第52話 優のノート
意識不明の状態になった優の見舞いに通ってもいいか、優の両親に確認した。優の母親が医師に確認して許可をもらった。
だから、緋那は意識不明の優に今まで通り毎日会いにいった。
緋那は優の病室に入るとベッドサイドのパイプ椅子に座る。
「来たぞ、優。......っとはじめましてといった方がいいのか? 緋那だ。お前の友達」
返事は来ないのは分かっている。少し前のように瞬きや首の動きでの反応すらない。ただ、優は眠っていた。
酸素マスクの下からは不規則な呼吸音が聞こえ、体が上下に微かに動いている。それだけが、優が生きていることを証明していた。
緋那は毎日病院に通い、優に話しかけた。聴覚が最後まで機能しているなら、少しでも優に寂しい思いをさせないようにと学校での出来事や来るときに見た街の様子をただただ独り言のように話す。そんな日々が続いた。
気付くと終業式も終わり、春休みに入る。それでも緋那の午後は優の見舞いに行くと決まっていた。
そして、3月31日。
緋那はいつも通り、病室でパイプ椅子に座り優に一方的に話しかけていた。優の病室を歩き回ることもせず、定位置となったパイプ椅子に腰掛けていると不意に、キャビネットに置いてある2冊のノートに気付く。
優が大事にしていたノートだ。
緋那は少し、魔が差した。勝手に見たら怒られるだろうなと思いながらも気になってしまい、椅子から立ち上がりキャビネットの前まで移動すると少し分厚く膨れているノートの方を手に取る。
「優、悪い」
緋那は、寝ている優に謝罪をしてノートを開いた。まず最初に飛び込んできたのは、実際に作成をしているところを一緒に見たインスタントカメラで撮影した写真が大量に貼られているページだった。白い余白には名前と優との関係が小さく書かれていた。
「――っ」
じっくりと見ようとして緋那は息をのむ。全身が震えるのが分かった。
貼られている写真の中で何枚かはまるで強調するように赤丸が入っていた。優の両親と主治医、よく病室に来ると笑っていた担当看護師、そして緋那の5人だ。
写真は何度もなぞりながら確認した形跡があり、四隅が少し剥がれかけている。
そして、ノートのわずかな余白に赤文字で大きく書かれた一文に緋那は打ちひしがれるしかなかった。
忘れたら、駄目な人!
優の字で確かにそう書かれていた。そして、直感で思った。
これは、優の記録であり、記憶だ。
ノートを大切に持ち直して、緋那は考える。
このノートをこれ以上見ると言うことは、優の頭の中を覗くのと同じことではないかと、葛藤する。
それでも緋那は、優が何を考えていたか知りたかった。
だから、心の中でもう一度謝罪をすると次のページをめくった。
2ページ目写真で埋め尽くされており、その中に優と優花のツーショットの写真もある。看護師や見舞いに来た人、果てには散歩で知り合ったという他室の入院患者までバリエーションに富んでいた。
変わらないなと緋那は優の親交の広さに感嘆する。
そして、次のページを開いてノートを落としそうになる。
『私は、記憶を失くす! これは比喩でもなく事実だ』
デカデカと書かれた文字は、緋那も既に知っていた。しかし、その下に続く文章が堪えた。
記憶を無くすから、ノートに記録を残して明日の自分に引き継ぎ、そして優を演じて。
要約するとそんなことが書かれていた。この段階で、優は記憶の欠落という一人じゃ到底抱えきれない問題を一人で背負うと決めていたのかと、毎日通っていて気付けなかった自分を恨んだ。
緋那はページをまためくる。
最初の方はあった出来事や話した内容が要約されて記されていた。頭の良さをこんなところで発揮するなよと、緋那は息を吐く。
しかし、徐々に書き方が変わる。あった出来事を箇条書きで書かれることが増えてきた。そして、体の自由が効かないときがあると、自分に注意喚起をしている文章すら出てきた。
どうして医者に相談しなかったのか、どうして一人で抱えこもうとしたのか、そんなに自分では頼りないと思われていたのか?と緋那は泣きたい気分だった。
もはや指先が震える感情の理由すら緋那には分からない。それでも、緋那はページをめくった。
徐々に体に力が上手く入らなくなってきたのだろう、筆跡が薄く、綺麗な優の字が崩れだしてきた。
それでも書かれている内容は、今までの出来事だ。
1冊目のノートが終わった。緋那はためらわずに1冊目を戻すと2冊目に手を伸ばして、ノートを開き、優の記録のような日記を読み進める。
ページをめくる。
『ひなた以外に、バレちゃった』
ゴキュリとその文字を読んだ瞬間に緋那は息をのんだ。時間が止まったようにすら感じる。そのページにはへまをして看護師から医師、両親に記憶がないことがバレてしまったと震える文字で書かれていた。
また、ページをめくる。
『記憶のこと、ひなたに言わないといけないのはわかってる。でも、言えなかった。未来の私に託すね、ごめんね』
緋那は言葉すら失う。自分がわずかな違和感を覚えながらも、大丈夫だと目をそらし続けていた際も、優は戦っていた。その事実が緋那の胸を刺す。
何も出来なかった絶望感が緋那の心を支配する。
もっと早くに違和感を見ないふりをするのをやめていたら、何かが変わっていたかもしれない。その事実がどうしようもなく緋那を苦しめた。
しかし、緋那の手はまるで意思を持っているかのように脳の反応を無視して、規則的にページをめくる。
『忘れたくないよ』
『怖いよ、私は、誰? 私なの?』
ノート一面に大きく震える字で書かれていた言葉達に今度こそ、緋那は動くことが出来なくなった。
ページのあちこちは滲んでおり、涙をこぼしながら書いたのだと予測がつく。
優はきちんと記憶の欠落を怖がっていた。それでも周りに心配をかけないように普通のフリを続けていた。
このページはその事実をありありと伝えていた。
そして、以降のページは真っ白で何も書かれていない。このページで優の記録は終わっていた。
「なんで、言ってくれなかったんだよ。......優」
緋那は涙腺が壊れかけているのを必死で押さえ込む。泣く権利は自分にはないと言い聞かせる。優が苦しんでいたときに、のんきに変わらないなと思っていた事実が、親友の苦しみに気付けなかった自分が許せない。
緋那は2冊目のノートもキャビネットに戻す。
そして、上を向いてこぼれそうになる涙を堪えた。
少しして、涙腺が落ち着いたのを確認してからパイプ椅子へと戻る。
優には楽しい話が似合う。過去の記憶のことに触れる必要はない。
後悔を抱えながら、緋那は面会時間ギリギリまで、楽しく明るい話題を努めて優に聞かせ続けた。
「また明日」と優に伝え、病院を出た緋那は、人通りの少ない路地まで来ると、壁に背中を預けて上を見上げる。
上を見ていないと涙がこぼれそうな気がして仕方がなかった。
「優の苦しみが分かった、だから明日からはさらに優に楽しい話を聞かせよう。寝ているのが勿体ないって起きるような話を」
しばらくそうしてから、緋那は家路についた。その後ろ姿を赤い目をした黒猫がただ、見つめていた。