ホーム›わたしは知っている、君の最期を。……それでも、›愛ゆえの狂気。
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愛ゆえの狂気。

 私は、ひたすら来るなと祈った朝を迎えてしまった。

 そして、来てしまった。
 学校の、校舎に。
 昇降口で上履きに履き替えて、思う。
 やるしか、ない。やらなければならない。

 でも、なにをすればいいのか。

 私は、取り返しのつかない事をやる前のように、心臓が妙に重く、はっきりと脈を打つのが指先からも感じた。

 夏の蒸し暑い中なのに、ぞわりと肌寒く、全身に伝わる鼓動が気色悪い。

 まるで、これから犯罪を犯して、人生を汚すような、胸の底から恐怖で震える、嫌な感じ。

 手のひらが小刻みに震えて、しっかり握ろうとしても上手く動かせない。
 呼吸も荒くなって、息が震える。
 急に喉の奥がつっかえて、思わず胃液を吐き出しそうになった。

 これは、まずい。

 ひとまず、身体を落ち着けよう。息をゆっくり吸えて、胸の奥がすっきり晴れるような、そんな場所に逃げなければ。

 全身が心臓になったように、どくん、どくんと身体を揺らしながら、もろくておぼつかない足先を、廊下に確かに乗せてゆく。

 気持ち悪い、吐きたい、助けて。

 そんな中、音が聞こえた。

 ひとつひとつが整っていて、いびつな氷を優しく溶かすような、ほんわかと優しい形をした音だ。

 これは、楽器の音? 音楽室の渡り廊下を通るたびに聞き慣れた、懐かしくも聴こえる音。

 その音に導かれるように、危うい足取りで辿って、次第には壁伝いに歩いた。

 そして、まるで助けを乞うような、みっともない姿のケダモノは、見てしまった。
 
 吹奏楽部が練習をしている音楽室が、色々な音色に重なって、暖かな色に光り輝くのを。

 不格好な体勢で見つめる私に、変な目を向ける吹奏楽部員もいた。

 響き渡る金管楽器の澄んだ音色。丁寧に手入れされた譜面台。それらすべてが、醜く覗く私の瞳には、誰かの命を削って作り上げられた、あまりにもきらびやかで、心地よい熱さえも感じる「幸福の残骸」に見えた。

(この音は、この光は優しすぎる。この幸せ達が存在するだけで、死んでしまうあの子が不幸だと証明してしまう)

