琥珀色の交換日記
時雨と言葉を交わしたあの日から、紅野と時雨の静かなやり取りは始まった。最初は貸出レシートの裏からノートの切れ端、自分の持っているおすすめの本の余白。使えるものは何でも使って、自分のことを書き、互いのことを少しずつ知っていった。
ある日、紅野は勇気を出して時雨に質問をしてみた。どうしてアールグレイを飲んでいるのですか、と。
時雨はそれに応えようと紅野の方を向いて口を開く。けれど、その口から言葉は紡がれなかった。
旧図書館は、人気が少ないと言っても、二人きりというわけではない。たまに本館図書館にない本を求めて、旧図書館へ来る生徒もいる。
一人の女子生徒が横を通り過ぎる。二人は何事もなかったかのように席に戻り、読書を始める。
時雨が紅野の前を横切る時、本の横に一枚、小さなメモ用紙を置いていった。
その小さなメモには、彼女の少し内気な、けれど整った文字が躍っていた。
『大きな声で話すのが、少し恥ずかしかったので......ごめんなさい。アールグレイを飲んでいるのは、これが私にとって「静かになるためのおまじない」だからです』
おまじない、という言葉の響きに、紅野の胸の奥へほんのりと灯りがともった。
彼は手元のシャープペンシルを握り直し、彼女の文字の下に、自分の言葉を書き加えていく。
『おまじない、ですか。素敵な理由ですね。でも、どうしてアールグレイなんですか?』
紙片を三つ隣の席へとそっと滑らせる。時雨はそれを両手で大切そうに受け取ると、白磁のマグカップから立ち上る湯気の向こうで、小さく微笑みながらペンを走らせた。カチ、とシャープペンシルが静かにノックされる。
『アールグレイの香りは、ベルガモットという柑橘の果実から作られているんです。柑橘の瑞々しさと、古い紙の少し枯れた匂いが混ざり合うと、なんだかこの世界に私一人だけが取り残されたみたいに静かになれる気がして。脈絡も何も無いですが。......先輩は、この香りは嫌いですか?』
紅野は首を横に振る代わりに、少し強い筆圧で返事を書いた。
『いえ、気にしなくていいですよ。むしろ逆で、最近はこの香りが届くのを楽しみにしている』
書き終えてから、少し素直に伝えすぎただろうかと、紅野は耳の後ろが熱くなるのを感じた。戻ってきた紙片を見ると、時雨の文字の最後に、小さく、照れたようなひよこのイラストが手書きで添えられていた。
大人しい性格の二人のやり取りは、いつもこうして、誰にも邪魔されない静寂の中で深まっていった。スマートフォンを介した文字には体温がないけれど、この破り取ったノートの切れ端には、確かに彼女の指先が触れた温もりが残されている。
数日後、雨は相変わらず旧図書館の地下窓を濡らし続けていた。
いつものようにメモを交わそうとした時、紅野は時雨の右手の親指と人差し指に、新しく小さな白い絆創膏が貼られていることに気づいた。隙間からのぞく指先は、細かな紙やすりで擦ったように少し赤くなっている。
心配になった紅野は、美術書の余白にこう書き込んで、彼女に本ごと手渡した。
『指先、どうかしたんですか。怪我でも?』
本を受け取った時雨は、自分の指先を少し気恥ずかしそうに見つめ、すぐに小さなメモ用紙に理由を書き記した。
『大丈夫です。実は、自宅で古い本の修復の練習をしていて、和紙を小刀で断裁するときに少しだけ滑ってしまって。職人さんへの道は、まだまだ遠いです』
国文学科の二年生である彼女は、将来「図書修復家」を目指して自主的に勉強をしているのだという。紅野は、彼女がただ大人しい女の子なのではなく、自分の夢に対してこれほどまで一途に向き合っていることに、深い尊敬を覚えた。
『無理はしないでくださいね。時雨さんの手は、古い本に新しい命を吹き込んで、何百年も先に繋ぐための、大切な手なんですから』
紅野がそう返すと、時雨は動きを止め、しばらくの間、じっとその文字を見つめていた。白磁のマグカップを両手で包み込む彼女の白い頬が、ほんのりと朱に染まっていくのが、三つ隣の席からでもはっきりと分かった。
それから、彼女の文字にはいつもより少しだけ、甘えるような柔らかさが混ざるようになった。
