前編
午前零時二十七分。
帰宅後、とりあえずシャワーを浴び、ベッドに倒れこんだところで、スマホの通知音が短く鳴った。
メッセージが一件きている。
送り主は――Unknown。
『今、旅行に来ています。イチョウがとても綺麗でした』
写真が一枚添えられていた。
どうせ詐欺か悪戯だろうと思い、削除ボタンを押そうとしたところで、指が止まった。
写真一面に敷き詰められた黄色い絨毯。太く力強い幹に、日の光を受けて幾重にも広がる黒い影。奥には大きな茅葺屋根の山門が見える。
一つひとつは決して珍しいものではない。けれども、
俺は、この場所を知っている。
なんともいえない既視感に、胸の奥がひどくざわつく。
結局、メッセージはそのままに、俺は沈むように深い眠りについたのだった。
◇
得意先から、支店からと、スマホは絶えず鳴り響き、息継ぎをする間も与えてはくれない。それは休日でも似たようなもので、数時間おきに思い出したかのようにかかってくる電話に辟易する日々だ。
「休みの日は、社用スマホの電源は切ってるよ」
「へえ......それいいですね」
仕事のできる先輩のきっぱりした物言いに、感心して口ではそう言っても、実際に電源を切る勇気は自分にはない。
もし自分の知らない間に何か重大な問題が起こり、取り返しのつかないことになってしまったら。
そう考えると不安になって、電波を繋げてしまう。
ついこの間、見積書の桁を一桁間違え、チェックした上司にこっぴどくお叱りを受けたばかりなのでなおさらだ。
大学卒業後、中堅の製造メーカーに就職し、一年間の工場勤務を経て、地方都市の支店に営業として配属されてから約一年半。
仕事には、まだ慣れない。
深夜零時、通知音と共にスマホの画面が明るく灯った。
今日は得意先からの直帰で、いつもより早く帰路についたため、体力に余裕がある。俺は飲みかけのハイボールの缶をテーブルに置くと、ベッドの上のスマホをつまみ上げた。
メッセージが一件。
なんとなく、Unknownからだと思った。
『足湯、気持ちよさそう』
簡潔な文章とともに、また添えられた一枚の写真は、木立に囲まれた斜面の側にある、細長く広がる足湯の写真だ。足湯の淵に沿って木製の腰かけが設置されている。
「こいつ、楽しんでんなぁ」
思わず声が漏れる。
俺はスマホをベッドの上に軽く放り投げた。
こちとら明日も朝から出勤だ。優雅に旅行とは、羨ましいことこの上ない。
◇
三日目の夜にもメッセージは送られてきた。
『行きたかった喫茶店が定休日だった。残念』
植物をアクセントに、木材をふんだんに使った小洒落た店構えだ。ドアノブには「closed」と書かれた札が掲げられている。写真の端に、店名らしきものが見切れていた。
ん?
俺は眉を寄せた。この店名......。いや、気のせいか?
記憶の糸を手繰るように考え込むが、指の間をすり抜けていくばかり。何かを掴んだと思っても、次の瞬間には解けてなくなってしまう。
そういえば、初日のイチョウの写真を見た時も、似たように胸の奥がもやもやした。
いやまさか、と俺は首を振る。
昨日の足湯の写真には何も思うことはなかった。
なら偶然だろうか。そう願うが、「そんな訳ない」ともう一人の自分が心の中で叫んでいる。
そもそも、こいつは何者だ。
何の目的があって、俺にこんなメッセージと写真を送る?
◇
Unknownから謎のメッセージが届くようになってから四日目を迎えた。
金曜の昼、社用スマホが鳴り響く。
画面に映る「A工場」の表示を見て、俺はすばやく応答した。
縋るような思いで報告を聞くが、思った通り状況は芳しくない。「そうですか。わかりました」と答え通話を切る。
さて、納期が延びたことをどう得意先に伝えるか。
これからクレームと納期短縮の催促で板挟みになるのは確定だ。想像しただけで胃が痛くなる。
ああ。何もかも放り投げてどこか遠くへ行きたい。
そう、毎夜写真とメッセージを送ってくる、あいつのように。
ポケットの中で、スマホが小さく振動した。
社用スマホじゃない。俺個人のやつだ。何の気なしに画面を開き、俺はその場で固まった。
『この駅舎、やっぱりかっこいいよ!』
写真の中の、武家屋敷を彷彿とさせる駅舎には、見覚えがあった。
――――晴喜。
閉じ切っていた記憶の蓋が開き、あの頃の思い出が鮮明に蘇った。