  誰かに声をかけられた。けれど、返事をするための喉は、もう、言葉を紡ぐ機能を失っていた。代わりに、暗く、冷たい、獣のような衝動が、指先から這い上がってくる。

 消さなきゃ、あいつらがあの子を嘲笑っている。
 助けなきゃ、あいつらを消せばあの子は幸せになれる。

 不幸だと証明できなければ、あそこの幸福が彼の幸せになる。

 そうだ、いけ。

 そうだ、やれ。

  私は、ゆっくりと、しかし確実な足取りで、その「幸福」の真ん中へと踏み出した。

 ――まず、この音を殺そう。

  私は、近くにあった譜面台を、無造作に、しかし迷いなく薙ぎ倒した。

「きゃー!」
「あんた、なによ!」

 倒れる譜面台を蹴飛ばし、近くにいた女の子から、光り輝く金管楽器を奪い取る。

 真鍮なのに、奏者の女の子が持っていたからか、少し生暖かい。

 でも、そんなのどうでもいい。

「やめて!」

 女の子の悲鳴が聞こえる。

 やめて、やめて。

 私だってやめたいよ。
 でも、ここでやめたら、ケイくんが死ぬ。

 そんな怖がった目で見るな。

 お前らが幸せなのが悪いんだから。

 できなくなるだろ。こっちを向くな、やめろ。

 やるしか、ないんだから。

「ぁぁああああ!!」

 自分でも驚くぐらい、喉が裂けてしまいそうな激しい咆哮が迸った。

 表面的でもいい、形からはいるように、私は狂気に胸を昂らせる。

 そうだ、狂え。くだらないことは考えるな。
 余計なものは、視界にいれるな。

 私という、女子高生の形をしただけの獣は、悲鳴のような咆哮と共に重い楽器振り回す。

 女の子が軽く持ち上げて構えてるように見えて、意外にも重い。

 思うようには打ち振る事はできず、ガシャン、と鈍い音と共に、誰かの「痛い!」という短い悲鳴。

 視線を向ければ、女の子が額から血を流してうずくまっていた。

 微かに、鉄臭い匂いと、女の子特有の柔軟剤の匂い。

 そして、

「あ......」

 怪我をさせてしまった、事実。

 その事を確認して、心がしんと静まる。

 罪悪感がのしかかるはずなのに、それよりも焦燥感がじわじわと溢れ出て、早くしろとせがんでくる。

 ......足りない。

 まだ能力の前兆すら感じないんだ。

 この子の怪我くらいじゃ、あの子の命の重さと釣り合わない。

 もっと、もっと重い罪を。

 神様が目を背けたくなるような、決定的な「悪」にならなきゃ。

 私が地獄に落ちる代わりに、あの子を三途の川から引きずり戻すんだ。

 思考は冷え切っていた。目の前の吹奏楽部の生徒たちが、人間ではなく、ただの「天秤の重り」に見えた。

「......ごめんなさい」

 謝罪は口をついて出たけれど、足は止まらなかった。

 場所なんてどこでもいい。

 一番近くの、罪を犯しやすいところだ。

 廊下を練り歩く私は、嗚咽も漏らさず、ただ静かに瞳から涙を流していた。

 地味に蒸し暑い、薄暗い廊下。

 自身の汗が、脂汗のようににじみ出ていて。

 制服のワイシャツに、嫌に纏わりつく。

 気持ち悪い。涙を流してしまう私も、身体に纏わりつく妙な暑さも。

 私は、今どんな顔してるのか。壊れた表情なのか、泣きそうな顔をしてるのか。
 
 感情の壊れた表情筋を伝って、顎下を乱雑に揺れる水滴は、ぽつりぽつりと淋しそうにこぼれる。

 私が辿ったあとは、まるで涙でできた悲劇への花道のよう。

 ガシャン、ゴシャ。

「な、なんだお前! みんな、作品を守れ!」

 手頃な場所に美術室があったから、作業中の部員に近付いた。

 彫刻を薙ぎ倒し、掴んで投げる。

 作品がちゃんと磨けてないから、ささくれが指に刺さって痛い。

 ちゃんと磨けよ、ばかやろう。

 投げて、投げてはガラリと壊れて、破壊音に倣うように、私の心もガラリと音をたてる。

(苦しい、なんでこんなに人を陥れているのに......)

