愛ゆえの狂気。
私は、ひたすら来るなと祈った朝を迎えてしまった。
そして、来てしまった。
学校の、校舎に。
昇降口で上履きに履き替えて、思う。
やるしか、ない。やらなければならない。
でも、なにをすればいいのか。
私は、取り返しのつかない事をやる前のように、心臓が妙に重く、はっきりと脈を打つのが指先からも感じた。
夏の蒸し暑い中なのに、ぞわりと肌寒く、全身に伝わる鼓動が気色悪い。
まるで、これから犯罪を犯して、人生を汚すような、胸の底から恐怖で震える、嫌な感じ。
手のひらが小刻みに震えて、しっかり握ろうとしても上手く動かせない。
呼吸も荒くなって、息が震える。
急に喉の奥がつっかえて、思わず胃液を吐き出しそうになった。
これは、まずい。
ひとまず、身体を落ち着けよう。息をゆっくり吸えて、胸の奥がすっきり晴れるような、そんな場所に逃げなければ。
全身が心臓になったように、どくん、どくんと身体を揺らしながら、もろくておぼつかない足先を、廊下に確かに乗せてゆく。
気持ち悪い、吐きたい、助けて。
そんな中、音が聞こえた。
ひとつひとつが整っていて、いびつな氷を優しく溶かすような、ほんわかと優しい形をした音だ。
これは、楽器の音? 音楽室の渡り廊下を通るたびに聞き慣れた、懐かしくも聴こえる音。
その音に導かれるように、危うい足取りで辿って、次第には壁伝いに歩いた。
そして、まるで助けを乞うような、みっともない姿のケダモノは、見てしまった。
吹奏楽部が練習をしている音楽室が、色々な音色に重なって、暖かな色に光り輝くのを。
不格好な体勢で見つめる私に、変な目を向ける吹奏楽部員もいた。
響き渡る金管楽器の澄んだ音色。丁寧に手入れされた譜面台。それらすべてが、醜く覗く私の瞳には、誰かの命を削って作り上げられた、あまりにもきらびやかで、心地よい熱さえも感じる「幸福の残骸」に見えた。
(この音は、この光は優しすぎる。この幸せ達が存在するだけで、死んでしまうあの子が不幸だと証明してしまう)
誰かに声をかけられた。けれど、返事をするための喉は、もう、言葉を紡ぐ機能を失っていた。代わりに、暗く、冷たい、獣のような衝動が、指先から這い上がってくる。
消さなきゃ、あいつらがあの子を嘲笑っている。
助けなきゃ、あいつらを消せばあの子は幸せになれる。
不幸だと証明できなければ、あそこの幸福が彼の幸せになる。
そうだ、いけ。
そうだ、やれ。
私は、ゆっくりと、しかし確実な足取りで、その「幸福」の真ん中へと踏み出した。
――まず、この音を殺そう。
私は、近くにあった譜面台を、無造作に、しかし迷いなく薙ぎ倒した。
「きゃー!」
「あんた、なによ!」
倒れる譜面台を蹴飛ばし、近くにいた女の子から、光り輝く金管楽器を奪い取る。
真鍮なのに、奏者の女の子が持っていたからか、少し生暖かい。
でも、そんなのどうでもいい。
「やめて!」
女の子の悲鳴が聞こえる。
やめて、やめて。
私だってやめたいよ。
でも、ここでやめたら、ケイくんが死ぬ。
そんな怖がった目で見るな。
お前らが幸せなのが悪いんだから。
できなくなるだろ。こっちを向くな、やめろ。
やるしか、ないんだから。
「ぁぁああああ!!」
自分でも驚くぐらい、喉が裂けてしまいそうな激しい咆哮が迸った。
表面的でもいい、形からはいるように、私は狂気に胸を昂らせる。
そうだ、狂え。くだらないことは考えるな。
余計なものは、視界にいれるな。
私という、女子高生の形をしただけの獣は、悲鳴のような咆哮と共に重い楽器振り回す。
女の子が軽く持ち上げて構えてるように見えて、意外にも重い。
思うようには打ち振る事はできず、ガシャン、と鈍い音と共に、誰かの「痛い!」という短い悲鳴。
視線を向ければ、女の子が額から血を流してうずくまっていた。
微かに、鉄臭い匂いと、女の子特有の柔軟剤の匂い。
そして、
「あ......」
怪我をさせてしまった、事実。
その事を確認して、心がしんと静まる。
罪悪感がのしかかるはずなのに、それよりも焦燥感がじわじわと溢れ出て、早くしろとせがんでくる。
......足りない。
まだ能力の前兆すら感じないんだ。
この子の怪我くらいじゃ、あの子の命の重さと釣り合わない。
もっと、もっと重い罪を。
神様が目を背けたくなるような、決定的な「悪」にならなきゃ。
私が地獄に落ちる代わりに、あの子を三途の川から引きずり戻すんだ。
思考は冷え切っていた。目の前の吹奏楽部の生徒たちが、人間ではなく、ただの「天秤の重り」に見えた。
「......ごめんなさい」
