

古き清泉亭
カラン、カラン。
古き清泉亭の扉には赤銅でできたベルが取り付けてある。
客が出入りするとベルが鳴り、給仕に知らせる。
アリスは扉の方を振り向いた。
衛兵が入ってきた。
「あら、いらっしゃい!」
古き清泉亭はロズベリーアポンフロルの北門近くにあるケラー一家の営む小さな宿屋である。
主はダグ・ケラーである。
アリスの父親だ。
古き清泉亭は家族経営の宿だった。
宿屋と言っても二人部屋が五つあるだけのごく小さな宿であり、どちらかと言うと宿屋と言うよりは地階で営む食堂で知られていた。
客は近所の住人が多いが北門の近くだけに、北門に詰める衛兵達も常連であった。
入ってきた衛兵は四人、小隊である。
町を守る衛兵の一個小隊と言ってもあまり頼りになる兵隊には見えなかった。
一番大柄な男は長身であったが"痩せっぽちのロニー"と呼ばれる通りの痩身で、とても膂力があるようには見えなかった。
次の男は筋肉隆々であったが、横に大きく、俊敏さの欠片もなさそうであった。"鈍牛ボリス"の名の通りである。
三人目の男が一番均整のとれた体格で筋肉も程よくついていたが、格好の良い体の上に乗る顔は娘のように優しく美しかった。"優男のフィル"が剣を持って戦う姿など到底誰にも想像できなかった。
最後の男がこの小隊を率いる小隊長だったが...
小隊長は小隊で一番小柄な身体を持ち、逞しい戦士には程遠い。
個性的で癖のあるのは顔立ちだけではないらしく、"変人ジェフリー"と呼ばれていた。
「一番奥の席が空いてるわ。どうぞ!」
アリスに言われるまでもなく繁盛している古き清泉亭の食堂は遅い時間にも関わらず、空席はその一卓しかなかった。
衛兵達はまっすぐ店の奥に向かった。
「あなた達、随分遅かったのね?」
確かに古き清泉亭には他にも同じ昼番明けの衛兵が二組いたがどちらも食事を終える寸前であった。
アリスの言葉に衛兵達は一斉にうんざりした顔をした。
ロニーは天を仰ぎ、ボリスは卓に顔を埋め、フィルは優雅に肩をすくめた。
ジェフリーが代表して答える。
「今日は俺達は訓練でな。ランドルフの奴、えらく熱くなりやがって!居残り稽古さ。」
ランドルフとは北門詰めの衛兵達に剣術を教える武術師範の名前だった。
「なんだよ?お前達もか?」
隣の卓を占めている衛兵達の一人が言った。
ジェフリーと同じ小隊の長、ライリーだ。
「あぁ、あいつ最近、気合いが入りすぎなんだよ。」
「俺達も昨日、散々やられたさ!」
「なんなんだ?最近のあいつは?」
ジェフリーは呆れたようにライリーに応えた。
「なんだろうな?先週くらいからだろ?あれ。」
「先週?そうだな。そう言えば、先週、王都からの使者が来たよな?あれからじゃないか?」
「あれか?王都から引き抜きの話でもきて、張り切ってるとか?」
「まさか!あれは使者だ。そんな話を持ってきたわけではあるまい。」
「ここに泊まった後、北門から次に行ったんだろ?」
「らしいな。そう言えば、ランドルフだけじゃなくてエリックも張り切ってるって話だ。」
エリックは弓術を教える、やはり北門所属の武術師範だ。
「なんだって?俺達、明後日、あいつの訓練なんだよ。あーあ!」
ライリーは両手を上げて、天を仰いだ。
「よくわからないけど、大変だったのね?あんた達?」
「あぁ、とにかくエールを人数分頼むよ。それが楽しみで、耐えてきたようなもんだ。」
ジェフリーは哀れを催すような口調で言った。
アリスはクスリと笑うと走り出した。
「わかったわ!ちょっと待ってて!」
古き清泉亭はうまいエールが評判であった。
そして、その秘訣はケラー家の所有する井戸にあった。
