1
孔子様、孔子様。あなたはかつて言ったじゃありませんか。四十にして惑わず、と。私、四十歳になりましたが、迷ってばかりなんですけれど、どういうことですか!?
※
「バカか、お前は」
私――三笠未来に暴言を吐くのは同期の独身仲間、宗田光広だ。マーケティング部の鬼部長と名を馳せている宗田の暴言は今日も健在のようだ。
「三笠は、ちゃんと論語読んだことあるのか?」
「あるよ! ってか文学部だよ、私。当たり前じゃん!」
「じゃあ言ってみろよ」
「ゔ......」
「そんなことだろうと思った」
呆れたように呟いた宗田は、淀みなく諳んじる。
「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」
「あんた、スゴイね」
容易に諳んじた姿に小さく拍手した私に、宗田は再度バカか、と一刀両断した。
「例えで出すなら暗唱くらいしろよ。四十にして惑わないためには、十五で学問を志して三十で自立必要なんだよ。それでようやっと、次の段階に行ける。課長止まりの三笠に出来てんのか?」
「う、煩いな! 人事は上が詰まってるんだよ」
「はいはい、そういう事にしておいてやる」
宗田はトイレと言い立ち上がった。私は近くの店員を呼び止めると会計と温かいお茶を頼んでため息をついた。
宗田にいわれなくてもわかっている。私には学が足りない。営業からマーケティング部という花形部署で結果を出している宗田は日々自己研鑽をしていた。反対に営業、広報、総務、そして今は人事の私は、経験している部署が多い割にどこでも結果を出していない。
そんな私が、ただ単に歳を重ねただけで惑わなくなるような虫のいい話など世の中にはあるはず無い。
「はぁ、未来って名前なのにな。何も掴まえていないや」
仕事での成果も、結婚も、子どもも。子どもの頃は当たり前に見ていた未来は何も手に入っていない。戻ってきた宗田ときっちり割り勘して帰路について。
新卒で入社した頃から変わらないやり取り。心はまだあの頃と大して変わっていないのに、お風呂上がりに化粧水を塗り込む私は確実に老いていた。
二十代の時のような肌の張りは失われ、リフトアップのマッサージをしなければ自然に垂れ下がる肉。どれだけ気をつけていても目尻や口元にはシワが出来ているし、体重は変わらなくても全体的に緩んだ肉体。
ため息しか出てこないというものだ。
「あー、やだやだ。何も得るものないまま四十になっちゃったし......」
カサカサの肌なのに保湿しても素直に入っていかない化粧水。美容にお金をかけても精々老化を遅らせるだけしかないのに、年齢に抗ようとする自分が虚しい。
「はぁ......」
深いため息をついた私は、出来るだけ鏡を見ないように化粧水と乳液を塗りたくったのだった。
「......で、なんで突然家買ってんの? しかも既に契約済みって」
久しぶりに飲んだ宗田の顔には意味がわからない、と大きく書いていた。私はお猪口に手酌で日本酒を注ぐと一気に飲み干した。
「前飲んだ時に宗田と論語の話したじゃん」
「あぁ」
「答えられなかったから次の日に本屋行って買ったんだよね、論語の本」
「相変わらず素直というか単純というか行動力は高いというか......」
褒めているのか貶しているのか分からない口調の宗田のお猪口に日本酒を満たしながら私は話を続ける。
「んで、家を買うことにした」
「ちょい待てって! 説明省きすぎだろ! そこんとこもう少し詳しく話せっ」
珍しく食い気味に話す宗田に、私は渋々ながら家を買う決断するに至った心情を話し出した。
「宗田が言ってたじゃん。四十にして惑わず、の心境に至るまでにはその前段階が必要だって。学問はまぁ、一朝一夕には出来ないから一旦置いといて、三十で自立して、はすぐに出来るんじゃないかなって。今まで賃貸だったけれど一国一城の主になって。そうしたら、五十にして天命を知る、には間に合うかなって」
「......だからって極端だろうよ」
「って、二の足踏んでたら行動起こせないじゃん! っていうかもう契約したんだし、無事ローンも承認降りたから後は粛々と事務作業するだけだよ」
私は宗田に家の写真を無理矢理見せる。中古の戸建てで小さいながらも縁側と庭があるし、近くに大きな公園も動物病院もある。郊外になるから会社から遠くなるのは難点だが、さすが関東圏。精々電車で十五分遠くなるだけだ。ベッドタウンだから車がないと生活が不便なところもあるが、駅前は栄えているし大型のショッピングセンターに向かうバスも出ているから利便性は抜群だ。
「だからって家買わなくても......」
「って言っているうちにあっという間に定年になって、独り身のババァには誰も家なんか貸してくれなくなるよ」
「ライフプラン変わることもあるだろう。......ほら、結婚とか」
恐る恐る口にする宗田を私は笑い飛ばした。
「四十まで縁がなかったのに。もう二十年も一人暮らししていたらお一人様に生活慣れすぎて今更誰かとは住めないよ。宗田だってそうでしょ?」
「まぁ分からなくはないけどさ。下手に家買うと負債になるぞ。修繕の費用もいるし自治会とか面倒くさいしな」
三十そこそこで会社に近いマンションを買った宗田の言葉は真に迫っていた。
「分かるけどさ。年取って働けなくなった時に、住む家だけはある、という安心が欲しかったんだよね。それにほら、独り身じゃん、私。今のうちに地域コミュニティに参加しとかないと、孤独死まっしぐらじゃん」
「......なるほどな」
宗田は腑に落ちたように頷いた。
私だって腐っても上場企業の課長職だ。部長の宗田と比べたらそりゃあ給与は低いが余裕で平均年収は大幅に上回っているし、年食ったオバサンとはいえ都内のマンションを買えるくらいの金額は銀行だって融資はしてくれる。
それでも便利な駅とはいえ郊外の中古一軒家を選んだのは、今のうちに地域に根ざしていたかったのだ。そして、もう一つ。
「犬、飼いたいんだよね」
「え、そうなの?」
宗田が驚くのは無理ない。だって私は今まで一度も動物が好き、とか飼ってみたいとか誰にも話したことがないから。でも、宗田になら話してもいいか、と思った私は運ばれてきたお燗を一口飲んだ。
「うちさ離婚してるのよ、小学校の時」
喉で日本酒を味わいながら喋りだした私の昔話に宗田はジッと耳を傾ける。
「両親と兄と、あと犬と暮らしていたんだけどさ。母に引き取られることになったのはいいけど、犬までは面倒見れないからっていって。兄と私が学校に行っている間に、保健所に連れて行かれてたの」
「え......」
「あ、結局その犬は、近所に住んでいた犬好きのオジサンが話を聞きつけて引き取ってくれたから処分されることはなかったんだけどね。......でも罪悪感は残るよね」
「でも三笠、その時は子どもじゃん。こういう言い方は酷だけど、何も出来なかったと思うよ」
宗田の指摘は尤もだ。今考えても子どもだった私に出来ることは、せいぜい新しい飼い主を探すことくらいだ。
「......だとしても、だよ」
私の言葉に息を呑んた宗田は、手ずから酌をしてあっという間にお燗を空にした。そしてポツリと呟いた。
「飼っていた犬種はなんだったの?」
余計なことを言わないのは宗田のいいところの一つだ。私はにこりと笑いかけると三十年も昔に一時飼っていた犬の姿を思い出す。
「柴混じりの雑種。名前はチビ」
「ベタだな」
宗田はそう言うと、珍しく奢ってやると発言した。
「三笠の老後に乾杯」
との言葉を添えて。