 思って気付いた。

 そうだ、一線を踏み越えてないんだ。

 ふと視界に黄色いカッターが横切る。

 これしかない。

 そう手を伸ばして、私の一歩を後押しするように、ケイくんの笑顔がちらついた。

 でも守りたいあの笑顔が、なぜか今は、邪魔だ。

 どけ、消えろ。

 手にしたカッターの刃を押し出す。つるつるととしたプラスチックの表面が、手汗で少し滑る。

 落としては、ならない。これは、彼の人生を変えてくれる伝説の武器。光り輝く、一筋の刃。

 強く握って、しっかり掴む。
 出っ張りのスライダーに指をかけて、押し出しに重さを感じた。

 人の人生、人の幸福、人の尊厳、人の......命。
 どれも重くて、それが指の動きを、一瞬止める。

 でも、殺るんだ。重くても、絶対、動かせ。
 
 そして、カチ、カチリ、という乾いた音が鳴ってくれて。

 私の人生の終わる音に聞こえた。

 誰でもいい。誰かを傷つけて、私が「加害者」になれば。

 その代償として、奇跡は起きるはずだ。

 私だけが、悪魔になればいい。

「い、いや、たすけて」

 ふらり、ふらりとにじり寄る私に、女子生徒は壁際に追い詰められて咄嗟に顔を隠す。

 ひっ、ひっと、息がきれる音がする。
 女の子の唇が震えて、呼吸も震えて。

 彼女から移るように、私の喉元からも聴こえた気がしたけど、それは、知らない。

 私の口周りがわなないて、歯がカチカチと鳴ってるのもきっと、気の所為。

 そんなことより、さっさと、殺せ。

(逃げて......!)
 
 心で叫びちらかすもう一人の私を押し殺し、身体は殺意の形を模倣していく。

 震える手を、確かに支えて。反論する私を抑え込むように。

「だ、誰かあそこにいるマツリカちゃんを助けて!!」

 誰かが、こちらを指差して叫ぶ。

(へえ、マツリカちゃんっていうんだ、今から殺すこの子が)

 マツリカ。その花の花言葉は、幸福。愛らしさ。

 ふーん、愛されてるんだ。じゃあ生贄にするにはちょうどいいね。

 そういえばこの子の顔、渡り廊下で見たことある。
 同級生と笑いながら歩く、幸せそうな可愛らしい顔立ちの女の子。

 いつもそのあどけない笑顔が、憎たらしくて、目障りだった。

 ちょうどいい。君のこと、思い出した。
 そこらにいる奴らより、一際苛ついていたんだ。
 よかったね、彼の命に、君はなれるんだよ? とっても、幸せだ。

 あなたが死ねば、世界の等価交換で彼が助かる。あなたには夢も家族もあるだろうけど、私の世界には彼しかいない。

 ごめんね。そして、ありがとう。

 私の前に現れてくれて。
 
 だから、死んで。 

 というか、死ね。

 私という悪魔は彼の命のために、獲物を見つけて喜んでいる。
 もう一人の『高木柊』はまるでみっともなく泣き喚く幼子のように、殺したくない、そんな事したくないとほざいていて。

 目の前の女の子は無様に泣き喚いている。
 私の手も無様に泣き震えている。

 あと一歩踏み込むだけなのに、身体が凍りついたように動かせない。
 
 やめて、私の前で泣かないで。
 まだ人間をやめられなくなる。そんな顔みたら弱くなってしまう。

 もう一人の私が、表に出てしまう。
 
 あの子のために強くなれない。

 あの子が生きるなら、私は人殺しでいいんだから。
 もういいんだ、『高木柊』の人生はもういらない。

 ケイくんの笑顔がこれからも見れれば、もうどうなったっていい。

 これまでの腐った人生もチャラだ。

 やれ、いけ。

 やめて、そんなこと。

 うるさい、だまれ。

 いやだ! 誰も......。

 よし、殺れ! そのまま......! 

 さあ、手を振り上げ......

