
第十九話 乾かへん!
朝。月兎亭の裏庭は、空気が淀んでいた。 秋に入ってからも雨の日が続いていた。昨夜も降った。湿り気が
路地の底に溜まったまま抜けていない。石畳が湿っている。壁が
湿っている。積み上げた木箱の角にも、うっすらと水気がついて
いた。葉が色づき始めた頃合いなのに、空はまだ白く重い。 物干しロープに、洗濯物が並んでいる。揺れていない。垂れて
いる。シャツ。布巾。分厚い作業着。どれも重そうに、だらりと。朝日がかろうじて差してはいるが、その光もどこか湿った色をして
いた。 女将がロープの前に立っていた。両腕を組んで、静かに見ている。困っている顔だが、騒がない。ため息ひとつ。それだけ。「乾かへん!」 リナが叫んだ。 手をかざす。風が来た。ぶわ、と一瞬。布が揺れる。 ......それだけ。 すぐ止まる。布は揺れをやめて、また垂れる。さっきと
変わらない。「なんでや!」 もう一度。ぶわ。揺れる。止まる。揺れる。止まる。「乾かへん!!」 メリアは少し離れて、見ていた。――
「強めるで!」 リナが構えた。足を開いて、両手を前に出す。気合いが入って
いる。 集中。 風が強くなった。布がばさっと揺れる。大きく。ロープが
きしむほどに。端の方の作業着が、ほとんど水平になりかけた。でも止まった。布は重く落ちる。濡れたまま。「なんでやねん!」(風速不足。持続不足)
れもんの声が、メリアの耳の奥に届いた。 メリアは洗濯物を見たまま、小さく言った。「......回したほうがいい」「何を!?」 リナが即座に振り返る。「空気」「もう回っとるやろ!風出しとるやん、ちゃんと!」「一方向」 リナが止まった。「......は?」――
メリアは物干しロープの前に進んだ。手をかざす。目を少し
細める。 空気の流れを、なぞっている。目には見えない。でも、
指の腹に微妙な温度差がある。湿った空気は重い。重いものは
下に溜まる。「湿った空気が、ここに溜まる」 布の周りを、指でなぞるようにして示した。「動かない」 リナが眉を寄せる。「当てるだけだと、逃げない」「難しいこと言わんといて!」「......ぐるっと」「擬音やめて!」 即座に来た。
メリアは少し首を傾げた。擬音のつもりはなかったのだが、
うまく言葉が出なかった。「回せば、入れ替わる」「回すって、どういうことや」「風を当てて押し出すだけでは、押された空気の行き先が
ありません。でも渦を作れば、湿った空気が出て、乾いた
空気が入る。入れ替わる」 リナは少し考えた。「......それ、つまり」「湿気が逃げる」(循環さえ起きれば湿度は下がる。理屈としては通ってる)
れもんの補足が来た。 リナは洗濯物を見た。風を当てる。ばさっ。止まる。また湿る。「......あかん」 肩を落とす。 女将が静かに言った。「風が来んときは、いつもこうどす。今年は秋雨が長うて」「秋なのに、乾かない」「葉が落ちる前に片づけてしまいたいんどすけど、なかなか」 メリアは少し考えた。「......秋の雨は、粒が細かい」「そうどすね。しっとりと染み込みますわ」――
メリアは、昨日の紙を思い出していた。 小さな店。眼鏡の女店主。棚に並んだ陣紙。使ったあとただの
白になった紙。一瞬だけの風だった。でも確かに、風だった。強くて、本物だった。続かなかっただけで。「......一瞬だけなら、動く」 小さく言った。(問題は持続の方)
れもんが言う。「そう。回し続けられたら」「何を?」 リナが即座に聞く。「風を」「どうやって!?」 強めのツッコミが来た。 沈黙。少しだけ。リナがもう一度、風を出す。ぶわ。布がばさ、と揺れる。止まる。「もうええ!」 手を下ろした。肩で息をしている。額に汗が光っている。「自然乾燥でええわ!昼まで待てば、少しはマシになるやろ!」 女将が静かに頷いた。「毎年そうしとります」 リナが地面に座り込んだ。「魔法やのに、洗濯物も乾かせへんて、どういうことやねん」「魔法は万能じゃない」「それはわかっとる!でも悔しいやろ!」――
「......回せばいい」 メリアは小さく言った。「だから何を!」 リナが地面から顔を上げて、食い気味に返す。 メリアは少し考えた。本当に少し。「......羽根」「は?」 完全に止まった。リナが固まる。女将も手を止める。「羽根を回すと、風が起きます。風が起きれば、空気が動く」「......それって」「持続させるには、何かで回し続ける必要があります」「何かって」「水か、風か」(回転機構。水力か風力で駆動するのが現実的)
れもんの声が、静かに続いた。メリアはそれを聞きながら、
裏庭の隅に目をやった。昨夜の雨水が溜まっている。雨樋から
落ちたものが、そのままになっていた。落ち葉が一枚、水面に
浮いていた。 リナが目を細めた。「......また変なん作る気やろ!?」 メリアは否定しなかった。「回せば、乾く」 短く言った。 リナがため息をついた。長い。盛大な。「絶対また巻き込まれる」「助かります」「頼んでへんわ!」 女将が小さく笑った。静かに、品よく。どこか楽しそうだった。「楽しみにしてますわ」「おかんまで!」 裏庭に、リナの声が響く。 風は、止まったままだった。洗濯物は、まだ乾いていない。 でも次に動くのは、空気ではなかった。 第十九話 乾かへん!
