第五話:差し伸べられた手と、見知らぬ名前
木々の隙間を吹き抜ける風が、生温かい血の匂いを遠くへと運んでいく。
二匹の小鬼を討ち果たした泥濘の現場から、逃げるようにして足を前に進め続けた。
急がなければならない。
あの腐敗した体液と内臓の臭気は、この深い森に潜むあらゆる獣や、他の小鬼の群れにとって、格好の撒き餌になる。一刻も早くあの場所から離れなければ、今度こそ完全に食い殺される。
だが、肉体はすでに限界を通り越していた。
「っ......、はぁ......っ、く......」
左の太腿に走る激痛が、一歩踏み出すたびに脳天を突き刺す。
骨の短槍で抉られた裂傷は、深さこそ数ミリ程度だったが、刃先に塗りたくられていた汚物や泥のせいで、傷口の周りが赤黒く腫れ上がっていた。脈打つような熱を持ち、嫌な痺れが膝から足首へとじわじわと広がっていく。
現代日本の清潔な世界であれば、すぐに流水で傷口を洗い流し、消毒液を吹き付け、破傷風のワクチンを打つところだ。だが、ここにはきれいな水すらない。
泥と返り血にまみれた革ズボンの上から、傷口を強く圧迫することしかできなかった。
両腕の筋肉も、石斧を受け止めた衝撃で引き千切れたように痛み、鉄剣の重みが鉛の塊のようにずっしりと肩にのしかかる。
刃の中央は幾重にも刃こぼれし、小鬼の頸椎を断ち割った際の脂がこびりついて、もはや剣というよりは無骨な鉄の棍棒に近かった。
それでも、手放せない。
指先が痙攣して柄の革巻きに張り付いたまま、自分は足を引きずり、傾斜を下り続けた。
どこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。
ただ、高いところから低いところへ。水が流れる方向へ、森の密度がわずかでも薄くなる方向へと、本能だけを頼りに木々の間を縫っていく。
足元の腐葉土が湿り気を帯び、靴底がズブズブと沈み込むたびに体力が削り取られていく。
立ち眩みが何度も視界を暗転させた。
胃袋は激しい飢えで痙攣し、喉の奥は完全に干からびて、呼吸をするだけで胸が焼けるように痛む。
(倒れたら......終わる......)
奥歯を噛み締め、血のにじむ唇を噛んで痛覚で意識を繋ぎ止めた。
もしここで意識を失えば、次に目を覚ますことはない。夜を待つまでもなく、昼間から活動する獣の餌になるだけだ。
帰るんだ。あのワンルームへ。
あんな暗い森の泥の中で、化け物に肉を食い千切られて終わるなんて絶対に嫌だ。
蛇口をひねれば冷たい水がいくらでも飲めて、誰にも怯えずに眠れる、あの平和な日常へ帰るんだ。
どれほどの時間を彷徨っただろうか。
太陽の光が森の天井を真上から照らし、木漏れ日の角度がわずかに西へと傾き始めた頃だった。
ふと、周囲の空気が変わった。
鼻腔を塞いでいた濃密なカビと腐葉土の悪臭が薄れ、代わりに乾いた土と、草の青臭い匂いが風に乗って運ばれてきた。
頭上を覆い尽くしていた巨大な樹冠の密度がまばらになり、降り注ぐ陽光の面積が広がっていく。
目の前に立ちふさがっていた鬱蒼とした下草と絡み合う蔦が途切れ、斜面の下方に、不自然なほど一直線に切り開かれた空間が見えた。
「あ......」
掠れた吐息が、乾いた喉から漏れ出た。
道だった。
舗装されたアスファルトではない。
土と砂利を何重にも踏み固めただけの、荒削りな土道。
だが、そこには明らかに「自然の森」には存在しない、人間の痕跡が刻まれていた。
深く抉れた二本の溝――荷車の車輪が何度も往来したことで出来上がった轍。道端に間引かれた雑草の跡。
街道だ。
人が通る道が、森の外縁を縫うようにして伸びていたのだ。
「で、出られた......っ」
全身の細胞が歓喜に震えた。
生き延びた。あの怪物が跳梁跋扈する緑の地獄を、自分は自力で抜け出したのだ。
自分は残された力を振り絞り、もつれる足で最後の傾斜を駆け下りた。
だが――緊張の糸が切れた瞬間、人間の肉体は驚くほど脆かった。
街道の平坦な砂利道に足を踏み入れた途端、膝の関節から完全に力が抜け落ちた。
踏ん張ることができない。
前のめりに倒れ込み、砂利混じりの土の上に胸から激突した。
――カラン、と。
指先から力が抜け、握り締め続けていた鉄剣が手元を離れて乾いた音を立てて転がった。
「が......っ、げほっ......!」
口の中に砂利と土の味が広がる。
起き上がろうと両手を地面についたが、腕の筋肉が痙攣し、身体を持ち上げることすらできない。
心臓が耳の奥で激しく鐘を打ち鳴らし、視界の端から黒い靄が急速に広がっていく。
脱水と飢え、そして太腿の毒と激痛。
極限の緊張によって麻痺させられていた疲労の濁流が、安全な場所に出た途端に一気に押し寄せ、意識を底なしの闇へと引きずり込もうとしていた。
(動け......っ、動いてくれ......!)
