後編
シャワーを浴びる気にもなれず、俺はベッドに倒れこんだ。
今日の午後からは、クレーム対応に代替品の手配、工場へ再度納期短縮依頼をかけ、その他の溜まった見積依頼や些事をこなした。
今日中にやるべきことを片付けていたら、あっという間に時間が溶けてしまった。
時刻は零時二十分。先々週から密かに楽しみにしていた夜九時からの映画も、すでに終わってしまっている。
仕事に追われている時は忘れることができていたが、こうして部屋で一人になると、あのメッセージのことが頭をよぎる。
あれは、誰のしわざだ?
俺と晴喜の旅行の計画を知っていたのは、その場にいた母くらいだったはずだ。もちろん、晴喜や母が他の誰かに話した可能性はあるが。
通勤カバンの中からスマホを取り出し、メッセージ画面を開いてみる。メッセージ欄にはUnknownからの一方的なメッセージと写真が並んでいた。
お前は誰だ。
送信欄に打ち込んでみる。
送信マークに指をかけ、そのままの状態で、時が止まったかのように動けなくなった。
十秒、二十秒......。
時を刻むように、心臓の音が大きく脈打っている。
もうすぐ三十秒というところで、俺は先ほど入力した文字を削除し、新たに文字を入力する。
晴喜?
指が震えた。
自分は、どの面下げてあいつに語りかけようとしているんだ。
その時、手に持っていたスマホが鳴り、メッセージが表示された。
驚きで取り落としそうになったところを、辛うじて両手でキャッチする。
俺は画面にくぎ付けになった。
『最後にもう一度、あのイチョウを見に行きます』
今回はメッセージのみだ。
明日は土曜日。いつものように、一日中寝て過ごす予定だった。
けれども。
俺は居ても立ってもいられず、クローゼットから長らく使っていなかったバックパックを取り出した。
◇
スマホで検索すれば、子どもの頃は、遥か彼方にある観光地だったあの場所は、現在俺が住んでいる街から電車で一時間半ほどの距離にあった。
バックパックの中に入れたスマホは一台のみ。
社用スマホは電源を切って、部屋のテーブルの上に置いてきた。
今日だけは、目を離してもいいと思った。
空は朝から眩しいほどの快晴で、まさに秋晴れだ。
都会の風景は、次第に山や畑に変わっていく。
普段とは違う車窓を眺めながら、俺はまた、Unknownとそのメッセージへ思いを馳せた。
俺と晴喜が計画した旅行の日程を、なぞるように送られてくるその内容は、どれも簡潔だが、悪意は感じられない。
ただ淡々と、時には少し親しみを感じるほどだった。
それが不思議だった。
だって晴喜、お前は俺を恨んでいるはずだろう?
俺を貫く彼の鋭い眼差しが、今でもはっきり思い出せる。
もし、あの日に戻れるのなら、俺は――。
電車がトンネルに入り、唐突に自分の顔が窓に映し出された。
酷い顔をしている。
ふいに、暗く浮かび上がる窓越しに、じっとこちらをうかがう少年の姿が見えた気がした。
◇
晴喜が死んだのは、入学式を十日前に控えた、三月の終わりだった。
死因は事故死。即死だったという。
同級生の唐突な死は、子どもたちにただならぬ衝撃と好奇心をもたらした。
「事故って、どこで?」
「ショッピングモールの近くの交差点だって」
「あそこって子どもだけで遊びに行ったら駄目だって、先生に言われてなかったっけ?」
「――はいなかったの? あいつらいつも一緒だったじゃん」
ああ、一緒にいたさ。途中まではな。
でもあの日、俺たちは些細なことで喧嘩をした。
原因だってはっきり覚えていない。
たぶん、どっちが先だったかとか、そんなつまらない、本当に、本当にどうでもいい小さなことで喧嘩をして、あろうことか俺は晴喜を置いて先に帰ったんだ。
子どもだけで遊びに行くのを学校から禁止されていたショッピングモールへ、親も来ているふりをすれば大丈夫だと、渋る晴喜を無理やり連れ出したのも俺。
最後に見た晴喜は、口をへの字に引き結び、鋭い眼で俺のことを睨みつけていた。
そんな俺のことを、お父さんもお母さんも、晴喜の両親でさえも責めなかった。
いっそ大声で強く罵ってくれたらよかったのに。