「やめなさい!」

 すんでのところで、教師の叫び声が耳に入った。
 ビクッと肩が跳ねて、極限まで張り詰めていた糸が切れる。

 カラン。

 手に持ったカッターが、あっけなく床に落ちた。

 しまった。落としてしまった。
 いや、手を放せたのか。

 違う。なにもかも、違う。
 
 頭をかき乱す目まぐるしい感情の刹那、ホッとしている自分がいた。最低な自分に、安堵している馬鹿がいた。

「何してるんだ、人を殺す気か!」

 先生が私を取り押さえる。床の冷たさが頬に触れる。
 そうじゃない。そうだけど、違う。私は、ただあの子を助けたくて。

「とりあえずこの事は、保護者に連絡するからな! 職員室に来なさい」

 無抵抗になった私を、強引に職員室に連れて行った教師は、しばらく私を叱って、母を学校に呼んだ。

「柊さんの今回の問題はうちで処理します。今日の事は精神状態もありますので、しばらく停学というのは......」

「すみません、うちの娘が......」

 何も変わらなかった。

 ただ、大好きな母を困らせただけだった。

 残ったのは両親の失望と学校の停学処分。

 私は、このぽっかりと胸に空いた穴を埋める方法が分からず、気付けばいつの間にか嗚咽を漏らし、頬を濡らしていた。


 その夜だった。
 
 家に帰って、シャワーを浴びようとして洗面台の前に立ったとき、気づいた。
 
 右手の親指の爪の、ごく浅い隙間に。茶色く固まった何かがあった。
 
 乾いた血だ。
 
 吹奏楽部の、あの女の子の。
 
 蛇口をひねって、お湯を出す。
 
 爪の先を、ゆっくりと流した。
 
 血は溶けて、渦を描いて、排水口に消えていく。
 それだけだった。
 
 頭痛は来なかった。
 
 いつも能力が動くとき、頭の奥からじわじわと広がる、あの重くて鋭い予感が来なかった。
 
 完全な、静寂だった。
 
 鏡の中の自分を見た。腫れた目、乱れた髪、シャツの袖に薄くにじんだ泥の跡。
 
 ただ私がそこにいるだけで、何も変わっていない。
 何も、変わっていない。
 
 等価交換は、成立しなかった。
 
 私は蛇口を止めた。 
 お湯が止まって、洗面台が静かになる。
 自分の呼吸の音だけが聞こえる。
 
 涙が出ると思っていたのに、出なかった。泣き叫ぶかと思ったのに、何も来なかった。
 
 ただ、鏡の中の自分が、知らない顔をしていた。
 
 私は誰かを傷つけた。
 
 それでも、ケイくんの未来は何も変わっていない。
 つまり私の理論は、最初から間違っていたのかもしれない。
 
 それとも、まだ代償が足りないのか。
 あと何人傷つければ、釣り合うのか。
 
(あと何人......)
 
 その言葉が頭の中で転がった瞬間、腹の底から何かが冷えた。
 
 恐ろしい、と思った。考えている自分が。それでも止まれない自分が。
 
 洗面台の縁をゆっくりと掴んで、私はその冷たい感触だけを頼りに立っていた。

 私は間違っていたのか。つばきちゃんを助けたあれは、なにかの間違いなのか?

 それとも、ケイくん、君はなにか秘密を持っているのか?

 まるで呪いが反発でもしてるかのように、彼に関わる未来はほとんど見れないし、能力の副作用もない。

 いつもなら、誰かに手を伸ばした瞬間に呪いが動く。
 
 あの子供の頃の、頭をつんざく激痛と引き換えに、誰かの未来が流れ込んでくる、あの感覚。

 でも今夜は、なにも来なかった。

 なにもなかったんだ。それどころか。

(......なにか弾かれた、あの感じ)

 まるで水面に手を伸ばした瞬間、見えない何かに押し返されたような。

 触れたと思ったら、それは鏡に映った反射で。残念、間違えちゃったね、と小賢しい生意気な子供に騙されてるような。

 私の呪いに、似たような魔法がぶつかってきて、時に惑わしてる、変な感覚。

 今までなかった、初めての感触だ。

 分からないその魔法。呪いとは、雰囲気が違う。よく分からない、温かく光るものだ。

 一体、なんだというんだ。
 
 君は、何者なんだ。
 
 ケイくん。

 いつもの、小生意気な微笑み。
 
 あの笑顔が、あの声が、脳裏をよぎる。
 あの子が震わせた指先が。
 
 私には教えてくれなかった、あの小さな震えが。
 
 ケイくん、なんで私に何も言ってくれなかったんだよ。
 
 だから私は、こんなになってしまった。
 
 あなたが教えてくれれば、一緒に考えられたのに。
 
 怒りなのか悲しみなのか分からない感情が胸の奥でくすぶって、それでも涙にはならなかった。
 ただ、静かに燃えていた。

 
 彼の運命を変えられなかった。
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なぜ、君は……。
わたしは知っている、君の最期を。……それでも、作者:蒼井瑠水
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愛ゆえの狂気。