指先を這わせ、転がった鉄剣の柄に触れようとする。
街道に出たからといって、安全とは限らない。野盗がいるかもしれない。馬車に轢かれるかもしれない。
だが、泥まみれの指は鉛のように重く、わずかにピクピクと震えるだけで、数センチ先の柄にすら届かなかった。
視界が白く霞んでいく。
ここまで来て、力尽きるのか。
(嫌だ......っ)
胸の底から、血を吐くような思いが突き上げてきた。
日本の部屋に帰りたいんじゃない。あの温もりや安全に戻りたいんじゃない。
ただ――生きたい。
こんな砂利の上で、冷たい土を舐めたまま終わりたくない。
どれほど泥にまみれても、無様でもいい。息をして、立ち上がって、生きていたい。
あの退屈な日常の中で、死んでしまいたいとすら思っていた自分が――今はただ、生まれて初めて、魂の底から自らの「命」にしがみついていた。
その時だった。
――ザッ、ザッ、ザッ......!
街道の先から、砂利を蹴立てて駆けてくる、力強い足音が響いた。
四本足の獣ではない。硬い革の長靴が、規則正しく大地を踏みしめる二足歩行の音。
(誰か......来た......?)
敵か、味方か。
恐怖で心臓が跳ね上がる。必死で顔を上げようとしたが、首の筋肉が強張って持ち上がらない。
霞む視界の端に、土埃を巻き上げて接近してくる人影が映った。
革鎧に身を包み、腰に武器を帯びた、屈強な体躯の影。
逃げなければ。身を守らなければ。
そう命じる防衛本能とは裏腹に、身体は完全に動かない。
足音が、目の前で急停止した。
影が、泥まみれで倒れ伏す自分を見下ろし、息を呑む気配がした。
「――おい! 嘘だろ......!?」
太く、しゃがれた男の声が鼓膜を打った。
聞いたこともない言葉のはずだった。抑揚も、音の響きも、現代日本の日本語とはまるで異なっている。
それなのに――不思議なことに、その意味が頭の奥へダイレクトに流れ込んできた。
まるで、自分の母国語を聞いているかのように、相手の言葉が理解できた。
相手が砂利の上に膝をつき、倒れ込む自分の肩に力強い手を伸ばしてきた。
ごつごつとした硬い手のひら。
使い込まれた革の手袋の感触が、泥にまみれた麻のシャツ越しに熱を持って伝わってくる。
他人の体温だった。
怪物ではない。敵意を持った捕食者でもない。
人間が、自分に触れている。
「おい、しっかりしろ! 生きてるか!?」
荒々しく身体を抱き起こされ、背中を支えられる。
ぐらりと揺れた視界の中で、自分は必死に目を開いた。
そこにいたのは、無骨な男だった。
滲む視界の先、至近距離に迫る浅黒い顔面。額から頬を裂く古い刀傷と、びっしりと生えた無精髭。
肩を掴む腕には分厚い革鎧が巻かれ、砂埃と煙の焦げ臭い匂いが、鼻腔を強く刺激した。
男の険しい顔を見た瞬間、背筋に冷たい緊張が走った。
殺されるのか。それとも、身包みを剥がれるのか。
だが――男の瞳は、凶暴な光など宿していなかった。
砂塵に汚れたその双眸には、信じられないものを見たかのような激しい動揺と、痛々しいほどの歓喜が渦巻いていた。
男の視線が、こちらの顔を正面から捉えた、その瞬間。
男の目が、大きく見開かれた。
喉が引きつり、呼吸が止まったかのように口を半開きにする。
そして、胸の底から絞り出すような、震える叫びを上げた。
「――トール!!」
鼓膜を揺らす、切迫した大音声。
(え......? とおる......?)
