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「あー、わかるなぁ。宗田さんの気持ち」
「......そうなんだ」
家に帰る頃にはそれなりにクールダウンしていたが、心は疲れ切っていて体を引き摺りながら帰ってくるのが精一杯だった。
スーツのジャケットも脱がずにリビングのソファーにだらしなく座り込んだ私は、向かいの椅子に腰掛けている辰巳くんの答えにがっかりする。慰めて欲しいわけではなかったけれど、私は宗田と違う言葉を辰巳くんの口から聞きたかったのだ。
辰巳くんは苦笑しつつ口を開いた。
「でも未来さんの気持ちも理解出来ますよ。女と馬鹿にされないように仕事で実績残して評価されてきたはずなのに、結局は男性が選ばれてがっかりしたんですよね。だから少しだけ仕事から離れて、今まで気にかけなかったプライベートを充実させようとしている」
「......」
私の心を見透かすような辰巳くんの指摘に私は黙り込んだ。
固まった私に辰巳くんは笑みを向けると、ロフストランドクラッチと呼ばれる杖で器用に体を支えながらキッチンまで向かう。下半身は動かないが、上半身は動かせる辰巳くんは、脊髄損傷の度合いとしては軽い方らしい。外では車椅子だが、室内では杖で移動出来るし、車だって運転出来る。
今も器用に杖をさばきながら辰巳くんはソファーでグダっている私のためにペットボトルの水を取ってきてくれた。そしてよっこらしょと言いながら傍らに腰を掛ける。辰巳くんが座るやいなや、レミもルカもすぐに彼に寄っていく。辰巳くんも嬉しそうに感覚が無い膝にルカを乗せ、側で立っているレミの頭を撫でる。今の名目上の飼い主は私とはいえ、レミとルカの一番は変わらず辰巳くんなのだ。
その様子を微笑ましく見守る私に微笑む辰巳くんはどこか達観した顔を向ける。
「未来さんを慰めたかったんですよ、宗田さん」
「......」
「一度しかお会いしていませんが......不器用ですよね、宗田さんって」
「はぁ? 宗田が不器用!?」
私は辰巳くんの言葉を即座に否定する。不器用な人間が、うちの会社で部長に登り詰められる訳が無い。
「不器用ですよ。年代なのかなぁ。ストレートに心配だ、といえばいいのに、変に言いくるめようとするから未来さんに伝わっていない」
「......宗田が、私を心配?」
「だと思いますよ。宗田さんは未来さんのことを評価していた。だからくだらない男女差別で後輩に座を譲ることになった未来さんのことを心配して憤っている。そんなところじゃないですか」
さも見てきたように話す辰巳くんに、宗田じゃないと私は答える術を持っていない。それでも辰巳くんの仮説は妙に説得力があった。
「......そう、なのかな?」
「聞いてみたらどうですか? 今から会えるかどうか、携帯で。まだ終電まで時間ありますし、駅まで宗田さんを迎えに行きますよ」
「会うっ......て」
「ダメですよ」
辰巳くんはやけに力強く言い切った。
「モヤモヤしているならすぐに解決しないと。明日もお互い元気に顔を合わせるとは限らないんですから」
自身が事故で健康を失った辰巳くんが言うと、説得力が増す。私は弾かれるように携帯を手に取ると宗田に電話をかけたのだった。
※
じゃあこれで、と駅から宗田を連れてきた辰巳くんは、車から降りることなく帰宅する。宗田は一度家に帰っていたのか、メガネにスウェットという見たことのないラフな格好である。辰巳くんが出ている間にひとっ風呂浴びた私も辛うじてメイクだけはしているが部屋着にメガネという完全にオフの格好だから似たようなものだけど。
もう終電も終わっているし、車を持っていない私は少し離れた二十四時間営業のファミレスに宗田を連れて行くこともできない。
辰巳くんに言われるまま勢いで連絡をしたはいいが、この後の展開を考えていなかった私は、同じく手持ち無沙汰になっている宗田と顔を見合わせた。
「と、とりあえず入って」
仕方なく宗田を家に入れることにした私は、玄関のドアをガチャっと開けた。まだ入り口で呆然としている宗田に私は早く、と伝えた。
「レミとルカが逃げたら困るから」
そこまで言うと、やっと宗田も動くことにしたらしい。それでも慎重に家に入ってきた宗田の顔からは表情が抜け落ちていた。
「......お邪魔します」