ケラー家の井戸の水は冷たく澄んでおり、その水で作られることで酒も食事もうまいというのが専らの噂であった。
フロル川の畔にあるロズベリーアポンフロルでは何れの井戸も豊かな水量と澄んだ水の質を誇るが、ケラーの井戸は格別と言われている。
天候などで他の井戸の水が濁ったりしても、ケラー家の水だけは冷たく澄んでいる。
ケラー家の井戸は町のどの井戸よりも深く、どうやら他の井戸とは違う水脈にあたるらしい。
この井戸こそが古き清泉亭という屋号の由縁である。
その水を使って醸造されたエール、『クレーネ』は井戸を挟んで古き清泉亭の裏側にある小さな醸造所でダグの弟一家により造られているが、生産量が少なく古き清泉亭でしか飲めない。
だから、古き清泉亭にはこのエール目当ての者も多い。
アリスがエールを持ってくると四人は乾杯した。
「気高く、仕事熱心なランドルフ殿に!」
ロニーが持ち前の皮肉っぽい声でニヒルな笑みを浮かべて杯を掲げる。
ボリスは無言でそれに応えた。
「君は露骨すぎるよ。彼は彼なりに職務に忠実な下僕なのさ。」
小隊一、武芸嫌いなフィルが優雅に杯を掲げて応じる。
「兎に角だ。お疲れ!」
ジェフリーが小隊長らしい威厳を示すことなくおざなりに締めると四人はエールを呷った。
「本当にお疲れね!それで食事はどうするの?」
「ハギスにブラックプディングを人数分。」
「呆れた!」
「?」
アリスの言葉にジェフリーが驚いたような表情を向けた。
「だって、衛兵って皆、同じものを頼むんだもの。」
「知ってるだろ?俺達の給金は月初に出るんだ。月の終わりの今頃は皆、手元不如意さ!」
ハギスは羊の臓物に麦や玉葱でかさ増しして、たっぷりの香草で臭みをごまかし、やはり羊の胃袋に詰めて加熱した料理だ。
ブラックプディングは豚の血の腸詰。
どちらも安い。
メカニア王国ではありふれた食事だし、好んで食べる者もいる。
ブラックプディングなどはよく食べている者は戦傷を受けてもあまり死なないとまで言われてはいるが
それでも、他の料理よりは一段劣る、財布が軽い時の食事とされがちだ。
「あら?あなた達ときたら給金が出たら毎日、贅沢に鹿や羊、牛のグリルばかり食べるんだもの。当然よ!少しは計画的にお金を使ったら?」
「そう言うなよ。俺達は衛兵だ。明日、任務で死んだらどうする?金があればさっさと使うさ!」
ジェフリーの言葉にアリスは吹き出した。
「こんな,平和な町の衛兵が何を言うの?」
「明日、何があるかなんてわからないだろ?」
「あら!私はわかるわ!」
「?」
「明日の任務に着く頃、あんた達、二日酔いでうんざりしてるわ!」
小隊は爆笑した。
ジェフリーは肩をすくめると言った。
「そうかもね。だから...」
「だから?」
「さっさと食事を頼むよ。ランドルフのせいで俺達、腹ペコなんだよ!」
「わかったわ!」
走り出そうとするアリスにジェフリーはひそひそ声で話しかけた。
「それよりも...」
「何?」
「入り口近くの卓の連中、見かけない顔だな。」
入り口に一番近い卓には四人組の男達がいた。
近所の住人にしては身なりが良い。
北門詰めの衛兵をしていれば、近所の住人は皆、見知っている。
他所者だとジェフリーは思った。
四人の見知らぬ男達は辺りを窺うようにキョロキョロし、時折り、聞き耳を立てているようだった。
「上の宿泊客よ。」
「ほう?」
衛兵と言う職業柄、そんなことが気になってしまう。
「何でも遠くから来た商人だそうよ。この町の商人と取引したいんだって。」
ロズベリーアポンフロルは交易の盛んな町だ。
ここの商人に商品を納入できれば実入が大きい。
よくある話だ。
