
第二十ニ話 ぐる風
月兎亭の裏庭に、朝から風が流れていた。自然の風ではない。試作機が生み出す、一定の流れ。ぶぉぉぉ......と低く鳴りながら、
羽根が回り続けている。魔石の光が青白く、朝の日差しの中でも
かすかに揺れている。 洗濯物が揺れていた。前とは違う揺れ方だった。だらりと垂れて
いるのではなく、風を受けてふわりと膨らんでいる。布の端が、
軽やかに泳いでいる。 女将が洗濯物の端を手で触った。「......乾いとりますわ」 静かに言った。それから、メリアの方を向いた。「おおきに。ほんまに助かってます」 驚きは少ない。昨日も一昨日も同じだったから。でも、毎朝触る
たびに、少しだけ目元がやわらかくなる。女将は軽く頭を下げて、
洗濯物を取り込み始めた。手際がいい。迷いがない。 窯の入り口にも、もう一台置かれていた。調理中は別だ。火を
使えば空気が動く。試作機があると、その熱が散る。流れる。「やっぱり楽やわ」 リナが厨房から顔を出した。額に汗がない。いつもなら
もう光っている時間だ。「効率は向上しています」 メリアが言った。「見た目以外は最高やな」「見た目も問題ありません」「問題あるわ!なんか光ってるやん、ずっと」「魔石の光です」「わかっとる!わかっとるけど!」(まだ改良できる。光を絞れば、見た目の圧も減らせる)
れもんの声が届いた。「......なるほど」「また改造するん!?」 リナが叫ぶ。メリアはすでに試作機を見ていた。――
昼になった。試作機の噂は、もう宿の客の間には知れ渡っている。怖い、という評判と、便利らしい、という評判が混在していた。 港仕事帰りの男が、試作機の前で足を止めた。日に焼けた顔。分厚い手。腕を組んで、しばらく眺めている。「......怖ぇな」「せやろ?」 リナが即座に同意した。「なんか呪われそうや」「呪いません。風が出ているだけです」「ふぅん」 男は少し屈んで、羽根を覗き込んだ。回っている。速い。近い。「布かぶせりゃ、見た目マシになるんじゃねぇか」「やめとき!」 リナが言った。男はすでに手ぬぐいを取り出していた。近づける。「ちょちょ!待ちぃや!」 羽根が、布の端を吸い込んだ。 ぐ、と音がした。 メリアが即座に魔力を遮断した。回転が落ちる。ぶぉ......ぶぉ......ゆっくりと。止まる。 静寂。 手ぬぐいが、羽根に絡まっていた。端の方だけ。深くはない。でも、はっきりと巻き込まれていた。(危ない。布とか、そういうものが近づくのは想定してなかった)
れもんの声が来た。「次からはやめて」 メリアが男を見た。男は手ぬぐいを引き抜きながら、ばつが
悪そうにしていた。「......すまん」「ああ」 リナが額を押さえた。「ほらな!やっぱり危ないやん!」「使い方の問題」「使い方の問題で済んだからよかったけど!」――
事故未遂の後、メリアはしばらく試作機を見ていた。羽根が
剥き出しになっている。回転している間、外から手が届く。布が届く。それが問題だ。回転するものは、近づけてはいけない。でも、近づけたくなる。見えているから。動いているから。「柵が要ります」「何?」「羽根の外側に、枠を付けます。手も布も入らない隙間で」 リナが少し考えた。「......ああ、なるほど」「木で作れます。今日中に」「また工作するん」「安全のためです」 女将が縁側から聞いていた。「それは助かりますわ。お客さんが近づいてもうて、
ひやっとしましたから」「申し訳ありませんでした」「メリアはんのせいやないけど、あると安心どす」 材料は裏庭にあった。先日の作業で余った板。それを組む。羽根の外周に合わせて、四角い枠を作る。隙間は指が入らない
幅に。上も塞ぐ。固定する。 リナが横で見ていた。「......ちょっとマシになったやん」「そうですか」「なんか、箱みたいになった。まだ光ってるけど」「魔石は内側に移しました」「あ、ほんまや。光が中に入った」 外から見ると、枠の隙間から青白い光が漏れている。回路の光も、