 私は、ひたすら来るなと祈った朝を迎えてしまった。

 そして、来てしまった。
 学校の、校舎に。
 昇降口で上履きに履き替えて、思う。
 やるしか、ない。やらなければならない。

 でも、なにをすればいいのか。

 私は、取り返しのつかない事をやる前のように、心臓が妙に重く、はっきりと脈を打つのが指先からも感じた。

 夏の蒸し暑い中なのに、ぞわりと肌寒く、全身に伝わる鼓動が気色悪い。

 まるで、これから犯罪を犯して、人生を汚すような、胸の底から恐怖で震える、嫌な感じ。

 手のひらが小刻みに震えて、しっかり握ろうとしても上手く動かせない。
 呼吸も荒くなって、息が震える。
 急に喉の奥がつっかえて、思わず胃液を吐き出しそうになった。

 これは、まずい。

 ひとまず、身体を落ち着けよう。息をゆっくり吸えて、胸の奥がすっきり晴れるような、そんな場所に逃げなければ。

 全身が心臓になったように、どくん、どくんと身体を揺らしながら、もろくておぼつかない足先を、廊下に確かに乗せてゆく。

 気持ち悪い、吐きたい、助けて。

 そんな中、音が聞こえた。

 ひとつひとつが整っていて、いびつな氷を優しく溶かすような、ほんわかと優しい形をした音だ。

 これは、楽器の音? 音楽室の渡り廊下を通るたびに聞き慣れた、懐かしくも聴こえる音。

 その音に導かれるように、危うい足取りで辿って、次第には壁伝いに歩いた。

 そして、まるで助けを乞うような、みっともない姿のケダモノは、見てしまった。
 
 吹奏楽部が練習をしている音楽室が、色々な音色に重なって、暖かな色に光り輝くのを。

 不格好な体勢で見つめる私に、変な目を向ける吹奏楽部員もいた。

 響き渡る金管楽器の澄んだ音色。丁寧に手入れされた譜面台。それらすべてが、醜く覗く私の瞳には、誰かの命を削って作り上げられた、あまりにもきらびやかで、心地よい熱さえも感じる「幸福の残骸」に見えた。

(この音は、この光は優しすぎる。この幸せ達が存在するだけで、死んでしまうあの子が不幸だと証明してしまう)

