない本物の湯気が立っていた。
「もうすぐできると思うよ。お腹空いたでしょ」
「あー、そうだな」
内側に意識を向けて、ようやく違和感に気づいた。
お腹の中がとてつもない虚無感があると。
「悪い、今日の当番僕だったのに」
言いながら、藤宮の隣に歩み寄る。
「いいよ。病人は大人しく寝てるに限るんだから」
「さんきゅ」
そこで、ふと藤宮がジッと見つめている小さめの土鍋に気づく。
人の顔を軽く覆うほどの湯気が出ていた。
「何作ってるんだ?」
そのガスコンロで火をかけられている土鍋を覗き込む。
「おかゆ」
「作れるのか」
「普通の料理できておかゆ作れないはないでしょ」
淡々と、少し素っ気なく藤宮は告げる。
一度たりとも、その目は僕を見ていなかった。
「まあそれもそうか」
ただそれに触れるわけにもいかず、ポツリと返して身を引く。
「そろそろ良いかな」
藤宮はミトンで包んだ手で土鍋を開く。
進捗を確認しようとしたのか、藤宮が土鍋を覗き込んだその時。
ぶわっと。
湯気が勢いよく立ち上った。
「藤宮」
肩を引っ張り、湯気から引き離す。
藤宮は蓋をその手に、僕の身体に背を向けてもたれかかった。
「へ」
素っ頓狂な声がもれ、藤宮は僕を見上げる。
ほんの僅かに、花の香りが鼻腔をくすぐった。
「火傷してないか?」
考えないよう意識しつつ、ジッと藤宮の顔を観察する。
――見たところ火傷はないようだが。
ふつふつと、藤宮の顔が赤らんでいく。
「ちょ」
バッと藤宮は僕の身体から身を離す。
振り返って蓋を手に一歩下がった。
「な、なにして」
藤宮の顔が、更に熱を持っていく。
狼狽して、蓋で顔の下半分を隠した。
「何って火傷――」
そこまで言って、先の自分の行動を振り返る。
くらりと、頭が揺れる。
グッと足と意識を強く保ちつつ、軽く頭を下げた。
「悪い。近づきすぎたな」
「え、や」
ぶくぶく、と静寂に包まれたリビングを沸騰の音が響く。
クラクラと強く意識を保とうとすればするほど、身体から力が抜けていく。
ふと、視界のすみに溢れそうな土鍋が目に入った。
「あ、藤宮」
藤宮の脇を抜け、コンロのつまみを狙って手を伸ばす。
一歩踏み出そうとしたその時。
グラリと。
明確に視界が歪んだ。
「え」
藤宮の声とほぼ同時。
目に映っていたコンロのつまみ、土鍋はねじれて混ざる。
平衡感覚が消え、地につこうとした足をひねる。
視界が真っ暗に染まる。
そのまま藤宮の横を通り過ぎ、倒れるかといったその時。
「ちょっとっ」
柔らかな花の匂いと、心地よい人の温もり。
その腕が、僕の身体を支えた。
半分ほど立ったまま、僕の意識は闇に落ちていった。