28.齟齬
ズズ、と鼻の音がなった。
ゆっくりと、まどろんだ意識のまま目を開く。
窓からの月明かりが、ほんの少しだけ目を眩ませた。
ここはどこで今何時なのか。
生まれた疑問を消化しようと身体を起こす。
「......ッツつ」
鈍器で殴られたかのような鈍い痛みが後頭部に響く。
思わず頭を抑えた。
ふと、太ももの上あたりに落ちたそれに視線を落とす。
ひんやりとしたそのタオルを手にとって、ようやく自分の身体から落ちたのだと理解できた。
じんわりと温もりを纏った毛布と布団。
額に貼られた冷たいシート。
そして、鼻は詰まっているものの、ほんの僅かに香る花の匂い。
周囲を見渡す。
見覚えのある勉強机に、側に山積みにされている紙の束。
先程まで自分が後頭部をつけていた枕を触って、ようやく事態に収拾がついた。
「......自分の部屋か」
ポツリと呟き、布団から足を出して地面につく。
ひんやりとした冷たさが、足をつたって全身に駆け巡った。
立とうと足に力を込める。
その時、ぐらりと視界が揺れた。
すぐにベッドに座り込み、重たかったのかベッドも軋む。
さて、どうしたものか。
そう考えたその時。
ガチャリとリビングに通ずる扉が開いたのが聞こえた。
タッタッタ、と軽い音が二階廊下の方から響く。
再び立とうと、今度は壁に体重を預ける。
ガチャリと扉が開いた。
電気がつき、急な明かりに目が眩む。
「あーもう、ゆっくりしててって」
数瞬もしないうちに慣れた後、現れた彼女は僕の肩を押した。
優しく、丁寧な手つきだった。
拒絶する力もなく、促されるがまま僕もベッドに腰を下ろす。
「......藤宮か」
「はいはい、そうだよ。ほら横になって布団に入る」
「ん、ああ」
ツンとした口調で言いつつ、藤宮は僕の背中と肩に手をやる。
やんわりとした力で身体はベッドに真っ直ぐ倒されていく。
横になったと思えば、すぐに毛布をかけられた。
彼女は勉強机に置かれた洗面器の上で、濡れタオルを絞った。
「......いつの間にこの部屋に」
「私が運んだの。白鷺くん軽いから割と簡単だったよ」
パッパと軽く手についた水滴を払い、藤宮は僕の首元にそのタオルを置いた。
じんわりと熱かった体温が、ほんのりと冷めていくのを肌で感じた。
「これで軽く汗拭いて。余裕があるならご飯持ってくるし」
「ちょっと待て」
鈍痛を傍らに身体を起こす。
タオルが首元から落ちた。
「......いくつか聞きたいことがあるんだが」
「それを聞くのはご自由に。答えるかどうかはともかく」
ほんの少し。
ほんの些細な感覚だが、背筋に寒気が走った。
扉に身体を向けたままの彼女の目は、僕を見ていない。
その視線は、僕から剥がれ落ちたタオルと布団を見ている。
が、その瞳は確かな酷寒の空気を孕んでいた。
「......僕はどうやって着替えたんだ?」
「高杉さんが三時間くらい前に帰ってきて、伝えたら高杉さんが白鷺くんを着替えさせたみたいだよ。風呂上がりで服は濡れてなかったけど、汗かいてたし」
とすると、今は倒れてからそれなりに時間が経ったのだろうか。
「わかった。今何時だ?」
「......今は九時。今日の修行はなくして、風呂とかも済ませた」
「......そうか」
かなり迷惑をかけたようだ。
その事実に罪悪感が湧き、自然と頭が下がった。
「ごめん藤宮。今日家事とか丸々任せて」
「......それはいいんだよ」
藤宮がわかりやすく息を吐き出す。
その瞼は閉ざされていた。
「どうか、したのか?」
これだけあからさまにされれば聞かずにはいられない。
そう思って口にした言葉に、藤宮は目を細めて僕を見た。
「――あのさ、もうちょっと自分の心配したらどう?」
「心配?」
小首を傾げる。
「帰る時も体調悪いなら私を待ったり、しんどいなら台所に立たず横になったり、後頭痛いなら正直に痛いって言って」
「確かに体調は悪いが、藤宮に言うほどじゃ――」
「倒れてるのに?」
ない、と続けようとした口を噤む。
事実だった。
「......友達ならね、もうちょっと頼ってよ。私の迷惑とか考えなくていいから」
「もう充分頼ってないか?」
家事、洗濯、料理、高杉さんへの引き継ぎ、全てやってもらっている。
これ以上何を頼るというのか。
「......そうじゃなくて」
藤宮は一瞬眉間にシワを寄せて、大きく息を吐く。
「弱ってるときだけでも良いから、貴方の口から、もっと私に頼ってほしいの」
その目は真っ直ぐに、僕を見つめた。
それは、いつものように温かなものではない。
「なんでも良い。今日の当番変わってとか、タオル変えてとか、そんなんでいいの」
その瞳には、小さな怒気とは別に寂しげな陰が映っていた。
「これじゃ、まるで――」
一瞬、藤宮の口が閉ざされる。
一度視線を逸らし、口ごもる。
今度は怒りが消え、少しだけ潤んだ瞳で僕を見据えて、言葉を紡いだ。
「――友達じゃ、ないみたいじゃん」
ぐつぐつと、先とは違い煮えたぎってはいない。
そのおかゆは、既に冷めていた。
「そりゃあ――」
何の疑念の余地もなく、その口を開く。
「――僕たちは、契約者同士だろ」
ハッと、藤宮は目を丸くした。
瞬きをするような、ほんの些細な間。
けれど確かに。
冷気が走った。
バチンと。
胸元辺りに衝撃が走る。
「知らないっ! 馬鹿っ!」
藤宮はおかゆもタオルも、全てを置いて部屋を飛び出していった。
ドタドタと騒がしく階段を降りる音で、ようやくタオルを投げつけられたのだと理解できた。
「......なんなんだよ、ほんとに」
回ることのない頭は、そう言葉を吐き出すのに精一杯だった。