ホーム歴史の静寂〜百五十年目の微笑〜第三話:冷たい土の胎内
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第三話:冷たい土の胎内

 月の光もない、息が詰まるような真っ黒な夜だった。
 慈雲じうん観音かんのん像を、何度も何度も丁寧に厚い木綿の布で包んだ。ひんやりとした木の肌触り、長年燻いぶされた香の匂い。布越しにも、観音像の微かな冷たさが掌に伝わってくる。
 亡骸なきがらを清める時のような、厳粛げんしゅくな気持ちだった。
 生あるものを葬るのでなく、二百年の祈りそのものを土へ還す行いだった。

 二人は村外れの弥助やすけの畑へ向かった。秋の湿った土の匂いが鼻を突く。
 畑の隅、大きな柿の木の根元に着いた。柿の葉がザワザワと風に揺れる音だけが響いている。
 弥助が鍬を手に、土を掘り始めた。「ザクッ、ザクッ」と、鍬が土を砕く規則正しい音が、まるで慈雲自身の心臓を抉る音のように響く。湿った土の匂いに混じって、近くの畑で肥やしが腐る酸っぱい匂いがした。
 やがて、深さ三尺ほどの穴ができた。弥助が木箱を穴の底に、そっと、まるで産湯を使ったばかりの赤子を寝かせるように置く。

 慈雲は穴の前に座り、手を合わせた。土の冷たさが膝から伝わってくる。
「観音さま。しばらくの間、この土の中でお待ちください。必ず、また日の光を浴びる日が来ます」
 声が震え、涙が熱い筋となって頬を伝った。
 弥助が静かに土をかけ始めた。柔らかい土が、木箱を覆い隠してゆく。
和尚おしょうどん。いっか、また」
 二人は振り返らずに畑を後にした。柿の木が、暗闇の中に一つの大きな影となって立っている。その根元に、未来への希望が眠っている。

 その夜、慈雲は一人、本堂に座していた。
 昼間の喧騒けんそうが嘘のように、堂内どうないには死んだような静寂が満ちている。月明かりはなく、闇がすべてを等しく塗りつぶしていた。蝋燭ろうそくの心もとない炎が、阿弥陀如来あみだにょらい像の顔に揺らめく陰影を落とし、その穏やかな微笑みは、まるで慈雲の絶望を嘲笑っているかのようにも、あるいは共に悲しんでいるかのようにも見えた。
 畳のささくれが、擦り切れた衣を通して膝に食い込む。古びた井草と、長年焚きしめてきた香の匂い、そして微かに漂う埃の匂いが混じり合い、鼻をついた。それは、父からこの寺を受け継いで以来、慈雲のすべてであった匂いだった。明日にはもう、この匂いを嗅ぐこともできなくなる。
 彼は、何も語らなかった。
 問い詰める言葉は、三日前に言い尽くした。怒りも、嘆きも、今は乾ききった川底のように、心の奥にひび割れてこびりついている。
 ただ、じっと仏を見つめる。
 二百年以上、この村の生と死を見守り続けてきた存在。父が、祖父が、そのまた父が、毎日欠かさず埃を払い、手を合わせ、祈りを捧げてきた存在。その祈りの積み重ねが、この像の木の肌に、金箔の輝きに、染み込んでいるはずだった。
(何故、あなたはこれほどまでに無力なのか)
 声にはならない問いが、腹の底で渦を巻く。
 だが、次の瞬間、別の問いが浮かぶ。
(いや、無力なのは、あなたではなく、私なのか)
 二百年の祈りを守れない自分。藩命に逆らえない自分。
 仏が無力なのではない。仏に頼る自分が、無力なのだ。
 薩摩さつまでは、藩命は神の言葉に等しい。逆らえば、一向宗いっこうしゅうの信徒たちがそうであったように、根絶やしにされる。その恐怖が、人々の骨の髄まで染み込んでいることを、慈雲は知っていた。檀家だんかたちの恐怖も、源蔵げんぞうの冷たい合理性も、理解はできた。だが、理解できることと、受け入れられることは全く違う。
 蝋燭ろうそくの炎がパチリと消え、如来にょらい像の目が濡れたように光った気がした。
 慈雲は立ち上がり、てのひらを木肌に触れた。冷たさが血の奥へと染みる。
「......父上、申し訳ありませぬ」
 声は闇に吸い込まれる。額を膝に押し当てると、幾代もの祈りが胸に迫った。涙は出ず、遠く夜風の音だけが、消えゆくものへの挽歌となった。
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歴史の静寂〜百五十年目の微笑〜作者:須藤
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 月の光もない、息が詰まるような真っ黒な夜だった。
 慈雲じうん観音かんのん像を、何度も何度も丁寧に厚い木綿の布で包んだ。ひんやりとした木の肌触り、長年燻いぶされた香の匂い。布越しにも、観音像の微かな冷たさが掌に伝わってくる。
 亡骸なきがらを清める時のような、厳粛げんしゅくな気持ちだった。
 生あるものを葬るのでなく、二百年の祈りそのものを土へ還す行いだった。