朦朧とした頭の芯を、鋭い衝撃が貫いた。
自分の耳を疑った。なぜ、この見知らぬ男が自分の名前を知っているんだ?
だが、混乱する思考よりも早く、男はなりふり構わず両腕を伸ばし、泥と返り血で固まったこちらの身体を、骨が軋むほどの力で強く抱きしめた。
「トール......! よかった、本当によかった......っ! 生きてたのか、お前......!!」
男の太い腕が震えていた。
肩口に顔を埋める男の荒い吐息から、激しい安堵の感情が雪崩のように伝わってくる。
屈強な戦士の目から、大粒の涙が零れ落ち、汚れたシャツの上に染みを作っていった。
(違う......「とおる」じゃない。「トール」......?)
男の唇からこぼれる発音は、微妙に異なっていた。
自分の名と同じ響きを持ちながら、どこか硬く、異質な響き――。
「洞窟で伏兵に遭って、お前が殿を引き受けて分断された後......俺は、小鬼どもを撒いて外に出たが、戻るに戻れなくてよ......! あの巣穴が崩れて、もう駄目かと......! すまねぇ、俺がついていながら......お前を一人残して......っ!」
男は自責の念に声を詰まらせながら、泥まみれの顔を両手で挟み、傷だらけの頭部や身体を必死で確かめる。
その手つきには、長年背中を預け合ってきた相棒に対する、嘘偽りのない深い情愛と信頼が満ち溢れていた。
「待ってろ、今すぐ水を飲ませてやる。足もやられてるじゃねぇか......! クソッ、小鬼の毒槍か。よくここまで一人で戻ってきたな、相棒......!」
男は腰の清潔な水筒をもぎ取るように外し、こちらの乾ききった唇へと差し当ててくれた。
清らかな、冷たい水が喉へと流れ込んでくる。
泥の味などしない、澄み切った本物の水。
乾ききった内臓が、歓喜の悲鳴を上げながらそれを吸収していく。
助かったのだ。
目の前の人間は、自分を助けようとしてくれている。
安全な場所に辿り着き、水を与えられ、命を救われた。
だが――。
自分の精神は、安堵とは正反対の、底知れない冷たい深淵へと急速に沈み込んでいた。
――トール。
耳元で何度も繰り返された、その見知らぬ響き。
男は、自分をその「トール」という名の男だと信じ切って、涙を流している。
(違う......誰なんだ、それは......!?)