柵の内側で走っている。さっきより、落ち着いた印象だった。「効率は?」「微減です。五パーセント程度」「許容範囲やな」「はい」(安全性は上がった。これくらいの損失なら許容範囲)
れもんが補足した。「誰と話してんねん、いつも」 リナがぼやく。いつもよりトーンが低い。もう慣れてきた
証拠だった。――
夕方。裏庭に、リナがいた。試作機の前で、腕を組んでいる。柵付きの、改良版。羽根は見えにくくなった。光は内側に収まった。風は変わらず出ている。 しばらく眺めていた。
「これな」 リナが言った。「名前、いるやろ」 メリアは少し考えた。「......そうですね」「回っとる。ぐるぐる。風が出る」「はい」「ぐる風や」「安直です」「回っとるやろ!風やろ!そのままやろ!」「もう少し考えてもいいと思う」「ええねん、わかりやすい方が!」(たぶん定着する。短い名前の方が広まりやすい)
れもんが静かに言った。マヨのときも同じ分析だった、とメリアは
思った。「......ぐる風」 小さく繰り返す。「悪くないやろ?」「......覚えやすいです」「決まり!」 リナが両手を上げた。――
翌朝。厨房にもう一台、ぐる風を置いた。試作機から少し
改良したものだ。柵付き。魔石は内側。回路は簡略化した部分を
補った。女将が調理をしている。ぐる風が回っている。熱気が散る。厨房の空気が、前より流れている。 昼になった。常連が入ってくる。港帰り。仕事終わり。席に
着いて、飲み物を頼む。その中の一人が、厨房の入り口を見た。「あれ、動いてるな」「ぐる風ですよ」 リナが言った。自然に。「なんだそれ」「風が出る道具です。涼しくなります」「へぇ」 男は特に驚かなかった。そういうものか、という顔で、また杯を
傾けた。その反応が、メリアには少し意外だった。怖がるでもなく、
驚くでもなく、ただ日常として受け取った。 別の常連が言った。「ぐる風、貸してくれねぇか?うちの作業場が暑くてな」「貸し出しはしてへんけど」 リナが答える。「作ってもらえるか」「......メリアちゃんに聞いとく」 リナが振り返ると、メリアがすでに話を聞いていた。「材料費と工賃は必要」「いくらだ」 値段を言った。男は少し考えて、頷いた。「頼む」 リナが小さく声を上げた。「初受注や!」「......ですね」 メリアは少しだけ、表情がやわらかくなった。照れているのか、
驚いているのか。自分でもよくわからない顔で、試作機を見た。ぐる風は変わらず回っている。光っている。風が出ている。呪物と
呼ばれた最初の夜から、ずいぶん遠くまで来た気がした。――
夜になった。裏庭のぐる風は、まだ回っていた。日が落ちて、
空が暗くなると、柵の隙間から漏れる光がよく見える。青白い。一定のリズムで脈動している。でも、最初の夜のような不気味さは
なかった。柵があるから。光が内側に収まっているから。なんとなく、落ち着いた光だった。 リナが縁側に腰を下ろして、ぐる風を眺めていた。「最初は呪物やったのにな」「呪物じゃない」「見た目の話や」 メリアも縁側に座った。並んで、ぐる風を見る。 回っている。静かに。一定に。風が出ている。裏庭の空気が、
ゆっくりと流れている。洗濯物が、夜の中でかすかに揺れていた。「進化した」 メリアが言った。「ほんまやな」 リナが頷く。 しばらく、二人とも黙っていた。 ぐる風が回る。風が流れる。秋の夜の空気が、やわらかく動いて
いた。 最初は洗濯物を乾かしたかっただけだった。それだけのことが、
こうなった。名前がついて、柵がついて、受注が入った。どこから
どこまでが計画で、どこから偶然なのか、よくわからない。 ただ、風は続いている。(記録完了)
れもんの声が、静かに来た。 メリアは小さく頷いた。秋の夜の裏庭で、ぐる風だけが、変わらず