『ありがとうございます、先輩。実は、今やっている練習は、先輩の卒論に少しだけ関係があるんです。十九世紀のイギリスの書籍は、綴じ方がとても複雑で、でも美しくて......。先輩の卒論、少しでも良いものになるといいですね』
文学部美学芸術学科の四年生として、ウィリアム・モリスの装丁芸術を研究している紅野。その難解なテーマを、彼女は自分の視点から理解しようとしてくれていたのだ。二人の学ぶ世界は、この薄暗い空間の中で、アールグレイの香りに包まれながら、静かにリンクし始めていた。
ある日の夕方、時雨の書いた文字の最後に、一つの小さなお願いが書かれていた。
『先輩。明日の十五時、もしよければ、私のお気に入りのアールグレイを、少しだけ飲んでみませんか。タンブラーをもう一つ、持ってきますので』
紅野は、自分の心臓がドクンと大きな音を立てるのを聞いた。
『喜んで。楽しみにしています』
そう書き置きを残して、その日の時刻が十六時を迎えた。時雨はいつも通り、静かにトレンチコートを羽織って席を立つ。
すれ違いざま、彼女は紅野の方をちらりと見て、悪戯が見つかった子供のように、ほんの少しだけ、いたずらっぽく微笑んだ。その笑顔は、これまでに見たどんなものよりも眩しく、紅野の心に消えない足跡を残していった。
未だ本州を横断中の台風の影響で、幸い直撃ではないものの、雨の日々は続いている。
二日続きの雨。その二日目。彼は午後のある約束に備えて珈琲屋へ行った。
彼女にアールグレイだけもらって帰るのも失礼ではないかと思い、お礼として渡せるものを探しに来た。
「女性に珈琲を勧める時に良いお品ですか......」
「厳しいですかね......」
珈琲店の従業員に尋ねてみたが、渋い顔をして考え込む素振りを見せた。
「一つだけございます。ですが、市販のものと系統が似通ったものでして。この店で扱う珈琲というものを勧めるには、あまり向いていないかと......」
「見せてもらえますか?」
見せてもらうと、それは、お湯を注ぐだけで珈琲を淹れられるというものだった。
「出来上がったものを、できるだけ当店のブレンドと同じ風味になるように、と作ったものでして......。言い方は悪いですが、市販のものとそこまで変わりません。正直に言いますと、私としてはあまりお薦めはできません」
従業員は渋い顔をしながらも、はっきりとそう言い切った。
「わかりました。すみません、こんな変な質問に答えてくださって」
「いえいえ。お客様のご要望に誠心誠意お応えすることが、私たちの仕事ですから。先程の話に戻りますが、珈琲自体にこだわらず、珈琲風味の甘菓子などはいかがでしょうか。紅茶に合うお菓子も、きっとあると思いますよ」
「これとか良いですね。この店、結構来てるつもりでしたけど、知らないことが結構ありますね」
「常連さまのお顔は、いつも拝見していますので。週末によく来ていらっしゃいますから、今日いらっしゃって少し驚きました。本日プレゼントされるのであれば、このお菓子などもお薦めですよ」
その後も従業員に勧められるまま色々と見て回り、無事、お返しの品が決まった。それを紙袋に包んでもらい、薫は旧図書館へ向かった。
旧図書館前広場に着いた薫は、腕時計の時刻を見てふと思った。
こういうときは、何分前くらいに着いているのがスマートなのだろうか。
約束の時まで一時間ほどある。じっくり悩んでも間に合っていたのではないかと、少し後悔した。
「麟静に貰った飴、まだあったっけ......」
二つ上の同級生から貰った飴をカバンから取り出し、包装紙を剥がして口に入れる。これは紅茶に合うかも、なんて考えながら。
「あれ、随分と早いですね。お待たせしてしまいましたか?」
しばらくすると、彼女が腕時計を確認しながら、そう言って現れた。
「いえ、僕が早く来すぎてしまっただけです」
「そうでしたか。私も楽しみで、家を早く出すぎてしまって、さっきまで時間を潰していたところです。せっかく早く集まったので、始めましょうか」
時雨はタンブラーをカバンから取り出し、テーブルの上に置く。