  誰かに声をかけられた。けれど、返事をするための喉は、もう、言葉を紡ぐ機能を失っていた。代わりに、暗く、冷たい、獣のような衝動が、指先から這い上がってくる。

 消さなきゃ、あいつらがあの子を嘲笑っている。
 助けなきゃ、あいつらを消せばあの子は幸せになれる。

 不幸だと証明できなければ、あそこの幸福が彼の幸せになる。

 そうだ、いけ。

 そうだ、やれ。

  私は、ゆっくりと、しかし確実な足取りで、その「幸福」の真ん中へと踏み出した。

 ――まず、この音を殺そう。

  私は、近くにあった譜面台を、無造作に、しかし迷いなく薙ぎ倒した。

「きゃー!」
「あんた、なによ!」

 倒れる譜面台を蹴飛ばし、近くにいた女の子から、光り輝く金管楽器を奪い取る。

 真鍮なのに、奏者の女の子が持っていたからか、少し生暖かい。

 でも、そんなのどうでもいい。

「やめて!」

 女の子の悲鳴が聞こえる。

 やめて、やめて。

 私だってやめたいよ。
 でも、ここでやめたら、ケイくんが死ぬ。

 そんな怖がった目で見るな。

 お前らが幸せなのが悪いんだから。

 できなくなるだろ。こっちを向くな、やめろ。

 やるしか、ないんだから。

「ぁぁああああ!!」

 自分でも驚くぐらい、喉が裂けてしまいそうな激しい咆哮が迸った。

 表面的でもいい、形からはいるように、私は狂気に胸を昂らせる。

 そうだ、狂え。くだらないことは考えるな。
 余計なものは、視界にいれるな。

 私という、女子高生の形をしただけの獣は、悲鳴のような咆哮と共に重い楽器振り回す。

 女の子が軽く持ち上げて構えてるように見えて、意外にも重い。

 思うようには打ち振る事はできず、ガシャン、と鈍い音と共に、誰かの「痛い!」という短い悲鳴。

 視線を向ければ、女の子が額から血を流してうずくまっていた。

 微かに、鉄臭い匂いと、女の子特有の柔軟剤の匂い。

 そして、

「あ......」

 怪我をさせてしまった、事実。

 その事を確認して、心がしんと静まる。

 罪悪感がのしかかるはずなのに、それよりも焦燥感がじわじわと溢れ出て、早くしろとせがんでくる。

 ......足りない。

 まだ能力の前兆すら感じないんだ。

 この子の怪我くらいじゃ、あの子の命の重さと釣り合わない。

 もっと、もっと重い罪を。

 神様が目を背けたくなるような、決定的な「悪」にならなきゃ。

 私が地獄に落ちる代わりに、あの子を三途の川から引きずり戻すんだ。

 思考は冷え切っていた。目の前の吹奏楽部の生徒たちが、人間ではなく、ただの「天秤の重り」に見えた。

「......ごめんなさい」

 謝罪は口をついて出たけれど、足は止まらなかった。

 場所なんてどこでもいい。

 一番近くの、罪を犯しやすいところだ。

 廊下を練り歩く私は、嗚咽も漏らさず、ただ静かに瞳から涙を流していた。

 地味に蒸し暑い、薄暗い廊下。

 自身の汗が、脂汗のようににじみ出ていて。

 制服のワイシャツに、嫌に纏わりつく。

 気持ち悪い。涙を流してしまう私も、身体に纏わりつく妙な暑さも。

 私は、今どんな顔してるのか。壊れた表情なのか、泣きそうな顔をしてるのか。
 
 感情の壊れた表情筋を伝って、顎下を乱雑に揺れる水滴は、ぽつりぽつりと淋しそうにこぼれる。

 私が辿ったあとは、まるで涙でできた悲劇への花道のよう。

 ガシャン、ゴシャ。

「な、なんだお前! みんな、作品を守れ!」

 手頃な場所に美術室があったから、作業中の部員に近付いた。

 彫刻を薙ぎ倒し、掴んで投げる。

 作品がちゃんと磨けてないから、ささくれが指に刺さって痛い。

 ちゃんと磨けよ、ばかやろう。

 投げて、投げてはガラリと壊れて、破壊音に倣うように、私の心もガラリと音をたてる。

(苦しい、なんでこんなに人を陥れているのに......)