キョロキョロするのも、地元民ばかりの店にいる他所者なら無理もない。
「ふーん。」
「お待ち遠さま!」
アリスが卓に食事を並べた。
「お、おい?俺達、こんなの頼んでないぞ?」
アリスが卓に並べたのはハギスにブラックプディング、そして綺麗な色艶に焼かれた鶏腿肉のグリルだった。
「実はね。余り物なの、それ。」
「?」
「あちらの宿泊客の皆さん八人なのね。でも、四人は今日、取引先さんの家に泊まりなのか食事いらないって言うの。でも、お父さんは彼らが食べるだろうって、これを用意してたのよね。」
「いいのかい?お嬢さん?」
アリスのことを貴族の娘かのように『お嬢さん』なんて呼ぶのは"優男のフィル"くらいだ。
「いいわよ。」
一呼吸おいて。
「だ・け・ど!」
「?」
アリスに目の前で人差し指を突き立てられてジェフリーは戸惑った。
「お父さんには内緒。見つからないようにこっそり食べて。」
どうやらダグにも内緒のサービスらしい。
「申し訳ないけど、骨も持って帰ってね。バレたら怒られちゃうわ!」
アリスがベロを出して微笑んだ。
「わかったよ。ありがとう。」
ジェフリーは真っ先に鶏の腿肉にかぶりついた。
ジェフリーの小隊が食事を終える頃には他の客はほとんどいなかった。
ジェフリーは部下達から小銭を集めるとアリスに渡した。
「なぁ?」
「どうしたの?」
「二階の客、四人は帰ってこないのかい?」
「そうじゃないかしら?」
「町の外に出たのかい?」
町の門はもう閉ざされている。
「わからないわ。市内の取引先の家に泊まっているのかもしれないわね?」
町の商人は富商が多い。
簡単に他所者を泊めるだろうか?
「そうかな...、兎に角ご馳走さま。美味しかったよ。」
ロニーは気障に口笛を吹いた。
「...」
ボリスは相変わらず無口。
「またね。お嬢さん。」
フィルが甘く囁く。
アリスは元気に戸口で手を振って小隊を見送ってくれた。
ここはロズベリーアポンフロル。
メカニア王国南部、フロル川の畔にある人口千人程の小さな城塞都市である。
その特徴は地政学的な優位性にある。
北門の目の前には沃野ドゥヘルト平野を貫いて北部地域に至るグース街道とエクスモーア丘陵を経て西の隣国ワクソニア王国に続くウェストメーレ街道の追分があり、東は町を通り抜けたウェストメーレ街道が海港都市アヴォンマスを経由して王都フェアトンに続いている。
その為、多くの物資が行き交い、商人が集い、交易の盛んな都市であり、規模の割に裕福であった。
町の東、南、西は大きく蛇行するフロル川の囲まれ、かつては追分の目の前にある北門だけが歩いて入れる唯一の入り口であった。
今では南門から石造りの橋がフロル川に架けられているが、この橋は海からは最初の橋であり、これより上流は遥か北方、大河フロルが取るに足らない小川になる水源近くまで橋は架けられていない。
また、町の南東にあるフリント丘陵に水源を持つフェン川が町のすぐ南で合流しており、西方から王都に至るにはこの町を通り抜けるのでなければ、南で川を二本渡るか、北で川を渡った後に険しいカンバー丘陵の峠道を抜けなければならない。
つまり、交通の要所でもあった。
だから、二世紀前にメカニア王国がこの地を占領した時、王家は取るに足らない小集落でしかなかったこの地に都市を築き、王家直轄の特権都市とした。
また、軍事的な重要性を考慮し町を城壁で囲い、現在の城塞都市になったが、国境は遠く、これまで戦火にさらされることもなく、平和な町として現在に至っている。
これはそんな辺鄙で素朴なこの城塞都市ロズベリーアポンフロルとその北門近くで営まれる小さな宿屋古き清泉亭での物語である。