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雨上がりの境界線

いつも時雨との架け橋となってくれていた雨が、今日は彼女を阻んでいた。
コンクリートの厚い壁に遮られている旧図書館の地下閲覧室にいても、湿度が変わったのが分かった。じめっとした蒸し暑さが空気に混ざり、窓の外に目をやると、雲はあっても空が見えて、陽の光が差し込んでいたのに、いつの間にか空は雲に覆われ、不穏な気配を発していた。
時計の針は十六時前。いつもなら彼女が席を立つ時間だった。
紅野薫は手元の美術書を開いたまま、窓の外に視線を向けた。
時雨はいつも通り、ベージュのトレンチコートを羽織り、小さなトートバッグを肩にかけて立ち上がろうとしていた。しかし、彼女の視線は窓の外の、急に雲が翳った世界に釘付けになっている。
その表情が、どこか困ったように曇っていることに紅野は気づいた。
時雨はルーズリーフノートを取り出すと、少し迷うような素振りを見せてから、さらさらと文字を書いて紅野の机へと滑らせた。
『困りました。今日は一日中、晴れの予報だったので、お気に入りの大きな傘を大学の正面玄関にある傘立てに置いてきてしまったんです。ここからあそこまで、まだ濡れた木々の下を歩かなければいけないのに、手元に傘がありません』
紅野は自分の足元を見た。そこには、黒に赤の混じった色の柄の傘が一本、寂しげに立てかけられている。
いつもなら、ここで「お気をつけて」と文字を残して終わるはずだった。それが二人の、互いの一線を越えないための、大人しいルールだったからだ。けれど、紅野の心の中に、今までになかった小さな衝動が芽生えていた。四年生の春が近づいている。彼女とこうして過ごせる雨の日は、あと何回残されているのだろうか。
紅野はシャープペンシルを机に置き、文字の書かれた紙と傘を持って時雨のもとへ向かった。
「僕の傘、使ってください。この傘目立つので、差して置いてもらえればすぐにわかります」
彼女はその提案を聞いて、紅野の顔を見た。
「じゃあ、先輩が戻る時はどうするのですか。この後雨が降るかもしれないのに」
「そしたらその中を走ります。少なくとも詩織さんが濡れるよりかは遥かにマシですよ」
「そんなことないです。私が濡れなくても先輩が濡れたら本末転倒ですよ」
薫の言葉を否定して、彼女は黙り込む。しばらくして時雨は顔を上げる。
「先輩、その傘、一緒に使いませんか。先輩の帰り時間まで、待ちます。先輩に要らぬ事をさせてしまいますが、先輩がそれでも良ければ、その傘を貸していただければいいです」
紅野は一瞬だけ黙った。
二人の間には、いつも三つの席があった。その距離を越えることには、今まで互いに、どこか慎重だった。
「......じゃあ、お言葉に甘えます」
時雨は小さく頷いた。
旧図書館の重い扉を開けて一歩外に出ると、むっとするような濡れた土の匂いと、雨上がりの冷たい空気が二人を包み込んだ。
キャンパスの街灯がぽつぽつと灯り始め、水溜まりがオレンジ色の光を反射して輝いている。外の世界は、思ったよりもずっと騒がしかった。遠くでサークルの掛け声が聞こえ、授業を終えた学生たちが笑い合いながら駅へと向かっていく。
その賑やかさの中で、二人は一本の傘を差して、並んで歩いていた。
雨は止んでいたけれど、古い銀杏の並木道からは、風が吹くたびに大粒の水滴がばらばらと落ちてくる。だから、傘を差す大義名分はあった。しかし、旧図書館の中で三つ隣の席にいた時よりも、今、同じ傘の下で肩を並べて歩いている方が、遥かに距離が近く感じられた。
時雨のベージュのトレンチコートの袖が、紅野の腕に時折、かすかに触れる。
「......外って、こんなに眩しかったんですね」
時雨が、傘の骨を見上げるようにしながら、ぽつりと言った。筆談ではなく、外の空気に溶けていくような彼女の生の声。少し低くて、耳に心地よい響きだった。
「そうだね。いつもあの地下室にいるから、感覚が狂ってしまうのかもしれない」
紅野が答えると、時雨は少しだけ歩幅を緩めた。
「私、あの薄暗い場所が好きです。でも......こうして先輩と外を歩くのも、悪くないって思ってしまいました」
大人しい彼女にしては、驚くほどストレートな言葉だった。紅野は傘を握る手に思わず力が入る。彼女の横顔を見ると、夕暮れの光で赤いのか、照れているから赤いのか、判別がつかないほどに頬が染まっていた。