もう一つのタンブラーを紅野の前へ置くと、自分の分の蓋をゆっくりと開けた。ふわり、と立ち上る香りはいつものそれと同じだった。けれど今日は、三つ隣の席からではなく、自分のすぐ隣から漂ってくる。古い紙の匂いと混ざり合ったベルガモットの香りに、紅野はどこか懐かしさを覚えながら、目の前に置かれたタンブラーへと視線を落とした。
「どうぞ。私のお気に入りですから、気に入ってくれると嬉しいです」
「ありがとうございます。それじゃあ......」
紅野は両手でタンブラーを持ち、少しだけ躊躇ってから口をつけた。温かな液体が舌に触れ、紅茶特有の渋みが僅かに残る。その後を追いかけるように、爽やかな柑橘の香りが鼻腔へ抜けていった。今まで何度も感じてきた香りなのに、実際に自分で飲んでみると、ほんの少しだけ違って感じられる。
「......好きです」
自然と、そんな言葉が口からこぼれた。
「......え?」
「あ......」
紅野自身も、言ってから気づいた。言葉だけを聞けば、どう考えても別の意味に聞こえてしまう。慌ててタンブラーへ視線を戻し、言葉を続けた。
「アールグレイが、ですよ」
「ふふ......分かっていますよ」
そう言いながらも、時雨の頬はほんのりと赤く染まっている。紅野もそれ以上は何も言えず、誤魔化すようにもう一口、紅茶を口にした。
「......落ち着きますね」
「でしょう?」
時雨が嬉しそうに笑う。その表情を見ていると、紅野まで自然に頬が緩んでしまった。
いつも一人で飲んでいたお気に入りの紅茶を、こうして誰かと分け合うことが、彼女にとってどれほど特別なことなのかは分からない。それでも、少なくとも今この時間を、自分と共有してくれている。その事実だけで十分だった。
紅野は、そこで思い出したように足元へ置いていた紙袋を手に取った。
「そういえば、僕からも......」
「?」
「お返しです。アールグレイをいただくだけというのも、なんだか申し訳なかったので」
そう言って紙袋を時雨へ差し出す。時雨は少し驚いたように目を丸くしたが、やがて両手でそれを受け取った。
「開けてもいいですか?」
「もちろん」
包みを開いていくと、中から小さな焼き菓子が姿を見せる。珈琲の香りをほんのりと感じさせる、それほど大きくはない菓子だった。
「珈琲のお菓子です。紅茶にも合うかなと思って」
「珈琲......」
時雨は焼き菓子を手の中で眺め、それから紅野へ視線を戻した。
「嬉しいです。ありがとうございます、先輩」
「こちらこそ。飲ませてもらっているんですから、これくらいは」
「じゃあ、大切にいただきますね」
そう言って、時雨は小さく笑った。
それから二人は、急ぐこともなく、その場でアールグレイを飲み続けた。最初のうちは紅茶の味や香りについて話していたが、いつの間にか話題は授業のことや最近読んだ本のこと、時雨が自宅で続けている本の修復の練習のことへと移っていった。紅野も自分の卒業論文について話し、互いの知らなかった部分を少しずつ知っていく。
「こうして話していると、なんだか変な感じですね」
「どうしてですか?」
「今までずっと、文字でしか話していなかったので」
「ああ......それは確かに」
時雨はそう答えた後、少しだけ視線を落とした。
「でも、私はこのほうが好きかもしれません」
「このほう?」
「先輩と直接話すのも、悪くないなって」
そう言って、時雨は少し恥ずかしそうに笑う。紅野もそれを見て、静かに笑みを返した。
旧図書館の地下閲覧室には、今日もページをめくる音が響いている。けれど、いつもの三つ隣の席を隔てた距離は、今日はなかった。代わりに二人の間には、二つのタンブラーと、一つの小さな焼き菓子だけが置かれている。
その距離が、今までより少しだけ近くなったことを、二人とも言葉にはしなかった。
ただ、アールグレイの香りだけが、静かな時間の中で二人の間をゆっくりと行き来していた。
しかし、世の時間というものは残酷に、「卒業」というタイムリミットを刻々と刻み続けている。二人はその事実に、目を向けないでいた。永遠に続くものと、思っていた。