コールドプレス
マッチングアプリの画面にある黒髪ロングヘアの女性の写真をみつめた。
私が女性同性愛者ということを知っている唯一の友人から「君なら、この人と合うと思う」と、勧められたのだった。
ネットでの出会いに興味がなかったが、見せられた女性の写真は凛としていて、目が離せなかった。
プロフィールはシンプルにまとめられていた。
ヴィーガン、趣味は森林浴と書かれているだけだった。余計な説明はなく、書かれていない余白が彼女そのもののように思えた。
試しに連絡を取ると、返事はすぐに来た。短いが、途中で途切れることはない。
「こんにちは」
「こんにちは。初めまして、加奈子です」
「写真を見て惹かれて、連絡しました」
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは嬉しいです。ただ、すぐに会うことは考えていません。やり取りを重ねて、違和感がなければ、そのときにお願いします」
「わかりました。まずはメールできたら嬉しいです」
「はい。無理のない範囲で続けられればと思います」
断るときも、そこで終わらない。拒否と代替提示が同時に来るタイプの言葉選びだった。
やり取りは淡々としているのに、不思議と行き止まりにならなかった。
こちらが差し出したものをそのまま受け取ることはないが、別の形に置き換えて返してくる。
その繰り返しで、会話だけが、少しずつ続いていく。
受け入れるものと、そうでないものが、最初から分けられているようだ。
やがて、やり取りの内容よりも、その返し方のほうに意識が向くようになった。拒むことと、残すことが、同じ文の中に収まっている。その整い方が、どこか印象に残る。
メールでのやり取りが半年ほど続いた。
最初は、天気や見かけた花の話。
桜が散ったこと。ゴールデンウィークでどこに行っても人が多くて困ったこと。
汗ばむ季節が早くなったこと。紫陽花を見るために寺院に行ったこと。
加奈子は夏が苦手だと言うこと。紫外線と暑さ対策の話をしながら、猛暑が過ぎるのを待った。
暑さが和らいできた頃、加奈子と会うことができた。
加奈子は食べられるものが限られるため、加奈子に選んでもらったカフェで会おうということになった。
駅の近くにある白が基調のカフェで待ち合わせた。いった事がない場所であったが、すぐにわかった。小さな音でRadioheadが流れる。“Subterranean Homesick Alien”の浮遊感と少しの異世界感の中で待っていると、加奈子は時間通りに現れ、静かに席に着いた。
白いシャツワンピースに透き通るような肌が重なり、黒髪は後ろできっちりと結ばれ、光を吸い込むかのように艶やかで、輪郭を一層くっきりと際立たせていた。肩先にかかる髪の束が微かに揺れるたび、静かでありながら凛とした存在感が漂っていた。
彼女は指先を丁寧に拭い、それからグラスの縁に目を落とし、わずかに顔の角度を変えながら、同じところを繰り返し確かめていた。
触れる前に確かめる、という順序が崩れないまま続き、その動きには長年蓄積された地層のように見えた。
「ヴィーガンで重度の潔癖症......めんどくさい女でしょ? 」
加奈子は自虐的に小さく笑った。
お互いに軽く挨拶を交わした後、私は珈琲を、加奈子は水を頼んでいた。
彼女がヴィーガンであることはプロフィールで知っていたが、その彼女が食肉処理に関わる仕事に就いているという事実は、互いに背反しているようにしか見えず、理解が追いつかない。一瞬、反応が遅れ、結局は曖昧に頷くしかなかった。
彼女の手元に目がいき、短く整えられた爪や、指先にわずかに残る色の沈み方が妙に気にかかったが、それが何によるものか確かめる術もなく、時間が過ぎた。
加奈子は、テーブルの上のコップには最後まで手を触れず、近づけることすら避けているように、必要以上に距離を保ったまま一度も視線を落とさなかった。
その存在自体を初めから排除しているような振る舞いが、不自然なほど徹底されていた。
矛盾している、と思った。
だが彼女は、その矛盾を説明しようとも、隠そうともしない。淡々と、線を引くように、自分の領域を守りながら生きている。それでも、視線が交わるたびに、加奈子の存在は静かにこちらの世界へ入り込んでくる。
初対面であるはずなのに、私にはその境界が曖昧に映り、硬さを保っていた内側が、知らぬ間にゆるんでいく。
聞こえてくる”How to Disappear Completely”の繰り返す浮遊感が、私の輪郭をわずかに希薄にしていた。
私はヴィーガンについて調べてあらかじめ調べていたものの、動物由来を避ける理由、思想や信条、あるいは習慣としての選択。けれど、どれも彼女には当てはまらない気がした。そんなものに当てはまらない。加奈子は、説明の中には収まらない。そんな枠に収まらない加奈子の境界の曖昧さに釘付けになった。