二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。言葉にしてしまえば、この奇跡のような時間が、雨上がりの水溜まりのように簡単に消えてしまいそうな気がしたからだ。
大学の正面玄関に到着すると、そこには何百本もの傘が乱雑に突き刺さった大きな傘立てがあった。
「あ、ありました。あれです」
時雨が指差したのは、彼女がいつも持っているマイボトルと同じ、深い緑色の柄をした綺麗な傘だった。彼女がそれを受け取り、紅野の傘の下から一歩、外へと踏み出す。
その瞬間、二人の間に、目に見えない明確な「境界線」が引かれたような気がした。
これまでは「旧図書館の閲覧室」という、誰も立ち入らない潜水艦の中で守られていた。けれど、ここは誰もが行き交う大学の玄関口だ。自分たちはただの「同じ大学の先輩と後輩」であり、春になれば、薫はこの場所から完全にいなくなってしまう。その現実が、冷たい夕風と共につきつけられたようだった。
「送ってくださって、ありがとうございました、紅野先輩」
時雨は緑色の傘を胸元に抱きしめ、いつもの丁寧な一礼をした。
「いや。卒論のヒントももらったし、これくらい当然だよ。......じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
時雨はもう一度微笑むと、駅へと続く人の波の中に消えていった。彼女のトレンチコートの後ろ姿が小さくなっていくのを、紅野は立ち尽くしたまま見つめていた。
手元の傘から、もうアールグレイの香りはしなかった。あるのは、ただの冷たい雨水の匂いだけ。
お互いが、ただの図書館仲間ではなく、一人の男と女であること。そして、二人の間には、卒業という絶対的なタイムリミットが存在すること。雨が上がった街の片隅で、二人の心は、今まで経験したことのない切ない痛みを、静かに刻み始めていた。
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雨の日とアールグレイ作者:静寂漣
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雨上がりの境界線

いつも時雨との架け橋となってくれていた雨が、今日は彼女を阻んでいた。
コンクリートの厚い壁に遮られている旧図書館の地下閲覧室にいても、湿度が変わったのが分かった。じめっとした蒸し暑さが空気に混ざり、窓の外に目をやると、雲はあっても空が見えて、陽の光が差し込んでいたのに、いつの間にか空は雲に覆われ、不穏な気配を発していた。
時計の針は十六時前。いつもなら彼女が席を立つ時間だった。
紅野薫は手元の美術書を開いたまま、窓の外に視線を向けた。
時雨はいつも通り、ベージュのトレンチコートを羽織り、小さなトートバッグを肩にかけて立ち上がろうとしていた。しかし、彼女の視線は窓の外の、急に雲が翳った世界に釘付けになっている。
その表情が、どこか困ったように曇っていることに紅野は気づいた。
時雨はルーズリーフノートを取り出すと、少し迷うような素振りを見せてから、さらさらと文字を書いて紅野の机へと滑らせた。
『困りました。今日は一日中、晴れの予報だったので、お気に入りの大きな傘を大学の正面玄関にある傘立てに置いてきてしまったんです。ここからあそこまで、まだ濡れた木々の下を歩かなければいけないのに、手元に傘がありません』
紅野は自分の足元を見た。そこには、黒に赤の混じった色の柄の傘が一本、寂しげに立てかけられている。
いつもなら、ここで「お気をつけて」と文字を残して終わるはずだった。それが二人の、互いの一線を越えないための、大人しいルールだったからだ。けれど、紅野の心の中に、今までになかった小さな衝動が芽生えていた。四年生の春が近づいている。彼女とこうして過ごせる雨の日は、あと何回残されているのだろうか。
紅野はシャープペンシルを机に置き、文字の書かれた紙と傘を持って時雨のもとへ向かった。
「僕の傘、使ってください。この傘目立つので、差して置いてもらえればすぐにわかります」
彼女はその提案を聞いて、紅野の顔を見た。
「じゃあ、先輩が戻る時はどうするのですか。この後雨が降るかもしれないのに」