震える唇を動かそうとした。
人違いだ。俺はそんな人間じゃない。助けてくれたのはありがたいけれど、俺はあなたの知っている誰かじゃないんだと、必死に告げようとした。
「あ......、お......れ......は......っ」
だが、声が出ない。
頭の中で言葉を組み立てようとした瞬間、側頭部に焼けた鉄杭を打ち込まれたような、耐え難い激痛が走った。
激しい目眩に襲われ、舌が分厚い肉の塊のように麻痺して、喉仏が引きつるように痙攣する。
口から漏れたのは、言葉にならない掠れた呻き声だけだった。
「おい、トール!? 無理に喋るな!」
男が慌てて身体を支え直した。
その瞳に、さらなる焦燥と痛ましさが走る。
「頭を強く打ったんだな......。巣穴で岩に叩きつけられた拍子に、頭ン中をやられちまったのか......。呂律が回ってねぇ。目つきも焦点が合ってねぇぞ。クソッ、声も出ねぇのか......?」
男はこちらの異常な反応を、戦闘による外傷とショック症状だと解釈し、納得していた。
疑う様子など微塵もない。
目の前にいる泥まみれの人間が、「トール」であることなど、男にとっては疑う余地すらない自明の事実なのだ。
男は身体を背負い直そうと、力強くその背中に腕を回した。
その拍子に、腰袋から滑り出たものがあった。
昨夜、老木の洞の中で見つけた、あの小さな長方形の金属片。
幾何学的な刻印が刻まれた、鈍い金色のプレート。
――カラン、と。
砂利の上に落ちた金属片を見て、男が短く息を吐いた。
「......村長の割符も、ちゃんと持ってたか。これで依頼の精算もできる。お前が無事なら、それだけでいい。さあ、立てるか? 街道沿いに野営地を作ってある。荷車もあるから、そこまで運んでやる」
男の温かい手が、こちらの脇を抱え、泥濘から引き上げるように立ち上がらせてくれる。
その瞬間、脳裏で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい音を立てて噛み合っていった。
――あの洞窟で、目覚めた時のこと。
そばに転がっていた、使い込まれた無骨な鉄の剣。
自分の手とはまるで違う、分厚いタコに覆われた節くれだった戦士の手。
小鬼の石斧が振り下ろされた瞬間、考えるより先に身体が勝手に動き、完璧な角度で攻撃を弾き返した肉体の記憶。
そして、この男が口にした「洞窟で分断された」「お前が殿を引き受けた」という言葉。
すべてが、一本の線で繋がってしまった。
(嘘だろ......)
背筋を、真冬の氷水を浴びせられたような戦慄が駆け抜けた。
自分は、お伽話のように都合のいい奇跡で別の世界へやってきたわけでも、何もない空っぽの肉体に宿ったわけでもない。
この世界には、元から「この肉体の持ち主」が存在していたのだ。
過酷な戦場を駆け抜け、小鬼を狩り、血と泥にまみれて生き抜いてきたであろう男。
仲間から深い信頼を寄せられ、背中を預け合っていた、本物の戦士。
その男の名前こそが――「トール」。
そして、自分はその「トール」という他人の肉体に、人生に、人間関係のど真ん中に、丸ごと放り込まれてしまったのだ。
(違う......俺は......違うんだ......!)
叫びたかった。
俺はトールじゃない。そんな強い戦士じゃない。
自分は、東京の片隅の六畳間で、他人の視線に怯えて引きこもり、夜勤のバイトとゲームの往復しかできなかった、無力で臆病な男だ。
親の期待からも逃げ出し、社会からも逃げ出し、コンビニの階段ですら足を踏み外して無様に死んだ、名前だけの空っぽな存在――。
――俺の名前は、透だ。
心の中で、血を吐くような思いで自らの名を叫んだ。
だが、その叫びは誰の耳にも届かない。
口から漏れるのは、ただ掠れた、苦しげな吐息だけだった。
「しっかり掴まってろよ、相棒。すぐに村へ連れてって、傷の手当てをさせてやるからな」
男はこちらの右腕を自分の肩に回し、力強い足取りで街道を歩き始めた。
背中に触れる男の革鎧の硬さ。砂利を踏みしめる確かな足音。
差し伸べられたその手は、凍える森の地獄から自分を救い出してくれた、紛れもない救いの手だった。
けれど――。
胸を埋め尽くしていたのは、生き延びた安堵などではなかった。
死の恐怖から解放された瞬間に突きつけられたのは、それ以上に底知れない、正体不明のプレッシャーと絶望だった。
自分はこれから、この見知らぬ他人の人生を演じ続けろというのか。
この男の信頼を裏切り、戦士としての期待を背負い、いつ正体が露見するかに怯えながら、血みどろの世界で生きていかなければならないのか。
もし別人だと知られれば、この男に見捨てられて放り出されるかもしれない。
だが、一人では生きられないからとこの男にしがみついたところで、自分に本物の戦士の代わりなど務まるはずもなかった。
傾き始めた午後の陽光が、街道の上に二つの影を長く伸ばしていた。
寄り添い、傷だらけの身体を支え合って歩く、二人の傭兵の――双影。
泥濘の地獄を越えた青年の前に、新たな運命の歯車が、重く、無慈悲に噛み合い始めていた。
(第一部 完)