長い付き合いなのにお互いの家に踏み入れるのは初めてだ。宗田は緊張しながらも、靴を脱ぎ私の後を着いてくる。宗田の緊張が私に伝わってきて、とっくに帰った辰巳くんに、恨みの一つでも言いたくなる。
「てっ......適当に座って。コーヒーでも淹れるから」
私は理由をつけてキッチンに引っ込む。一人だからと、リフォームの時にカウンターキッチンにしなかった自分にグッジョブと言いたい。壁付けのキッチンではリビングにいる宗田に背を向ける形になる。
お湯をケトルで沸かし、ドリップのコーヒーをマグカップに注いだ私が後ろを振り向くと、そこには見慣れない光景が広がっていた。
なんと宗田は床に座り込み、スウェットに毛がつくのを厭わずレミとルカの遊び相手になっていたのだ。
「何してんのよ」
両手にマグカップを持った私は笑いながら宗田に近づく。さすがに恥ずかしくなったのか、何度か咳払いして顔を赤いのを誤魔化した宗田に私は、ん、とマグカップを差し出した。
「わ、悪い......」
そうだ、宗田は昔からお礼を言うのが下手だった。言い慣れていないのか、タイミングを逃してよく同じ営業部にいた時、上司や先輩にドヤされていた。今でこそ仕事モードの時はすんなり出てくるようになっているが、オフになるとてんでダメだ。
そうか、今宗田はオフモードなんだ。
そう思うと私から肩の力が抜けた。意識はしていなかったけれど、会社では部長と課長で男と女だ。
宗田がトントン拍子に出世したとは言わない。けれど、やはり感じるのだ。女だからと下駄を履かせて貰っていると言われないように、がむしゃらに努力してやっと男性と肩を並べていた私は、いつの間にか宗田にも本音を言えなくなっていたのだと。
辰巳くんに強引に作られた場だけれど、あのまま喧嘩別れのようになっていたら私は二度と宗田に本音を言えないままだっただろう。
辰巳くんに心の中で感謝しつつ、宗田には昔のように遠慮なくダメ出しをさせてもらう。
「違うでしょ。こういう時は、ありがとう」
「あ、あの......ありがとな」
その言い方が昔の宗田と変わらなくて私は笑った。
今なら。今なら言える。
腰掛けている宗田の顔を見ないようにソファーのアームに体をもたれさせた私はすぅ、と息を吸い、吐く息と同時に喋りだした。
「宗田」
「ん?」
「私は役員まではいけない。課長まではさ社内の女性役職者率上げるために出世できたけれど、私の器ではこれ以上無理だ」
「なんでだよ?」
声だけで苛立ちが伝わってくる。その声を聞くと逆に頭が冴えてくる私は悲壮感を感じさせないように努めて冷静に言葉を紡ぐ。
「今まで結婚もしたことがなく、子どもも育てていない私は、働く女性のモデルケースになれないから」
ハッと後ろで宗田が息を飲んだ。
「頑張ってきたんだよ、私。声高に言うつもりはないけど男性に負けないようにさ、プライベートを犠牲にしたことも沢山ある。プロポーズされても仕事を捨てる決断できなくてフラレたのは自分の選択だし後悔はないよ。一般職ならまだサンプル的に産休取れたかもしれないけれど、総合職の私は結婚したら退職か一般職に移らないといけなかったからその覚悟は出来なかったし。それでも......」
あぁ、ダメだ。一旦話を切ると、声が湿っぽくなってしまう。
「三笠」
いつものように呼びかけられただけなのに、宗田の声が私の中で溜め込んでいたものを引き摺り出す。
「けっき......ょくさ、結婚して退職して、子ども産んで何年か後に出戻ってきた女性だったり、産休育休、更には病気休業まで取る女性が取り立てられるんだよ。大して仕事出来なくて、今も担当出来る業務殆どないのに同じ課長職で同じ給料貰ってさ。そんな女性社内にどれくらいいると思う?」
「三笠......」
「そんなんアホらしくもなるよ。宗田の言う通り心折れて投げやりになっている部分もあるよ、正直。プライベートに逃げたって言われても仕方ないよ。けどさ......」
あぁ、情けない泣き言だ。それでも私は次のセリフを口にした。
「私の努力を間近に見ていた宗田にだけは、言われたくなかった」
宗田がマグカップをテーブルの上に置く音がした。
「......泣くなよ」
「うるさい......」
ふぅ、と息をついた宗田は真面目にズレたことを口にする。
「慰めたらいい? それとも叱咤激励?」
