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「ヨモツヘグイ?」
オウム返しにしてみたが、なにも思い出せない。
「いいや。わからないな」
「じゃあ、切り口を変えるわね」
僕らの走る道はいつの間にか変化していた。
片側二車線から片側一車線へ。ガソリンスタンドやファーストフード店などが並んでいた道端は住宅や畑などがメインになっていた。
「イザナミって知ってる?」
「もちろん」
「そのイザナミが死んで、イザナギは黄泉の国まで赴いた。イザナミを連れ返そうとしたからだけど、結局うまくいかなかった。まず、イザナミが黄泉の国から離れられなかった理由があったからだけど、それはわかる?」
なぜこんな話をするのかわからない。正直、回りくどいと思ったが彼女の話に返答するために古事記の内容を頭の中から引っ張り出して考えた。ふと、シューベルトの『魔王』がかかっていることに気がついた。
「イザナミは黄泉の国の食べ物を食べてしまった。故に黄泉に従属してしまった。一員になってしまった」
チハルはいった。
「それが、『黄泉つ竈食』」
車内が少し、しっとりと重くなった。
「私の場合、黄泉の国に隷属しなければ他の死者と話すことはできないっていわれたの。でも、口にしたらもうそこから離れることはできない。だから私は意地でもなにも口にしなかった。黄泉の国の住人でもない、生者でもない。そんな私を神さまは幾度となく説得し、私はそれを退けた。さっき神様と友達になったっていったけれど、この過程での話なのよ。だからこれは都合よくできあがった、かりそめの友かもしれないの、フレンドリーではあるけどね」
僕はコーヒーを一口飲む。情報の整理が必要だ。コーヒーは先ほどよりもぬるかった。
彼女が死者であることを拒んでいる。
この言葉は適切ではない。チハルは死者であることは認めている。
ではどうして、かたくなに黄泉つ竈食を拒んだのか? その理由がわからない。
「どうして、そこまで抵抗したの?」
道を左折しながら問いかけた。車窓を指三本分ほど開けると風が入ってくる。その風がひんやりしている。今日は、十一月の末日だった。
チハルは返事をしない。
僕は十一月の末日に有給休暇を取り、ドライブをしている。友人と走っている。
そういえば、今日は終末に当たるのだろうか。
「二つね、目的があったの」
チハルの声。まだ考えをまとめながら話すようにスムーズではないしゃべり方。
「一つ目の理由はタツヤ。これはわかるわよね? 会いたかったし、話がしたかった。意外と難しくて、達成できていないけれど」
彼女はまた沈黙した。考えて、言葉にしている。努めて僕は押し黙った。言葉にも難産があるからだ。
「もう一つはね、私が産んであげられなかった赤ちゃんに、もしかしたら会えるんじゃないかって思ったの。この世に戻ればね。盲信的で脈絡もないって今だったら思うわ。でも、まだ現世をさまよっているんじゃないかって思うと、人の魂を動かすには十分なエネルギーがあった」
「それは、はじめから考えていたの?」
「うん、そう」
少し休むようにチハルは沈黙した。
「最初は、飲まず食わずで粘っていれば向こうで会えると思ったの。でも会えなくて。きっと、現世のどこかにいるんじゃないかって思うことで必死に戻ってきた。『黄泉つ竈食は済ませてしまった』っていう考えは最後でよかったから」
彼女はそれ以降、なにもいわなかった。僕は努めてだんまりをきめた。
前方の車群が行き詰っていたので速度を落とす。
後方から救急車のサイレンが聞こえたので車体を左に寄せた。道路のおおよそ中央を救急車が通り過ぎて行った。ドップラー効果がサイレンの音を低くし、
「ご協力ありがとうございます」
というアナウンスと共に遠ざかっていった。
同じくして、
『あぁ。この人はきっと、まだ生きているんだ』
なんてことを思った。まだ生きてる、まだ死んではいない。