回り続けていた。 第二十ニ話 ぐる風
月兎亭の裏庭に、朝から風が流れていた。自然の風ではない。試作機が生み出す、一定の流れ。ぶぉぉぉ......と低く鳴りながら、
羽根が回り続けている。魔石の光が青白く、朝の日差しの中でも
かすかに揺れている。 洗濯物が揺れていた。前とは違う揺れ方だった。だらりと垂れて
いるのではなく、風を受けてふわりと膨らんでいる。布の端が、
軽やかに泳いでいる。 女将が洗濯物の端を手で触った。「......乾いとりますわ」 静かに言った。それから、メリアの方を向いた。「おおきに。ほんまに助かってます」 驚きは少ない。昨日も一昨日も同じだったから。でも、毎朝触る
たびに、少しだけ目元がやわらかくなる。女将は軽く頭を下げて、
洗濯物を取り込み始めた。手際がいい。迷いがない。 窯の入り口にも、もう一台置かれていた。調理中は別だ。火を
使えば空気が動く。試作機があると、その熱が散る。流れる。「やっぱり楽やわ」 リナが厨房から顔を出した。額に汗がない。いつもなら
もう光っている時間だ。「効率は向上しています」 メリアが言った。「見た目以外は最高やな」「見た目も問題ありません」「問題あるわ!なんか光ってるやん、ずっと」「魔石の光です」「わかっとる!わかっとるけど!」(まだ改良できる。光を絞れば、見た目の圧も減らせる)
れもんの声が届いた。「......なるほど」「また改造するん!?」 リナが叫ぶ。メリアはすでに試作機を見ていた。――
昼になった。試作機の噂は、もう宿の客の間には知れ渡っている。怖い、という評判と、便利らしい、という評判が混在していた。 港仕事帰りの男が、試作機の前で足を止めた。日に焼けた顔。分厚い手。腕を組んで、しばらく眺めている。「......怖ぇな」「せやろ?」 リナが即座に同意した。「なんか呪われそうや」「呪いません。風が出ているだけです」「ふぅん」 男は少し屈んで、羽根を覗き込んだ。回っている。速い。近い。「布かぶせりゃ、見た目マシになるんじゃねぇか」「やめとき!」 リナが言った。男はすでに手ぬぐいを取り出していた。近づける。「ちょちょ!待ちぃや!」 羽根が、布の端を吸い込んだ。 ぐ、と音がした。 メリアが即座に魔力を遮断した。回転が落ちる。ぶぉ......ぶぉ......ゆっくりと。止まる。 静寂。 手ぬぐいが、羽根に絡まっていた。端の方だけ。深くはない。でも、はっきりと巻き込まれていた。(危ない。布とか、そういうものが近づくのは想定してなかった)
れもんの声が来た。「次からはやめて」 メリアが男を見た。男は手ぬぐいを引き抜きながら、ばつが
悪そうにしていた。「......すまん」「ああ」 リナが額を押さえた。「ほらな!やっぱり危ないやん!」「使い方の問題」「使い方の問題で済んだからよかったけど!」――
事故未遂の後、メリアはしばらく試作機を見ていた。羽根が
剥き出しになっている。回転している間、外から手が届く。布が届く。それが問題だ。回転するものは、近づけてはいけない。でも、近づけたくなる。見えているから。動いているから。「柵が要ります」「何?」「羽根の外側に、枠を付けます。手も布も入らない隙間で」 リナが少し考えた。「......ああ、なるほど」「木で作れます。今日中に」「また工作するん」「安全のためです」 女将が縁側から聞いていた。「それは助かりますわ。お客さんが近づいてもうて、
ひやっとしましたから」「申し訳ありませんでした」「メリアはんのせいやないけど、あると安心どす」 材料は裏庭にあった。先日の作業で余った板。それを組む。羽根の外周に合わせて、四角い枠を作る。隙間は指が入らない
幅に。上も塞ぐ。固定する。 リナが横で見ていた。「......ちょっとマシになったやん」「そうですか」「なんか、箱みたいになった。まだ光ってるけど」「魔石は内側に移しました」「あ、ほんまや。光が中に入った」 外から見ると、枠の隙間から青白い光が漏れている。回路の光も、