 思って気付いた。

 そうだ、一線を踏み越えてないんだ。

 ふと視界に黄色いカッターが横切る。

 これしかない。

 そう手を伸ばして、私の一歩を後押しするように、ケイくんの笑顔がちらついた。

 でも守りたいあの笑顔が、なぜか今は、邪魔だ。

 どけ、消えろ。

 手にしたカッターの刃を押し出す。つるつるととしたプラスチックの表面が、手汗で少し滑る。

 落としては、ならない。これは、彼の人生を変えてくれる伝説の武器。光り輝く、一筋の刃。

 強く握って、しっかり掴む。
 出っ張りのスライダーに指をかけて、押し出しに重さを感じた。

 人の人生、人の幸福、人の尊厳、人の......命。
 どれも重くて、それが指の動きを、一瞬止める。

 でも、殺るんだ。重くても、絶対、動かせ。
 
 そして、カチ、カチリ、という乾いた音が鳴ってくれて。

 私の人生の終わる音に聞こえた。

 誰でもいい。誰かを傷つけて、私が「加害者」になれば。

 その代償として、奇跡は起きるはずだ。

 私だけが、悪魔になればいい。

「い、いや、たすけて」

 ふらり、ふらりとにじり寄る私に、女子生徒は壁際に追い詰められて咄嗟に顔を隠す。

 ひっ、ひっと、息がきれる音がする。
 女の子の唇が震えて、呼吸も震えて。

 彼女から移るように、私の喉元からも聴こえた気がしたけど、それは、知らない。

 私の口周りがわなないて、歯がカチカチと鳴ってるのもきっと、気の所為。

 そんなことより、さっさと、殺せ。

(逃げて......!)
 
 心で叫びちらかすもう一人の私を押し殺し、身体は殺意の形を模倣していく。

 震える手を、確かに支えて。反論する私を抑え込むように。

「だ、誰かあそこにいるマツリカちゃんを助けて!!」

 誰かが、こちらを指差して叫ぶ。

(へえ、マツリカちゃんっていうんだ、今から殺すこの子が)

 マツリカ。その花の花言葉は、幸福。愛らしさ。

 ふーん、愛されてるんだ。じゃあ生贄にするにはちょうどいいね。

 そういえばこの子の顔、渡り廊下で見たことある。
 同級生と笑いながら歩く、幸せそうな可愛らしい顔立ちの女の子。

 いつもそのあどけない笑顔が、憎たらしくて、目障りだった。

 ちょうどいい。君のこと、思い出した。
 そこらにいる奴らより、一際苛ついていたんだ。
 よかったね、彼の命に、君はなれるんだよ? とっても、幸せだ。

 あなたが死ねば、世界の等価交換で彼が助かる。あなたには夢も家族もあるだろうけど、私の世界には彼しかいない。

 ごめんね。そして、ありがとう。

 私の前に現れてくれて。
 
 だから、死んで。 

 というか、死ね。

 私という悪魔は彼の命のために、獲物を見つけて喜んでいる。
 もう一人の『高木柊』はまるでみっともなく泣き喚く幼子のように、殺したくない、そんな事したくないとほざいていて。

 目の前の女の子は無様に泣き喚いている。
 私の手も無様に泣き震えている。

 あと一歩踏み込むだけなのに、身体が凍りついたように動かせない。
 
 やめて、私の前で泣かないで。
 まだ人間をやめられなくなる。そんな顔みたら弱くなってしまう。

 もう一人の私が、表に出てしまう。
 
 あの子のために強くなれない。

 あの子が生きるなら、私は人殺しでいいんだから。
 もういいんだ、『高木柊』の人生はもういらない。

 ケイくんの笑顔がこれからも見れれば、もうどうなったっていい。

 これまでの腐った人生もチャラだ。

 やれ、いけ。

 やめて、そんなこと。

 うるさい、だまれ。

 いやだ! 誰も......。

 よし、殺れ! そのまま......! 

 さあ、手を振り上げ......