チハルは口を噤んだままだった。これでは埒が明かないだろう。
だから僕からだんまりを解いた。
「その理由、盲信的でもチハルの子供に会おうとした理由を、聞いてもいいだろうか?」
僕がこぼした言葉を、
「いいよ。私も誰かに話したかったところだから。ちょっと怖気づいていたの」
と拾って返してくれた。
「なんでそこまで頑固になったかっていうと
ね」
前置きのあと、チハルは教えてくれた。
「まだ授乳させていない私の子に、名前もつけていない私の子に与える最初の食べ物が黄泉に隷属するための食べ物だなんて、それだけが許せなかった。ふざけんじゃないわよって。せめて授乳ぐらいさせてやりたいって思って行動したの。そしたら」
ずっしりとしたため息をついたチハル。
「こんな結果になった」
「ぜんぶ、黄泉つ竈食のせいだよ」
僕は因縁のすべてを言葉にした。
「そう。ミヅキがここまで帰って来なかった理由よ」
僕たちは道路をのろのろと進んでいる。もうここがどこで、我々はどの道を走行していて、この道がこの先でどこにつながっているかなんてわからない。まさにドライブだ。
チハルが帰ってきたことで、ミズキに会えるかもしれないという淡い思いを抱いていた。
もうそれらとは、サヨナラだ。
「ミヅキはイザナミになってしまいましたとさ」
冗談めかした言葉に、チハルが反応した。
「会いたいのなら、死んでからにしなさい。女の不格好をのぞきに行くのはナンセンスだし、すごくダサい」
小さく乾いた声で僕は笑った。運転中だというのに視界がぼやけて前が見えなくなっていく。もう絶対に会えない、分かっていた。けど期待してしまった。シャツの袖で拭っても、いくらでも視界は滲んでいく。これじゃあいけない。いま僕は一人ではない、運転をしている、話をしている。無事に帰らなければならない。
「ありがとう、チハル」
「何が?」
これ以上はないも言う必要がない。
ミヅキはもう死んだ。僕が未練たらたらでは情けない。
気持ちが吹っ切れたからか、少し小腹がすいた。傍らのバッグから先ほどコンビニで買ったチョコレートを取り出してかじる。
その最中にチハルが言った。
「安全運転でね」
「わかってる」
この車はもともとタツヤのものだ。そのうち、三人でドライブができたらいい。
滅びが全ての終わりになるかといえばそうでもない。古いと新しいの継ぎ目に終わりと、始まりがあったりする。
ちょっとばかり、楽観してもいいだろう。
この先のことを諦めるのは、死んでからだ。
北上は、午後四時になったところでいったん終了し、スマホで帰り道を検索し、給油を済ませてから帰った。ほとんど渋滞のせいだけど午後八時ぐらいになって、ようやくタツヤの家の前に帰ってきた。
最後に一つだけ、尋ねたいことがあった。
「ねぇ、チハル」
「なぁに?」
「君はいつも、眠るのかい?」
無生物の体に疲れがあるか、甚だ疑問だった。
「眠らない」
とチハルは返した。
「眠ることはできるけど、その間に黄泉の国へ連れ戻されたりしたら嫌でしょ? そのためにコーヒーが必要なのよ、私には」
彼女の言葉は意地や足掻きに近い。
僕はタツヤともチハルとも友達だ。
僕自身のエゴイズムで動いているだけだ。
「わかった。今度、目覚めのコーヒーを持ってきてあげるよ。ゲイシャを淹れて」
「いいの? そんな高いやつ」
たしかにゲイシャは高級だ。自分へのご褒美に買ってきたが、少し気が変わった。
「僕も飲むけどさ。需要に対して供給するべきだ」
ふふっ、とチハルが笑った。
「紳士ね」
「文明人だよ、きっと最後の。今日はもう行くよ、おやすみ」
車のドアに手をかけるとチハルは上機嫌に告げた。
「よい夢を」
と。
それから。
タツヤにキーを返し、自宅に戻ると最初にシャワーを浴びた。
買ってきた雑誌をリビングでひと通り読むと就寝準備をしてベッドに就いた。
終末の日。あるいは文明の最盛日。
まだ、色々考えていたかったのだけれど思いのほか疲れていたらしい。
釣瓶を落とすように早く深く眠った。