謝罪は口をついて出たけれど、足は止まらなかった。
場所なんてどこでもいい。
一番近くの、罪を犯しやすいところだ。
廊下を練り歩く私は、嗚咽も漏らさず、ただ静かに瞳から涙を流していた。
地味に蒸し暑い、薄暗い廊下。
自身の汗が、脂汗のようににじみ出ていて。
制服のワイシャツに、嫌に纏わりつく。
気持ち悪い。涙を流してしまう私も、身体に纏わりつく妙な暑さも。
私は、今どんな顔してるのか。壊れた表情なのか、泣きそうな顔をしてるのか。
感情の壊れた表情筋を伝って、顎下を乱雑に揺れる水滴は、ぽつりぽつりと淋しそうにこぼれる。
私が辿ったあとは、まるで涙でできた悲劇への花道のよう。
ガシャン、ゴシャ。
「な、なんだお前! みんな、作品を守れ!」
手頃な場所に美術室があったから、作業中の部員に近付いた。
彫刻を薙ぎ倒し、掴んで投げる。
作品がちゃんと磨けてないから、ささくれが指に刺さって痛い。
ちゃんと磨けよ、ばかやろう。
投げて、投げてはガラリと壊れて、破壊音に倣うように、私の心もガラリと音をたてる。
(苦しい、なんでこんなに人を陥れているのに......)
思って気付いた。
そうだ、一線を踏み越えてないんだ。
ふと視界に黄色いカッターが横切る。
これしかない。
そう手を伸ばして、私の一歩を後押しするように、ケイくんの笑顔がちらついた。
でも守りたいあの笑顔が、なぜか今は、邪魔だ。
どけ、消えろ。
手にしたカッターの刃を押し出す。つるつるととしたプラスチックの表面が、手汗で少し滑る。
落としては、ならない。これは、彼の人生を変えてくれる伝説の武器。光り輝く、一筋の刃。
強く握って、しっかり掴む。
出っ張りのスライダーに指をかけて、押し出しに重さを感じた。
人の人生、人の幸福、人の尊厳、人の......命。
どれも重くて、それが指の動きを、一瞬止める。
でも、殺るんだ。重くても、絶対、動かせ。
そして、カチ、カチリ、という乾いた音が鳴ってくれて。
私の人生の終わる音に聞こえた。
誰でもいい。誰かを傷つけて、私が「加害者」になれば。
その代償として、奇跡は起きるはずだ。
私だけが、悪魔になればいい。
「い、いや、たすけて」
ふらり、ふらりとにじり寄る私に、女子生徒は壁際に追い詰められて咄嗟に顔を隠す。
ひっ、ひっと、息がきれる音がする。
女の子の唇が震えて、呼吸も震えて。
彼女から移るように、私の喉元からも聴こえた気がしたけど、それは、知らない。
私の口周りがわなないて、歯がカチカチと鳴ってるのもきっと、気の所為。
そんなことより、さっさと、殺せ。
(逃げて......!)
心で叫びちらかすもう一人の私を押し殺し、身体は殺意の形を模倣していく。
震える手を、確かに支えて。反論する私を抑え込むように。
「だ、誰かあそこにいるマツリカちゃんを助けて!!」
誰かが、こちらを指差して叫ぶ。
(へえ、マツリカちゃんっていうんだ、今から殺すこの子が)
マツリカ。その花の花言葉は、幸福。愛らしさ。
ふーん、愛されてるんだ。じゃあ生贄にするにはちょうどいいね。
そういえばこの子の顔、渡り廊下で見たことある。
同級生と笑いながら歩く、幸せそうな可愛らしい顔立ちの女の子。
いつもそのあどけない笑顔が、憎たらしくて、目障りだった。
ちょうどいい。君のこと、思い出した。
そこらにいる奴らより、一際苛ついていたんだ。
よかったね、彼の命に、君はなれるんだよ? とっても、幸せだ。
あなたが死ねば、世界の等価交換で彼が助かる。あなたには夢も家族もあるだろうけど、私の世界には彼しかいない。
ごめんね。そして、ありがとう。
私の前に現れてくれて。
だから、死んで。
というか、死ね。
私という悪魔は彼の命のために、獲物を見つけて喜んでいる。
もう一人の『高木柊』はまるでみっともなく泣き喚く幼子のように、殺したくない、そんな事したくないとほざいていて。
目の前の女の子は無様に泣き喚いている。
私の手も無様に泣き震えている。
あと一歩踏み込むだけなのに、身体が凍りついたように動かせない。
やめて、私の前で泣かないで。
まだ人間をやめられなくなる。そんな顔みたら弱くなってしまう。
もう一人の私が、表に出てしまう。
あの子のために強くなれない。
あの子が生きるなら、私は人殺しでいいんだから。
もういいんだ、『高木柊』の人生はもういらない。
ケイくんの笑顔がこれからも見れれば、もうどうなったっていい。
これまでの腐った人生もチャラだ。
やれ、いけ。
やめて、そんなこと。
うるさい、だまれ。
いやだ! 誰も......。
よし、殺れ! そのまま......!