「やめなさい!」

 すんでのところで、教師の叫び声が耳に入った。
 ビクッと肩が跳ねて、極限まで張り詰めていた糸が切れる。

 カラン。

 手に持ったカッターが、あっけなく床に落ちた。

 しまった。落としてしまった。
 いや、手を放せたのか。

 違う。なにもかも、違う。
 
 頭をかき乱す目まぐるしい感情の刹那、ホッとしている自分がいた。最低な自分に、安堵している馬鹿がいた。

「何してるんだ、人を殺す気か!」

 先生が私を取り押さえる。床の冷たさが頬に触れる。
 そうじゃない。そうだけど、違う。私は、ただあの子を助けたくて。

「とりあえずこの事は、保護者に連絡するからな! 職員室に来なさい」

 無抵抗になった私を、強引に職員室に連れて行った教師は、しばらく私を叱って、母を学校に呼んだ。

「柊さんの今回の問題はうちで処理します。今日の事は精神状態もありますので、しばらく停学というのは......」

「すみません、うちの娘が......」

 何も変わらなかった。

 ただ、大好きな母を困らせただけだった。

 残ったのは両親の失望と学校の停学処分。

 私は、このぽっかりと胸に空いた穴を埋める方法が分からず、気付けばいつの間にか嗚咽を漏らし、頬を濡らしていた。


 その夜だった。
 
 家に帰って、シャワーを浴びようとして洗面台の前に立ったとき、気づいた。
 
 右手の親指の爪の、ごく浅い隙間に。茶色く固まった何かがあった。
 
 乾いた血だ。
 
 吹奏楽部の、あの女の子の。
 
 蛇口をひねって、お湯を出す。
 
 爪の先を、ゆっくりと流した。
 
 血は溶けて、渦を描いて、排水口に消えていく。
 それだけだった。
 
 頭痛は来なかった。
 
 いつも能力が動くとき、頭の奥からじわじわと広がる、あの重くて鋭い予感が来なかった。
 
 完全な、静寂だった。
 
 鏡の中の自分を見た。腫れた目、乱れた髪、シャツの袖に薄くにじんだ泥の跡。
 
 ただ私がそこにいるだけで、何も変わっていない。
 何も、変わっていない。
 
 等価交換は、成立しなかった。
 
 私は蛇口を止めた。 
 お湯が止まって、洗面台が静かになる。
 自分の呼吸の音だけが聞こえる。
 
 涙が出ると思っていたのに、出なかった。泣き叫ぶかと思ったのに、何も来なかった。
 
 ただ、鏡の中の自分が、知らない顔をしていた。
 
 私は誰かを傷つけた。
 
 それでも、ケイくんの未来は何も変わっていない。
 つまり私の理論は、最初から間違っていたのかもしれない。
 
 それとも、まだ代償が足りないのか。
 あと何人傷つければ、釣り合うのか。
 
(あと何人......)
 
 その言葉が頭の中で転がった瞬間、腹の底から何かが冷えた。
 
 恐ろしい、と思った。考えている自分が。それでも止まれない自分が。
 
 洗面台の縁をゆっくりと掴んで、私はその冷たい感触だけを頼りに立っていた。

 私は間違っていたのか。つばきちゃんを助けたあれは、なにかの間違いなのか?

 それとも、ケイくん、君はなにか秘密を持っているのか?

 まるで呪いが反発でもしてるかのように、彼に関わる未来はほとんど見れないし、能力の副作用もない。

 いつもなら、誰かに手を伸ばした瞬間に呪いが動く。
 
 あの子供の頃の、頭をつんざく激痛と引き換えに、誰かの未来が流れ込んでくる、あの感覚。

 でも今夜は、なにも来なかった。

 なにもなかったんだ。それどころか。

(......なにか弾かれた、あの感じ)

 まるで水面に手を伸ばした瞬間、見えない何かに押し返されたような。

 触れたと思ったら、それは鏡に映った反射で。残念、間違えちゃったね、と小賢しい生意気な子供に騙されてるような。

 私の呪いに、似たような魔法がぶつかってきて、時に惑わしてる、変な感覚。

 今までなかった、初めての感触だ。

 分からないその魔法。呪いとは、雰囲気が違う。よく分からない、温かく光るものだ。

 一体、なんだというんだ。
 
 君は、何者なんだ。
 
 ケイくん。

 いつもの、小生意気な微笑み。
 
 あの笑顔が、あの声が、脳裏をよぎる。
 あの子が震わせた指先が。
 
 私には教えてくれなかった、あの小さな震えが。
 
 ケイくん、なんで私に何も言ってくれなかったんだよ。
 
 だから私は、こんなになってしまった。
 
 あなたが教えてくれれば、一緒に考えられたのに。
 
 怒りなのか悲しみなのか分からない感情が胸の奥でくすぶって、それでも涙にはならなかった。
 ただ、静かに燃えていた。

 
 彼の運命を変えられなかった。
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