「彼らみたいになりたいの」
ヴィーガンとして生きる理由として、加奈子はそう言っていた。
彼らとは何を指しているのか、わからず私は曖昧な返事をしてしまったことを覚えている。
一度会ってから、私たちは少しずつ会う頻度を増やしていった。
もっと知りたい。加奈子に会いたい。
彼女と過ごす時間が重なるほど、私はその矛盾や制約さえも、ひとつの魅力として受け入れていくようになっていた。
私は小さな会計事務所で事務員として働いている。帳簿の数字を確認し、伝票を仕分け、入力された金額に誤差がないかを照合する。すべては規則に従い、決められた形式の中で処理されていく。
仕事の合間を見つけては彼女に連絡をし、休日があれば彼女に会いに行く。
画面に並ぶ数値は常に整合を求められるのに、私の内側では、加奈子に触れるたびに何かがずれていく。そのわずかな逸脱が、むしろ心地よく感じられた。
それほどに加奈子は魅力的だった。
ベジタリアンの調理法を徹底的に調べ、家で得意な料理を振る舞った。だが、加奈子を家に招くためには、料理の腕前だけでは不十分だった。重度の潔癖症を持つ彼女が安心して過ごせるように、家中を細部まで確認し、床や棚、机の角まで埃や髪の毛を念入りに拭き取り、台所の調理器具や食器は使う直前に蒸気で消毒した。
まな板や包丁は野菜用とそれ以外で厳格に分け、ダイニングや洗面所まで、加奈子が触れるかもしれない場所は隅々まで整えた。換気や空気の流れ、微かな匂いにも注意を払い、いつもよりも整えられた空間で彼女を迎えた。
それでも、料理を振る舞う時間は喜びに変わる。彼女と一緒なら、野菜と穀物だけの食事も素晴らしく美味しく感じられた。私にとって、加奈子の声がスパイスのようだった。抑揚のない話し方をするのに、確信をつく。そんな加奈子のためなら、食事の制限や掃除の手間さえも苦にならなかった。
「気を使わなくても良いのよ。たまにはお肉も食べたいんじゃない? 」
その言うたびに、加奈子が抱える孤独や不自由を目の当たりにした。ヴィーガンであることや潔癖症を面倒だと思う友人が少しずつ離れていく話や、職場で浮いてしまう話を聞くたびに、加奈子は友人の目にも、職場の喧騒にも触れず、私だけの世界にいるように思えた。
加奈子を独占している。私は体の奥から震えるほどの喜びを覚えていた。
マッチングアプリの画面にある黒髪ロングヘアの女性の写真をみつめた。
私が女性同性愛者ということを知っている唯一の友人から「君なら、この人と合うと思う」と、勧められたのだった。
ネットでの出会いに興味がなかったが、見せられた女性の写真は凛としていて、目が離せなかった。
プロフィールはシンプルにまとめられていた。
ヴィーガン、趣味は森林浴と書かれているだけだった。余計な説明はなく、書かれていない余白が彼女そのもののように思えた。
試しに連絡を取ると、返事はすぐに来た。短いが、途中で途切れることはない。
「こんにちは」
「こんにちは。初めまして、加奈子です」
「写真を見て惹かれて、連絡しました」
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは嬉しいです。ただ、すぐに会うことは考えていません。やり取りを重ねて、違和感がなければ、そのときにお願いします」
「わかりました。まずはメールできたら嬉しいです」
「はい。無理のない範囲で続けられればと思います」
断るときも、そこで終わらない。拒否と代替提示が同時に来るタイプの言葉選びだった。
やり取りは淡々としているのに、不思議と行き止まりにならなかった。
こちらが差し出したものをそのまま受け取ることはないが、別の形に置き換えて返してくる。
その繰り返しで、会話だけが、少しずつ続いていく。
受け入れるものと、そうでないものが、最初から分けられているようだ。
やがて、やり取りの内容よりも、その返し方のほうに意識が向くようになった。拒むことと、残すことが、同じ文の中に収まっている。その整い方が、どこか印象に残る。
メールでのやり取りが半年ほど続いた。
最初は、天気や見かけた花の話。
桜が散ったこと。ゴールデンウィークでどこに行っても人が多くて困ったこと。
汗ばむ季節が早くなったこと。紫陽花を見るために寺院に行ったこと。
加奈子は夏が苦手だと言うこと。紫外線と暑さ対策の話をしながら、猛暑が過ぎるのを待った。
暑さが和らいできた頃、加奈子と会うことができた。
加奈子は食べられるものが限られるため、加奈子に選んでもらったカフェで会おうということになった。