柵の内側で走っている。さっきより、落ち着いた印象だった。「効率は?」「微減です。五パーセント程度」「許容範囲やな」「はい」(安全性は上がった。これくらいの損失なら許容範囲)
れもんが補足した。「誰と話してんねん、いつも」 リナがぼやく。いつもよりトーンが低い。もう慣れてきた
証拠だった。――
夕方。裏庭に、リナがいた。試作機の前で、腕を組んでいる。柵付きの、改良版。羽根は見えにくくなった。光は内側に収まった。風は変わらず出ている。 しばらく眺めていた。
「これな」 リナが言った。「名前、いるやろ」 メリアは少し考えた。「......そうですね」「回っとる。ぐるぐる。風が出る」「はい」「ぐる風や」「安直です」「回っとるやろ!風やろ!そのままやろ!」「もう少し考えてもいいと思う」「ええねん、わかりやすい方が!」(たぶん定着する。短い名前の方が広まりやすい)
れもんが静かに言った。マヨのときも同じ分析だった、とメリアは
思った。「......ぐる風」 小さく繰り返す。「悪くないやろ?」「......覚えやすいです」「決まり!」 リナが両手を上げた。――
翌朝。厨房にもう一台、ぐる風を置いた。試作機から少し
改良したものだ。柵付き。魔石は内側。回路は簡略化した部分を
補った。女将が調理をしている。ぐる風が回っている。熱気が散る。厨房の空気が、前より流れている。 昼になった。常連が入ってくる。港帰り。仕事終わり。席に
着いて、飲み物を頼む。その中の一人が、厨房の入り口を見た。「あれ、動いてるな」「ぐる風ですよ」 リナが言った。自然に。「なんだそれ」「風が出る道具です。涼しくなります」「へぇ」 男は特に驚かなかった。そういうものか、という顔で、また杯を
傾けた。その反応が、メリアには少し意外だった。怖がるでもなく、
驚くでもなく、ただ日常として受け取った。 別の常連が言った。「ぐる風、貸してくれねぇか?うちの作業場が暑くてな」「貸し出しはしてへんけど」 リナが答える。「作ってもらえるか」「......メリアちゃんに聞いとく」 リナが振り返ると、メリアがすでに話を聞いていた。「材料費と工賃は必要」「いくらだ」 値段を言った。男は少し考えて、頷いた。「頼む」 リナが小さく声を上げた。「初受注や!」「......ですね」 メリアは少しだけ、表情がやわらかくなった。照れているのか、
驚いているのか。自分でもよくわからない顔で、試作機を見た。ぐる風は変わらず回っている。光っている。風が出ている。呪物と
呼ばれた最初の夜から、ずいぶん遠くまで来た気がした。――
夜になった。裏庭のぐる風は、まだ回っていた。日が落ちて、
空が暗くなると、柵の隙間から漏れる光がよく見える。青白い。一定のリズムで脈動している。でも、最初の夜のような不気味さは
なかった。柵があるから。光が内側に収まっているから。なんとなく、落ち着いた光だった。 リナが縁側に腰を下ろして、ぐる風を眺めていた。「最初は呪物やったのにな」「呪物じゃない」「見た目の話や」 メリアも縁側に座った。並んで、ぐる風を見る。 回っている。静かに。一定に。風が出ている。裏庭の空気が、
ゆっくりと流れている。洗濯物が、夜の中でかすかに揺れていた。「進化した」 メリアが言った。「ほんまやな」 リナが頷く。 しばらく、二人とも黙っていた。 ぐる風が回る。風が流れる。秋の夜の空気が、やわらかく動いて
いた。 最初は洗濯物を乾かしたかっただけだった。それだけのことが、
こうなった。名前がついて、柵がついて、受注が入った。どこから
どこまでが計画で、どこから偶然なのか、よくわからない。 ただ、風は続いている。(記録完了)
れもんの声が、静かに来た。 メリアは小さく頷いた。秋の夜の裏庭で、ぐる風だけが、変わらず
回り続けていた。