第51話 返事のない会話
3月になっても変わらずに緋那は足繁く優の病院に通った。3月に入ってから、偶然なのか病院の近くで黒猫を見る機会が増えた。視線を感じて、緋那が見ると赤い瞳と目が合うことも2日に1回の感覚である。
優の状況は横ばいだ。緩やかに悪化し、良くなる気配はない。
3月も半ばに入ろうとした頃、また優の状況は悪化したそうだ。昨日見舞いに行く予定が、優の母親より体調が悪いから面会は中止と連絡が来た。
そして、今日の午前中に体調は安定したが、昨日から酸素マスクを装着しており、自発呼吸が困難な様子になっていると連絡があった。
医師から覚悟を決めた方がいいと宣告もされていると、優の母親は声を震わせながら教えてくれたのだ。緋那は言葉を失った。
優の母親は、まだ意識があるうちに会ってあげて欲しい。記憶を無くしても優が緋那のことを好きだった事実は変わらないと思うからと。
そして、毎日のお見舞いも苦しくなるならやめていいからねと涙ぐみながら言い終わると返事も待たずに切れてしまった。
電話が切れたことに緋那は安堵した。かける言葉が見つからない以上にショックで声が出なかったのだ。
優の死期が迫っている。それをはっきりと伝えられたのだ。何も思わないのは無理だ。
スマホを持つ手はカタカタと震える。指先は冷たく感じ、何故か聴覚が敏感になり、時計の針の動く音、リビングで誰かの歩いてる音が酷く耳に響いた。
「......」
緋那は言葉を忘れたかのように何も言えない。そして、どこか既視感を覚えた。同じように優の母から電話をもらって絶望に支配されたことがあったのではないか、と。
必死に思い出そうとするも、思い出せない。ただ、この瞬間が夢であればいいのにと何度も思ってしまう。
それでも緋那は優のお見舞いに行くことを選んだ。面会が禁止だと言われるまでは毎日行こうと心に決める。
実際に会ったら覚悟が鈍るかもしれない、それでも優に会うのをやめるという選択肢はきっと出ないだろう。
だから、緋那は今までと違う微かな緊張感を持って病院に来ていた。
病室は個室ということもあり、変更はないだろうと寄ったナースステーションで看護師に言われ、内心ホッとしながら行き慣れた院内を歩く。
すぐに優の病室に辿り着いた。控えめに、ノックをする。
数秒たってから、ゆっくりと病室の扉に手をかける。無意識にゴクリと唾を飲み込む、緊張で扉にかかる指は微かに震えて止まらない。
一度深呼吸をして、覚悟を決めて扉を開いた。
室内に入ると、緋那は無意識に息をのんだ。
覚悟はしていた。しかし、実際に酸素マスクをつけて、指や体から機械やコード伸びている。
優が入院した最初の方に似たような状況は見た。でもその時はまだ優は動けていた。しかし、今は顔を上に向けた状態で瞳だけを緋那に向けている。
緋那は一度拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む痛みが、これが現実だと嫌というほど伝える。すぐに拳を開き、ゆっくりと優に近付く。
「こんにちは、優」
緋那はとりあえず、挨拶をする。優の返事はない。ただ、こくりと少しだけ首を動かした。
「声は聞こえているみたいで、ホッとしたよ。初めまして、俺は緋那ってんだ。優の友達。少し話しても大丈夫か?」
震えそうになる声を必死に押さえて緋那は尋ねる。優はまた小さく首を動かしながら瞬きをした。
それを了承と受け取った緋那は、今日あった出来事や優との思い出話を語る。優は嬉しそうに、時々瞬きで返事をしながら聞いていた。
今までは優が話すのを緋那が聞いていた。しかし、今日は逆で緋那の話を優が聞いている。その事実が緋那には溜まらなく堪えた。
昔、人の聴覚は最後まで機能していると聞いたことがある。たとえ、明日には優が忘れるとしても、毎日話をしよう。それが緋那が最後まで優にしてやれることだと、直感した。
窓の外はすでに日が落ちかけている。面会の時間は終わりだ。緋那の話し声以外は、微かな優の息づかいと規則的な機械音だけが支配する病室に優だけを残していくことに少しだけ、罪悪感を覚える。帰る前にもう一度外を眺めると、優の病室の前にある木の枝から赤い目をした黒猫が優を見つめていることに気付く。
また猫だ。
緋那は思わず、呟きそうになる。なんとか声を出さずに口内で言葉を消した。
最近よくみる猫が今は、優を見ている。それがなぜだかとても気になった。黒猫は意思をもって、緋那や優の周りに現れているのではないかと。
不意に緋那は思い出した。以前、優が黒猫を助けて4月1日に交通事故に遭った悪夢を緋那だけでなく優も同じ内容の夢を見ていたという事実を。
その夢と関係あるのか? ゴクリと緋那の喉がなる。
視線を感じて、ベッドの方を見ると優が心配そうに緋那を見上げていた。
しまったと緋那は、我に返った。優を不安にさせないつもりが、これではだめだと無理矢理笑顔を作った。
「ごめん、猫がここまで木に登れるんだと思ったらびっくりしてさ」
優の視線が緋那から、窓に映る。そして、猫を見ると微かに表情が緩んだ。
その様子に、緋那はホッと胸をなで下ろす。
そして、優にもう一度挨拶をすると、病室をあとにした。
それから何日も緋那が一方的に話す日々が続いた。元来、人が好きな優は話に耳を傾けながらも表情は柔らかい。
言葉は返ってこなくても、反応が返ってくるだけで緋那は幸せを感じられるようになってきていた。
しかし、その時間はすぐに終わることとなる。
緋那が再び通い出した、1週間後にとうとう優は意識を保つことすら出来なくなったのだ。