駅の近くにある白が基調のカフェで待ち合わせた。いった事がない場所であったが、すぐにわかった。小さな音でRadioheadが流れる。“Subterranean Homesick Alien”の浮遊感と少しの異世界感の中で待っていると、加奈子は時間通りに現れ、静かに席に着いた。
白いシャツワンピースに透き通るような肌が重なり、黒髪は後ろできっちりと結ばれ、光を吸い込むかのように艶やかで、輪郭を一層くっきりと際立たせていた。肩先にかかる髪の束が微かに揺れるたび、静かでありながら凛とした存在感が漂っていた。
彼女は指先を丁寧に拭い、それからグラスの縁に目を落とし、わずかに顔の角度を変えながら、同じところを繰り返し確かめていた。
触れる前に確かめる、という順序が崩れないまま続き、その動きには長年蓄積された地層のように見えた。
「ヴィーガンで重度の潔癖症......めんどくさい女でしょ? 」
加奈子は自虐的に小さく笑った。
お互いに軽く挨拶を交わした後、私は珈琲を、加奈子は水を頼んでいた。
彼女がヴィーガンであることはプロフィールで知っていたが、その彼女が食肉処理に関わる仕事に就いているという事実は、互いに背反しているようにしか見えず、理解が追いつかない。一瞬、反応が遅れ、結局は曖昧に頷くしかなかった。
彼女の手元に目がいき、短く整えられた爪や、指先にわずかに残る色の沈み方が妙に気にかかったが、それが何によるものか確かめる術もなく、時間が過ぎた。
加奈子は、テーブルの上のコップには最後まで手を触れず、近づけることすら避けているように、必要以上に距離を保ったまま一度も視線を落とさなかった。
その存在自体を初めから排除しているような振る舞いが、不自然なほど徹底されていた。
矛盾している、と思った。
だが彼女は、その矛盾を説明しようとも、隠そうともしない。淡々と、線を引くように、自分の領域を守りながら生きている。それでも、視線が交わるたびに、加奈子の存在は静かにこちらの世界へ入り込んでくる。
初対面であるはずなのに、私にはその境界が曖昧に映り、硬さを保っていた内側が、知らぬ間にゆるんでいく。
聞こえてくる”How to Disappear Completely”の繰り返す浮遊感が、私の輪郭をわずかに希薄にしていた。
私はヴィーガンについて調べてあらかじめ調べていたものの、動物由来を避ける理由、思想や信条、あるいは習慣としての選択。けれど、どれも彼女には当てはまらない気がした。そんなものに当てはまらない。加奈子は、説明の中には収まらない。そんな枠に収まらない加奈子の境界の曖昧さに釘付けになった。
「彼らみたいになりたいの」
ヴィーガンとして生きる理由として、加奈子はそう言っていた。
彼らとは何を指しているのか、わからず私は曖昧な返事をしてしまったことを覚えている。
一度会ってから、私たちは少しずつ会う頻度を増やしていった。
もっと知りたい。加奈子に会いたい。
彼女と過ごす時間が重なるほど、私はその矛盾や制約さえも、ひとつの魅力として受け入れていくようになっていた。
私は小さな会計事務所で事務員として働いている。帳簿の数字を確認し、伝票を仕分け、入力された金額に誤差がないかを照合する。すべては規則に従い、決められた形式の中で処理されていく。
仕事の合間を見つけては彼女に連絡をし、休日があれば彼女に会いに行く。
画面に並ぶ数値は常に整合を求められるのに、私の内側では、加奈子に触れるたびに何かがずれていく。そのわずかな逸脱が、むしろ心地よく感じられた。
それほどに加奈子は魅力的だった。
ベジタリアンの調理法を徹底的に調べ、家で得意な料理を振る舞った。だが、加奈子を家に招くためには、料理の腕前だけでは不十分だった。重度の潔癖症を持つ彼女が安心して過ごせるように、家中を細部まで確認し、床や棚、机の角まで埃や髪の毛を念入りに拭き取り、台所の調理器具や食器は使う直前に蒸気で消毒した。
まな板や包丁は野菜用とそれ以外で厳格に分け、ダイニングや洗面所まで、加奈子が触れるかもしれない場所は隅々まで整えた。換気や空気の流れ、微かな匂いにも注意を払い、いつもよりも整えられた空間で彼女を迎えた。
それでも、料理を振る舞う時間は喜びに変わる。彼女と一緒なら、野菜と穀物だけの食事も素晴らしく美味しく感じられた。私にとって、加奈子の声がスパイスのようだった。抑揚のない話し方をするのに、確信をつく。そんな加奈子のためなら、食事の制限や掃除の手間さえも苦にならなかった。
「気を使わなくても良いのよ。たまにはお肉も食べたいんじゃない? 」
その言うたびに、加奈子が抱える孤独や不自由を目の当たりにした。ヴィーガンであることや潔癖症を面倒だと思う友人が少しずつ離れていく話や、職場で浮いてしまう話を聞くたびに、加奈子は友人の目にも、職場の喧騒にも触れず、私だけの世界にいるように思えた。
加奈子を独占している。私は体の奥から震えるほどの喜びを覚えていた。