 二人は村外れの弥助やすけの畑へ向かった。秋の湿った土の匂いが鼻を突く。
 畑の隅、大きな柿の木の根元に着いた。柿の葉がザワザワと風に揺れる音だけが響いている。
 弥助が鍬を手に、土を掘り始めた。「ザクッ、ザクッ」と、鍬が土を砕く規則正しい音が、まるで慈雲自身の心臓を抉る音のように響く。湿った土の匂いに混じって、近くの畑で肥やしが腐る酸っぱい匂いがした。
 やがて、深さ三尺ほどの穴ができた。弥助が木箱を穴の底に、そっと、まるで産湯を使ったばかりの赤子を寝かせるように置く。

 慈雲は穴の前に座り、手を合わせた。土の冷たさが膝から伝わってくる。
「観音さま。しばらくの間、この土の中でお待ちください。必ず、また日の光を浴びる日が来ます」
 声が震え、涙が熱い筋となって頬を伝った。
 弥助が静かに土をかけ始めた。柔らかい土が、木箱を覆い隠してゆく。
和尚おしょうどん。いっか、また」
 二人は振り返らずに畑を後にした。柿の木が、暗闇の中に一つの大きな影となって立っている。その根元に、未来への希望が眠っている。

 その夜、慈雲は一人、本堂に座していた。
 昼間の喧騒けんそうが嘘のように、堂内どうないには死んだような静寂が満ちている。月明かりはなく、闇がすべてを等しく塗りつぶしていた。蝋燭ろうそくの心もとない炎が、阿弥陀如来あみだにょらい像の顔に揺らめく陰影を落とし、その穏やかな微笑みは、まるで慈雲の絶望を嘲笑っているかのようにも、あるいは共に悲しんでいるかのようにも見えた。
 畳のささくれが、擦り切れた衣を通して膝に食い込む。古びた井草と、長年焚きしめてきた香の匂い、そして微かに漂う埃の匂いが混じり合い、鼻をついた。それは、父からこの寺を受け継いで以来、慈雲のすべてであった匂いだった。明日にはもう、この匂いを嗅ぐこともできなくなる。
 彼は、何も語らなかった。
 問い詰める言葉は、三日前に言い尽くした。怒りも、嘆きも、今は乾ききった川底のように、心の奥にひび割れてこびりついている。
 ただ、じっと仏を見つめる。
 二百年以上、この村の生と死を見守り続けてきた存在。父が、祖父が、そのまた父が、毎日欠かさず埃を払い、手を合わせ、祈りを捧げてきた存在。その祈りの積み重ねが、この像の木の肌に、金箔の輝きに、染み込んでいるはずだった。
(何故、あなたはこれほどまでに無力なのか)
 声にはならない問いが、腹の底で渦を巻く。
 だが、次の瞬間、別の問いが浮かぶ。
(いや、無力なのは、あなたではなく、私なのか)
 二百年の祈りを守れない自分。藩命に逆らえない自分。
 仏が無力なのではない。仏に頼る自分が、無力なのだ。
 薩摩さつまでは、藩命は神の言葉に等しい。逆らえば、一向宗いっこうしゅうの信徒たちがそうであったように、根絶やしにされる。その恐怖が、人々の骨の髄まで染み込んでいることを、慈雲は知っていた。檀家だんかたちの恐怖も、源蔵げんぞうの冷たい合理性も、理解はできた。だが、理解できることと、受け入れられることは全く違う。
 蝋燭ろうそくの炎がパチリと消え、如来にょらい像の目が濡れたように光った気がした。
 慈雲は立ち上がり、てのひらを木肌に触れた。冷たさが血の奥へと染みる。
「......父上、申し訳ありませぬ」
 声は闇に吸い込まれる。額を膝に押し当てると、幾代もの祈りが胸に迫った。涙は出ず、遠く夜風の音だけが、消えゆくものへの挽歌となった。
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