こういうところが今までの宗田が結婚出来ないところだ。仕事は出来ても何事も合理的に考えてしまう宗田は共感してほしい性である女の気持ちは理解できない。だからこそ、今まで男女の仲にならず、同僚で居られたのに。
そんな人間の前でピーピー泣いた自分が恥ずかしくて、私はわざと強がって宗田に告げる。
「......バカにしてんの? 今必要なのはティッシュと、こっちを絶対見ないと誓うことだよ」
「了解」
宗田は私の言葉を忠実に実行する。テーブルに置いてあるティッシュの箱を背後から差し出すと、小さく呟いた。
「見ないから早く泣き止め」
「......うるさいな。言われなくてもそのつもりだよ」
私はもたれていたソファーに隠れるように座り込むと、渡されたティッシュで涙を拭い鼻をチンと噛む。
涙には浄化作用があるのは本当だと、四十年生きていたら身を以て知っている。
心の奥で燻っていた淀みを、雫と共に押し流した私はスッキリとしていた。
「あのさ」
「ん」
宗田は素っ気なく答えるが、声に安堵が混じっているのを私は聞き逃さなかった。
「泣いたから説得力無いかもしれないけれど。生き方に後悔していないから」
「......そうか」
「うん」
私の声から乾いた笑いが漏れた。そして最近覚えた一節を諳んじる。
「『過ちては則ち改むるに憚ること勿かれ』」
「論語だな、それ」
即座に反応する宗田はさすがだ。というより余りにも有名な一節だから知っていて当たり前か。宗田はなぜ私が急に暗唱したのか分からない様子で、慎重に訊ねてくる。
「三笠は自分の今までの道が過ちだと思っているのか?」
「んなわけないじゃん」
私は首を振った。
「さっきも言ったでしょ、後悔してないって。ただ今まで過剰だったな、とは思っている(注②)」
「かじょう?」
いきなり過剰と言われても思いつく単語が思い当たらない様子の宗田に、私はその辺に置いてあったメモ用紙に「過剰」と書く。
「出世をしてさ、ゆくゆくは役員になって会社を変えたいのは夢だったよ。けど何もかも犠牲にして、がむしゃらに仕事に向き合うのは、私には過ぎたる荷だった。そのことにずっと気づいていなかったの。ほら、過ちと過剰と過ぎたるって同じ漢字使っているでしょ」
私は同じ紙に追加で、過ちと過ぎたるの二文字を書き足した。マジマジと眺めていた宗田は静かに頷いた。
「......そうだな」
「まぁ本の受け売りだけどね」
私は自嘲するように笑って、宗田に宣言する。
「出世街道からは外れているけれど、宗田の言う通りお金は大事だし住宅ローンも抱えたばかりだから仕事は辞めないよ。けど今までのようにプライベートを犠牲する働き方はしない。だって、守るべき家族がいるしね。この子たちの為に早く家にも帰りたいし、健康で居続けて看取ってあげないといけないしね」
宗田は私のセリフを咀嚼して、何度も反芻して、そして、ゆっくりと問い掛けた。
「俺は、三笠に何をしてやれる?」
そんなの決まっている。
「......なら、託していい?」
「当たり前だ」
何を、とは言わなかったのに宗田は当然のように頷いた。私に可能性が無くなった役員の夢を宗田に任せると言っただけなのに、妙にホッとした。ならばもう一つ、と欲を出した私は口を開いた。
「応援して。私がどんな道を選んでも。私もどんな事があっても宗田の味方でいるからさ」
宗田は私に返事をしなかった。その代わり。
「三笠、その受け売りの本貸せよ」
「え? 今?」
「あぁ。始発動くまで足止めされるんだから暇つぶしに読んでおく」
「寝なくていいの? ソファー貸すよ? もう若くないんだし」
「うるせぇ。徹夜くらいなんともないさ」
「はいはい、お若くていいですね」
「当たり前だろ。タフじゃないと、役員まで上り詰めれないしな」
「私は寝るよ。徹夜なんかしたらびっくりするくらい次の日使い物にならないんだから」
私の一言に宗田は低く笑った。
「年取ったな、三笠」
「うるさいよ!」
キャンと吠えたのはレミ。
「ほら、三笠の方がうるさいってよ」
今度は朗らかに笑う宗田は、私が本を渡すともう見向きもしなかった。
そんな宗田の背中に私は小さく、おやすみと呟いた。
本に没頭しているはずの宗田は、片手を上げてそれに応えた。
宗田、託したよ。
私はレミとルカを促して、静かに寝室に足を向けたのだった。