さあ、手を振り上げ......
「やめなさい!」
すんでのところで、教師の叫び声が耳に入った。
ビクッと肩が跳ねて、極限まで張り詰めていた糸が切れる。
カラン。
手に持ったカッターが、あっけなく床に落ちた。
しまった。落としてしまった。
いや、手を放せたのか。
違う。なにもかも、違う。
頭をかき乱す目まぐるしい感情の刹那、ホッとしている自分がいた。最低な自分に、安堵している馬鹿がいた。
「何してるんだ、人を殺す気か!」
先生が私を取り押さえる。床の冷たさが頬に触れる。
そうじゃない。そうだけど、違う。私は、ただあの子を助けたくて。
「とりあえずこの事は、保護者に連絡するからな! 職員室に来なさい」
無抵抗になった私を、強引に職員室に連れて行った教師は、しばらく私を叱って、母を学校に呼んだ。
「柊さんの今回の問題はうちで処理します。今日の事は精神状態もありますので、しばらく停学というのは......」
「すみません、うちの娘が......」
何も変わらなかった。
ただ、大好きな母を困らせただけだった。
残ったのは両親の失望と学校の停学処分。
私は、このぽっかりと胸に空いた穴を埋める方法が分からず、気付けばいつの間にか嗚咽を漏らし、頬を濡らしていた。
その夜だった。
家に帰って、シャワーを浴びようとして洗面台の前に立ったとき、気づいた。
右手の親指の爪の、ごく浅い隙間に。茶色く固まった何かがあった。
乾いた血だ。
吹奏楽部の、あの女の子の。
蛇口をひねって、お湯を出す。
爪の先を、ゆっくりと流した。
血は溶けて、渦を描いて、排水口に消えていく。
それだけだった。
頭痛は来なかった。
いつも能力が動くとき、頭の奥からじわじわと広がる、あの重くて鋭い予感が来なかった。
完全な、静寂だった。
鏡の中の自分を見た。腫れた目、乱れた髪、シャツの袖に薄くにじんだ泥の跡。
ただ私がそこにいるだけで、何も変わっていない。
何も、変わっていない。
等価交換は、成立しなかった。
私は蛇口を止めた。
お湯が止まって、洗面台が静かになる。
自分の呼吸の音だけが聞こえる。
涙が出ると思っていたのに、出なかった。泣き叫ぶかと思ったのに、何も来なかった。
ただ、鏡の中の自分が、知らない顔をしていた。
私は誰かを傷つけた。
それでも、ケイくんの未来は何も変わっていない。
つまり私の理論は、最初から間違っていたのかもしれない。
それとも、まだ代償が足りないのか。
あと何人傷つければ、釣り合うのか。
(あと何人......)
その言葉が頭の中で転がった瞬間、腹の底から何かが冷えた。
恐ろしい、と思った。考えている自分が。それでも止まれない自分が。
洗面台の縁をゆっくりと掴んで、私はその冷たい感触だけを頼りに立っていた。
私は間違っていたのか。つばきちゃんを助けたあれは、なにかの間違いなのか?
それとも、ケイくん、君はなにか秘密を持っているのか?
まるで呪いが反発でもしてるかのように、彼に関わる未来はほとんど見れないし、能力の副作用もない。
いつもなら、誰かに手を伸ばした瞬間に呪いが動く。
あの子供の頃の、頭をつんざく激痛と引き換えに、誰かの未来が流れ込んでくる、あの感覚。
でも今夜は、なにも来なかった。
なにもなかったんだ。それどころか。
(......なにか弾かれた、あの感じ)
まるで水面に手を伸ばした瞬間、見えない何かに押し返されたような。
触れたと思ったら、それは鏡に映った反射で。残念、間違えちゃったね、と小賢しい生意気な子供に騙されてるような。
私の呪いに、似たような魔法がぶつかってきて、時に惑わしてる、変な感覚。
今までなかった、初めての感触だ。
分からないその魔法。呪いとは、雰囲気が違う。よく分からない、温かく光るものだ。
一体、なんだというんだ。
君は、何者なんだ。
ケイくん。
いつもの、小生意気な微笑み。
あの笑顔が、あの声が、脳裏をよぎる。
あの子が震わせた指先が。
私には教えてくれなかった、あの小さな震えが。
ケイくん、なんで私に何も言ってくれなかったんだよ。
だから私は、こんなになってしまった。
あなたが教えてくれれば、一緒に考えられたのに。
怒りなのか悲しみなのか分からない感情が胸の奥でくすぶって、それでも涙にはならなかった。
ただ、静かに燃えていた。
彼の運命を変えられなかった。