朝。月兎亭の裏庭は、空気が淀んでいた。 秋に入ってからも雨の日が続いていた。昨夜も降った。湿り気が
路地の底に溜まったまま抜けていない。石畳が湿っている。壁が
湿っている。積み上げた木箱の角にも、うっすらと水気がついて
いた。葉が色づき始めた頃合いなのに、空はまだ白く重い。 物干しロープに、洗濯物が並んでいる。揺れていない。垂れて
いる。シャツ。布巾。分厚い作業着。どれも重そうに、だらりと。朝日がかろうじて差してはいるが、その光もどこか湿った色をして
いた。 女将がロープの前に立っていた。両腕を組んで、静かに見ている。困っている顔だが、騒がない。ため息ひとつ。それだけ。「乾かへん!」 リナが叫んだ。 手をかざす。風が来た。ぶわ、と一瞬。布が揺れる。 ......それだけ。 すぐ止まる。布は揺れをやめて、また垂れる。さっきと
変わらない。「なんでや!」 もう一度。ぶわ。揺れる。止まる。揺れる。止まる。「乾かへん!!」 メリアは少し離れて、見ていた。――
「強めるで!」 リナが構えた。足を開いて、両手を前に出す。気合いが入って
いる。 集中。 風が強くなった。布がばさっと揺れる。大きく。ロープが
きしむほどに。端の方の作業着が、ほとんど水平になりかけた。でも止まった。布は重く落ちる。濡れたまま。「なんでやねん!」(風速不足。持続不足)
れもんの声が、メリアの耳の奥に届いた。 メリアは洗濯物を見たまま、小さく言った。「......回したほうがいい」「何を!?」 リナが即座に振り返る。「空気」「もう回っとるやろ!風出しとるやん、ちゃんと!」「一方向」 リナが止まった。「......は?」――
メリアは物干しロープの前に進んだ。手をかざす。目を少し
細める。 空気の流れを、なぞっている。目には見えない。でも、
指の腹に微妙な温度差がある。湿った空気は重い。重いものは
下に溜まる。「湿った空気が、ここに溜まる」 布の周りを、指でなぞるようにして示した。「動かない」 リナが眉を寄せる。「当てるだけだと、逃げない」「難しいこと言わんといて!」「......ぐるっと」「擬音やめて!」 即座に来た。
メリアは少し首を傾げた。擬音のつもりはなかったのだが、
うまく言葉が出なかった。「回せば、入れ替わる」「回すって、どういうことや」「風を当てて押し出すだけでは、押された空気の行き先が
ありません。でも渦を作れば、湿った空気が出て、乾いた
空気が入る。入れ替わる」 リナは少し考えた。「......それ、つまり」「湿気が逃げる」(循環さえ起きれば湿度は下がる。理屈としては通ってる)
れもんの補足が来た。 リナは洗濯物を見た。風を当てる。ばさっ。止まる。また湿る。「......あかん」 肩を落とす。 女将が静かに言った。「風が来んときは、いつもこうどす。今年は秋雨が長うて」「秋なのに、乾かない」「葉が落ちる前に片づけてしまいたいんどすけど、なかなか」 メリアは少し考えた。「......秋の雨は、粒が細かい」「そうどすね。しっとりと染み込みますわ」――
メリアは、昨日の紙を思い出していた。 小さな店。眼鏡の女店主。棚に並んだ陣紙。使ったあとただの
白になった紙。一瞬だけの風だった。でも確かに、風だった。強くて、本物だった。続かなかっただけで。「......一瞬だけなら、動く」 小さく言った。(問題は持続の方)
れもんが言う。「そう。回し続けられたら」「何を?」 リナが即座に聞く。「風を」「どうやって!?」 強めのツッコミが来た。 沈黙。少しだけ。リナがもう一度、風を出す。ぶわ。布がばさ、と揺れる。止まる。「もうええ!」 手を下ろした。肩で息をしている。額に汗が光っている。「自然乾燥でええわ!昼まで待てば、少しはマシになるやろ!」 女将が静かに頷いた。「毎年そうしとります」 リナが地面に座り込んだ。「魔法やのに、洗濯物も乾かせへんて、どういうことやねん」「魔法は万能じゃない」「それはわかっとる!でも悔しいやろ!」――
「......回せばいい」 メリアは小さく言った。「だから何を!」 リナが地面から顔を上げて、食い気味に返す。 メリアは少し考えた。本当に少し。「......羽根」「は?」 完全に止まった。リナが固まる。女将も手を止める。「羽根を回すと、風が起きます。風が起きれば、空気が動く」「......それって」「持続させるには、何かで回し続ける必要があります」「何かって」「水か、風か」(回転機構。水力か風力で駆動するのが現実的)
れもんの声が、静かに続いた。メリアはそれを聞きながら、
裏庭の隅に目をやった。昨夜の雨水が溜まっている。雨樋から
落ちたものが、そのままになっていた。落ち葉が一枚、水面に
浮いていた。 リナが目を細めた。「......また変なん作る気やろ!?」 メリアは否定しなかった。「回せば、乾く」 短く言った。 リナがため息をついた。長い。盛大な。「絶対また巻き込まれる」「助かります」「頼んでへんわ!」 女将が小さく笑った。静かに、品よく。どこか楽しそうだった。「楽しみにしてますわ」「おかんまで!」 裏庭に、リナの声が響く。 風は、止まったままだった。洗濯物は、まだ乾いていない。 でも次に動くのは、空気ではなかった。