世界最高峰の壁! ロンシャン、緑の地獄の洗礼
第31話:世界最高峰の壁! ロンシャン、緑の地獄の洗礼
二〇五一年、十月。フランス、パリ。
ブローニュの森に抱かれた、からくり競馬の聖地――ロンシャン・サーキット。
秋の柔らかな陽光とは裏腹に、コースに足を踏み入れた西 守(にし・まもる)は、その重圧に息を呑んだ。
日本の芝とは色が違う。匂いが違う。そして何より、足の裏から伝わる「深さ」が、全く別物だった。
「......これが、ロンシャン。ミルコが言っていた『緑の地獄』か」
守は、ウラヌスⅡの足元を見つめた。広島から運び込まれた黒鉄の巨体。そこには、ジャパンカップの敗北を受けて凛が不眠不休で仕上げた、鋭い超硬合金のスパイクを備えた重圧ユニット(ヘビー・プレス)が装着されている。
「驚いた? 守。ここの土は粘土質で、一度足を取られれば油圧システムごと飲み込まれるわ。日本の精密な高速機体たちがここで次々とスクラップになって消えていった理由......。この粘りつくような死の感触が、それよ」
凛(りん)が、端末の警告音を睨みながら呟く。周囲のピットからは、世界中から集まったエリート機たちの不気味な駆動音が響いていた。
イギリスの伝統、ドイツの剛健、そして地元フランスの矜持。どれもがウラヌスⅡのような継ぎ接ぎの執念ではない。国家予算級の資金と最高峰の理論が産んだ、美しき「神の工芸品」たちだ。
その時、ピットの入り口に、一機の「黄金」と「ロイヤルブルー」の機体が姿を現した。
「――おや。これが、極東の掃き溜めから来たという『ガラクタの怪物』かい?」
優雅な、だが底冷えするような声。そこにいたのは、イギリスの至宝、エドワード・ハミルトン卿。彼の愛機は、伝説のスタミナ馬をモデルにした《キング・アーサー》。
全身を金色の防錆コーティングで覆い、四肢はロンシャンの深芝を叩き潰すための巨大な油圧ピストンへと換装されている。
「......ミルコを追い詰めたというから、どんな芸術品かと思えば。ただの重機じゃないか。ここが戦場ではなく、サーキットであることを忘れたのかい?」
エドワードが鼻で笑う。彼の背後には、ドイツの精密工学の結晶、アイルランドの荒波を越えてきた《ケルティック・サンダー》など、凱旋門賞の有力候補たちが顔を揃えていた。
「重機で結構だ。あんたたちの綺麗な工芸品がその重い泥に足を取られて喘いでいる横を、俺たちはこの鉄の爪で大地を粉砕して進むだけだからな」
守は、エドワードの視線を真っ向から跳ね返した。言葉は通じずとも、ジョッキー同士の殺気が秋のパリの空気をピリつかせる。
守はウラヌスⅡに乗り込み、初めてロンシャンのターフへと足を踏み入れた。
一歩、踏み出す。
ズブッ、と足首まで芝が沈み込み、吸い付くような土の感触が機体全体を揺さぶる。
「――っ、重い! 駆動効率、四〇パーセント以下だと!?」
メインコンソールに表示される真っ赤な警告ログ。ハイセイコー型エンジンが、未知の過負荷に耐えかねて呻きのような異音を上げ始める。日本の三冠馬、春の盾の王者が、たった一歩の歩行にさえ悲鳴を上げる。これが、世界の壁だ。
「守、無理に回さないで! 今の負荷で全開にしたら、シリンダーが内側から弾け飛ぶわ!」
凛の悲鳴が無線に飛ぶ。だが、守はレバーを離さなかった。歯を食いしばり、ウラヌスⅡと同調コードを深く、深く沈めていく。
(......分かってる。ここの芝は、走る場所じゃない。......『格闘』する相手なんだ!)
守は、新開発の重圧ユニットの出力を、敢えて最大(オーバーロード)に設定した。効率など知ったことか。芝を噛み、土を爆破するように蹴り上げる!
ドゴォォォンッ!!
ロンシャンの聖なる土が、黒い塊となって高く舞い上がった! 重圧ユニットが芝を粉砕し、強引に道を作る。スマートさの欠片もない、暴力的な歩進!
その荒々しい試走を、遠く離れたピットの屋上から見つめる影があった。ミルコ・スミス。彼の《ホワイトヴァルキリー》は、既にロンシャンの風に馴染み、白銀の翼を静かに休めていた。
「――来たね、守。君がその泥臭い地力で、この気高いロンシャンの芝をどう汚してくれるのか......。僕は楽しみで仕方がないよ」
守のウラヌスⅡが排気口から吐き出す、真っ黒な煙。それが、パリの澄んだ空を汚していく。それは、世界中のエリートたちへの、泥にまみれた宣戦布告だった。
「......見てろよ、世界。ガラクタが、凱旋門を力ずくでこじ開けてやる!」