都合よく中学へ入学し新生活が始まったこともあり、俺は晴喜との一切の思い出に分厚い蓋をして、ひたすら前のみを向いて生きていくことにした。
◇
駅に降り立つと、ひんやりとした空気が頬を伝い、街中よりも気温が一、二度低く感じられた。
駅を数歩出て後ろを振り返れば、あの、写真でしか見たことのなかった武家屋敷風の駅舎の全貌が視界に入る。
子ども心に格好いいとときめいた外観は、今見ても寸分たがわず俺の心を魅了した。
ロータリーを出てすぐ右に折れると、狭い二車線道路が山の奥まで続いている。
その道沿いには、年季の入った店から、真新しいおしゃれな店まで、地元民や観光客向けの様々な店舗が軒を連ねていた。
その中に、あの喫茶店はあった。
今日はちゃんと営業をしているようだ。あいつも今日来ればよかったのに。
しばらく道沿いを歩き、店がまばらになってきた頃に、足湯の看板が見えた。
あの頃は全く興味のなかった足湯も、今ではこのためにタオルを用意してきたくらいには気になっている。
道の両側が木々で覆われ始めたころ、脇道に入り、小高い山に続く細く長い坂道をひたすら登った。
その先に、かつて俺たちが夢見たイチョウの木がある。
あの場所が近づくにつれて、俺は暑くもないのに、手のひらにじっとりと汗をかいているのを感じた。
目的地にたどり着いた時、そこにいるのは生者か死者か。
いっそう緑と土の匂いが濃くなってきた頃、木々の隙間から茅葺屋根の山門が見えた。
開かれた門の向こうには、黄金色の絨毯が日の光に照らされ輝いている。
それはさながら入り口の形に切り取られた一枚の絵画のように、美しく幻想的だった。
境内にはすでに幾人もの観光客が来ており、イチョウと古刹を被写体に各々カメラを構えている。
俺は山門をくぐると、ひときわ大きなイチョウの木の元へゆっくりと向かった。
歩くたびに、足元に降り積もったイチョウの葉が、かさりと小さな音を立てる。
子どもの頃は遠くて行けなかったあの場所に、今、自分は立っている。
スマホが震えた。
俺は、ズボンの後ろポケットに入れていたスマホを急いで引っ張り出した。
メッセージが一件。
『やっと一緒に見ることができたね』
―――!
弾かれたように辺りを見回す。
どこだ。どこにいる!?
どんなに目を凝らしても、目に映るのは、見知らぬ人々と、風にざわめくイチョウの葉のみ。
視線を彷徨わせながら、俺は弱々しく口を開く。
「――晴喜」
この名を口にしたのは、いったい何年ぶりだろう。
「なあ、お前なのか......?」
返事はない。
スマホの画面に目を落とすが、変化はない。
俺は何度も口を開きかけて、その度に言葉を飲み込んだ。
ごめん。
そのたった一言が、どうしても言葉にできない。
だが、
あのメッセージが本当に晴喜からのものなら、それなら、今まで送られた言葉はどう読める。
まるで、純粋に俺と旅行を楽しみたかったみたいじゃないか。
俺はその場に崩れるように座り込んだ。
一度堰を切るように溢れ出した思いは止まることを知らず、懐かしさと罪悪感、そして嬉しさがないまぜになって、俺の心を満たしていった。
どれくらいそうしていただろう。
風に乗って舞い落ちてきたイチョウの葉が、視界を横切った。
俺はそれを拾い上げ、日の光に透かす。
見事な扇形をした、汚れ一つない綺麗な葉だ。
俺はスマホを構え、ゆっくりとシャッターボタンを押した。
◇
電車の心地よい振動に揺られながら、俺は遠ざかる景色を眺めていた。
足湯にじっくり浸かり、喫茶店で昼食を食べ、たくさんの珍しい石を大人買いした。
駅舎だって、勇気をだして道行く人にお願いし自分も入れて写真を撮ってもらった。
これは、かつての俺たちが思い描いていた旅行そのものだ。
ただ、隣を歩く晴喜の姿だけが足りない。
俺はスマホのメッセージ欄を開いた。
送信先はUnknown。
『お土産です』
添えた写真は薄っすら光に透けた、一枚のイチョウの葉。
既読はつかない。
けれど、
――あいかわらず、秋志はケチだなぁ。
どこからか、晴喜の笑い声が聞こえた気がした。
【おわり】