「そしたらその中を走ります。少なくとも詩織さんが濡れるよりかは遥かにマシですよ」
「そんなことないです。私が濡れなくても先輩が濡れたら本末転倒ですよ」
薫の言葉を否定して、彼女は黙り込む。しばらくして時雨は顔を上げる。
「先輩、その傘、一緒に使いませんか。先輩の帰り時間まで、待ちます。先輩に要らぬ事をさせてしまいますが、先輩がそれでも良ければ、その傘を貸していただければいいです」
紅野は一瞬だけ黙った。
二人の間には、いつも三つの席があった。その距離を越えることには、今まで互いに、どこか慎重だった。
「......じゃあ、お言葉に甘えます」
時雨は小さく頷いた。
旧図書館の重い扉を開けて一歩外に出ると、むっとするような濡れた土の匂いと、雨上がりの冷たい空気が二人を包み込んだ。
キャンパスの街灯がぽつぽつと灯り始め、水溜まりがオレンジ色の光を反射して輝いている。外の世界は、思ったよりもずっと騒がしかった。遠くでサークルの掛け声が聞こえ、授業を終えた学生たちが笑い合いながら駅へと向かっていく。
その賑やかさの中で、二人は一本の傘を差して、並んで歩いていた。
雨は止んでいたけれど、古い銀杏の並木道からは、風が吹くたびに大粒の水滴がばらばらと落ちてくる。だから、傘を差す大義名分はあった。しかし、旧図書館の中で三つ隣の席にいた時よりも、今、同じ傘の下で肩を並べて歩いている方が、遥かに距離が近く感じられた。
時雨のベージュのトレンチコートの袖が、紅野の腕に時折、かすかに触れる。
「......外って、こんなに眩しかったんですね」
時雨が、傘の骨を見上げるようにしながら、ぽつりと言った。筆談ではなく、外の空気に溶けていくような彼女の生の声。少し低くて、耳に心地よい響きだった。
「そうだね。いつもあの地下室にいるから、感覚が狂ってしまうのかもしれない」
紅野が答えると、時雨は少しだけ歩幅を緩めた。
「私、あの薄暗い場所が好きです。でも......こうして先輩と外を歩くのも、悪くないって思ってしまいました」
大人しい彼女にしては、驚くほどストレートな言葉だった。紅野は傘を握る手に思わず力が入る。彼女の横顔を見ると、夕暮れの光で赤いのか、照れているから赤いのか、判別がつかないほどに頬が染まっていた。
二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。言葉にしてしまえば、この奇跡のような時間が、雨上がりの水溜まりのように簡単に消えてしまいそうな気がしたからだ。
大学の正面玄関に到着すると、そこには何百本もの傘が乱雑に突き刺さった大きな傘立てがあった。
「あ、ありました。あれです」
時雨が指差したのは、彼女がいつも持っているマイボトルと同じ、深い緑色の柄をした綺麗な傘だった。彼女がそれを受け取り、紅野の傘の下から一歩、外へと踏み出す。
その瞬間、二人の間に、目に見えない明確な「境界線」が引かれたような気がした。
これまでは「旧図書館の閲覧室」という、誰も立ち入らない潜水艦の中で守られていた。けれど、ここは誰もが行き交う大学の玄関口だ。自分たちはただの「同じ大学の先輩と後輩」であり、春になれば、薫はこの場所から完全にいなくなってしまう。その現実が、冷たい夕風と共につきつけられたようだった。
「送ってくださって、ありがとうございました、紅野先輩」
時雨は緑色の傘を胸元に抱きしめ、いつもの丁寧な一礼をした。
「いや。卒論のヒントももらったし、これくらい当然だよ。......じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
時雨はもう一度微笑むと、駅へと続く人の波の中に消えていった。彼女のトレンチコートの後ろ姿が小さくなっていくのを、紅野は立ち尽くしたまま見つめていた。
手元の傘から、もうアールグレイの香りはしなかった。あるのは、ただの冷たい雨水の匂いだけ。
お互いが、ただの図書館仲間ではなく、一人の男と女であること。そして、二人の間には、卒業という絶対的なタイムリミットが存在すること。雨が上がった街の片隅で、二人の心は、今まで経験したことのない切ない痛みを、静かに刻み始めていた。
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