第001話 神様
――――浮遊感。最初に感じたのはそれだった。次に身体の輪郭を感じるようになって、やがて全身が有ることを自覚する。
二度と感じられないと思っていた感覚。
死んだ筈では無かったのか。もしかして失敗してしまったのか。
アペレイスは恐る恐る、目を開いた。
「ここ、は――」
――現実的、いや、そんな筈ない。非現実的だ。
視界に飛び込んできたのは幻想的な光景。
遥か遠くの、夜空を覆い尽くす星々の光。絶え間なく飛んでいく流星群に、虹色の光を放つ月。
何が起きているのかと、今度は視線を落としてみる。
足元は膝下まで伸びた草で埋め尽くされていて、周囲は地平線の彼方まで続く草原。
そして背後には、宇宙にまで届いていそうな、巨大と言うにはあまりにも大きすぎる大樹。
知るはずもない場所に、アペレイスは忽然と立ち尽くしていた。
「目覚めましたか」
呆然とその大樹を見上げていると、後ろから声が聞こえた。
振り向いてみると、そこに立っていたのは、無地の着物を身に纏う小さな女の子。長い髪と着物の袖を揺らしながら、丸い眉を控えめにひそめて、柔らかい笑みを浮かべている。
アペレイスの身体が震える。その女の子が普通ではないと、得体の知れない何かであると直感的に理解したからだ。
「君は何者なの?」
その問いかけに少女は笑みを崩さずに、答えた。
「神様って答えたら、信じますか?」
冗談を言っているような、そんな声色。でもそうは思わせてくれない何かを常に感じる。
「信じる、かも」
「ふふふ、素直ですね」
神様を名乗る少女がくすりと笑う。
「ではもうひと押し、しましょうか」
少女は少しだけ顔を上げる。
その背後に浮かぶ虹色の月が、まるで少女の頭上にあるかのように重なった。
「――っ」
少女の姿が黒く染まるほど、虹色の光が強くなる。
アペレイスの目に、この場所とは異なる世界が映し出された。
「これは――――」
それは、英雄達の姿。正確には、それぞれのあるべき姿。
彼らは笑い、悲しみ、叫び、戦い――。
それぞれの世界で、それぞれの日常を取り戻していた。
それは、それは............。
ボクの、望んでいた彼らの、帰還。
「――複雑に絡まりあった世界は、丁寧に解かれました。彼らと、貴女の決断によって」
少女の、神様の声が響く。
「多次元の世界が繋がるほどの、人々の強い想いが産んだ、とても純粋で、無垢な存在。それが貴女でした」
アペレイスは何も言えない。
言えるわけが無い。
「そんなはず、ないよ」
自分の行いを思い出して、項垂れる。
――あれが、あんなことが、許されるわけが無いのだから。
「あの世界で起きたことは、言わば夢。目覚めれば現実に戻るように、全ては泡沫の――」
「そうだったとしても」
アペレイスの言葉が、神の言葉を遮る。
いつの間にか握っていた拳と、肩を震わせて。
「許されるわけが、無いじゃないか!」
溢れ出すのは自分への怒り。
一瞬でも、神様の肯定を心地良く感じてしまった自分が許せない。
今目の前で、こうして元の世界で生きる彼らの、守るべき人々をボクは――。
奪ってしまったのだから。
「――だから貴女は、彼らに討たれることを良しとし、世界の脅威として名乗りを上げた」
神様の静かで、柔らかな声と気配が近付く。
顔を上げると、そこにはもう彼らの世界は無い。代わりに、神様の、少女のとびきりの笑顔が広がる。
「アペレイスちゃん。やっぱり貴女を起こしたのは大正解でした」
「えっ......」
ぽんぽん、と。神様が頭を撫でる。
子をあやすように、優しい優しい手付きで。
「確かに、貴女は悪いことをした悪い子ちゃんです。でも、それなら反省して、次に活かして、善い行いをするのが筋だと、神様思うんです」
神様としての威厳なんてどこかへ捨ててしまったように、彼女は一人の少女として笑う。
その変わりように驚きながら、アペレイスも釣られて小さく笑ってしまうが。
「でも、ボク死んじゃったからなぁ」
「言ったじゃないですか。起こした、って」
神様のその言葉でようやく気付く。
「ボク蘇ったの? じゃあボクの居たあの世界も復活しちゃうんじゃ? それに、ボクは普通じゃないし、死んだ後も魂とかそういうのは無くて消滅するとか......」
アペレイスの疑問に、神様がウィンクと共に答える。
「そういうのは神様が全部解決しちゃいました! ばっちぐーです!」
流石神様。そんな軽いノリで片付けちゃうんだ。ちょっとフクザツ......。
「とは言え、今の貴女は仮初の器でしかありません。分かりやすく言うなら意識だけが一人歩きしてる状態なんです」
「ええっと、それはつまり?」
「私次第でアペレイスちゃんは今度こそ完全消滅、です♪」
そうだった。この人ちゃんと神様だった。人の理解を超えてる存在なんだ。
「なので、今からアペレイスちゃんに一つ尋ねます」
神様は背を向けて、あの虹色の月の浮かぶ方角へと歩き進み、両手を後ろで組んだ。
距離が空いていくにつれて、神様の後ろ姿に再び威厳が戻っていくような気がした。
神様は少し離れた場所で立ち止まる。
そして、その長い髪を風に靡かせて、振り向いた。
「今度こそ、人として自由に生きてみませんか」
色んな感情が揺れ動く。
神が第二の、或いは初めての人生を与えてくれるという、その機会を前にしても、アペレイスはそれでも即答は出来ない。
自分にそんな価値は無い。
いや、そもそもこれは何かの試練か。求められている答えは別のものなのか。
言葉に何度も詰まるアペレイスのことを、神は静かに待っている。子の告白を待つ、優しき母のように。
――答えは出た。
「ボクは――」
声をぐっと振り絞る。
「もし、次があるのなら」
後悔とか、後ろめたさとか、色々あるけど。
最後に見えたあの手を、ボクは。
物語のラスボスなんかじゃなくて、英雄として、取りたい――。
「ヒーローに、なってみたい」
その想いを受けて、神は目を伏せて何度も頷く。まるで答えが分かっていたような反応だった。
「よく、言えました」
神から笑顔で褒められると、吹いていた風が強まる。
その風向きも、神の立つ方角からに変わった。
「うわっ、わっ!?」
突然、足が地面から離れていく。吹き荒れていく風ではない、何か別の力で浮遊させられている。
地上から離されて、いつの間にか小さくなっていた神様は、地上から大きく両手を振っている。
想いを吐き出した余韻に、浸る時間も無いまま別れを予感した。
「その夢、応援してますよアペレイスちゃん!」
「まっ、待って神様! ボクどうなっちゃうのー!?」
身体が向かうのは、この大樹の先。
手足を動かしても、遠く離れていく神様には近付けない。
微笑む神様の顔が、ついに見えなくなる。
身体が光に包まれて、輪郭を失って、視界も泡のように消えていく。
残った意識も、ゆっくり消えていくのを感じて――。
最後に――神様の声を聞いた――。
『行ってらっしゃい。どうか、後悔の無い人生を――』