第八話 0.999999999999……
あれから、数日が経っていた。
ミコトは、教室の自分の席で、小さな手帳を開いていた。
オーレリアの真似だった。
最初は、あの子が何でも書き留めるのを不思議に思っていた。
けれど、分からないことばかりの場所では、書くという行為そのものが、少しだけ足場になる。
ハリエット。
やさしい。よく心配してくれる。
オーレリア。
何でも書く。すごく見る。
ハリス。
落ち着いている。少し怖いけど、親切。
ウォール。
慌てる。
ローティ。
元気。すごく元気。
イネヴェア。
華やか。褒めると少し嬉しそう。
レオナ。
かわいい。体が弱い。いい匂いがする。
チャミー。
ていねい。とてもていねい。
そこまで書いて、ミコトの手が止まった。
次の行には、もう名前だけがある。
ヴァン。
隣の席にいる少年は、今日も窓の外を見ていた。
黒い髪。
青い目。
話しかけてくることは、ほとんどない。
怖いわけではない。
怒っているようにも見えない。
ただ、遠い。
ミコトは少し迷ってから、名前の横に小さく書いた。
静か。
それ以上は、まだ書けなかった。
「今日は、臨時の先生が来るらしいよ」
前の方で、誰かが言った。
「ヴァルク先生?」
「うん。たぶん」
その名前が出ると、教室の空気が少し明るくなった。
怖がる感じではない。
むしろ、何人かは楽しみにしているようだった。
「ヴァルク先生の授業、分かりやすいよ」
ハリエットが言う。
「面白いのよぅ」
オーレリアは、もう手帳を構えていた。
ハリスは何も言わなかった。
けれど、嫌そうではない。
ヴァンだけが、窓の方へ顔を向けた。
そっぽを向いた、と言った方が近かった。
ミコトは、それを少しだけ見た。
そこへ、扉が開いた。
入ってきたのは、大柄な男だった。
黒い髪。
眼鏡の奥に、明るい金色の目。
口元には、人懐こい笑みがある。
肩や腕の厚みは、ただの教師というより、身体を使うことに慣れた大人のものだった。
けれど、不思議と怖くはない。
「おう、揃うちゅうな」
その声で、教室の空気が一段軽くなった。
ミコトは瞬きをした。
知らない先生のはずなのに、少しだけ近い。
言葉の端に、柔らかい訛りがある。
それだけで、胸の奥がほんの少し緩んだ。
「ヴァルクだ。今日はアルフォンス先生の代わりに、ちょっと面倒な話をするき」
面倒な話。
そう言いながら、ヴァルク先生は少しも面倒そうではなかった。
彼は教壇の前に立ち、教室を見回した。
「まず、教科書を閉じて、机にしまえ」
ミコトは、思わず周りを見た。
しまうの。
そう思ったのは、ミコトだけだったらしい。
生徒達は慣れた様子で教科書を閉じ、机の中へ入れていく。
ヴァンも、黙って教科書をしまった。
「今日は、読んで覚える話じゃない。考える話じゃ」
ヴァルク先生は、黒板に大きく数字を書いた。
1。
その横に、もう一つ。
0.999999999999999999999999999999999999......
9がずっと続いていた。
「さて」
ヴァルク先生は笑った。
「こいつらは同じか、違うか」
教室がざわついた。
「違うに決まってるじゃない」
誰かが言う。
「でも、どれくらい違うの?」
別の誰かが首を傾げる。
ヴァルク先生は楽しそうに頷いた。
「そこじゃ。違う言うなら、どればあ違うがや?」
彼は、二つの数字の間に指を置いた。
「1から、こいつを引く。差はどれっぱあ残る?」
黒板に、今度は小さな数字が並ぶ。
0.000000000000000000000000000000000000......
「ずうっと0が続く。最後に1が来る。そう思いたくなる」
ヴァルク先生は、そこで声を少し落とした。
「けど、その最後の1は、いつ来るがや?」
誰もすぐには答えなかった。
ミコトも、手帳の上でペンを止めていた。
数字の話なのに、どこか追いかけっこのようだった。
来るはずの1が、いつまでも来ない。
ヴァルク先生は教室を見渡した。
その視線がこちらへ向いた気がして、ミコトは少し肩を強張らせた。
わ、こっちを見た。
そう思った。
けれど、違った。
ヴァルク先生が見ていたのは、ミコトではない。
隣のヴァンだった。
ヴァンは、窓の方を向いたまま、小さく呟いた。
「......兄貴め」
ミコトは、その言葉だけを聞いた。
兄貴。
問い返す暇はなかった。
少しの間があった。
ハリスが、静かに顔を上げる。
「差があるなら、どこかに1が来るはずです。でも、9が終わらないなら、その1は来ません」
教室の視線が、ハリスへ集まった。
「だから、差はありません。0.999......は、1と同じ、と考えてもいいはずです」
ヴァルク先生が、にっと笑った。
「えい答えじゃ」
教室のあちこちで、小さな声が上がった。
「え、同じなの?」
「嘘でしょ」
「でも、1が来ないなら......」
ヴァルク先生は、そのざわめきを楽しんでいるようだった。
「今のは、正解でもえい。少なくとも、そう考える筋は通っちゅう」
彼は黒板の1と、9の続く数字を指で叩いた。
「大事なんは、答えを丸暗記することやない。差がある言うなら、その差はどこにあるがか。そこを疑えるかどうかじゃ」
ミコトは、手帳にペンを落とした。
ヴァルク先生。
話が分かりやすい。
方言。
やさしい。
頼れそう。
少し迷ってから、さらに小さく書き足す。
かっこいい。
書いてから、慌てて手帳を少し閉じた。
隣で、ヴァンはまだ窓の方を向いている。
けれど、ミコトにはもう、さっきの一言が耳に残っていた。
兄貴め。
ヴァルク先生は、何事もなかったように授業を続けている。
ミコトはもう一度黒板を見た。
0.999999999999......と、1。
違って見えるものの間に、本当は差がないこともある。
なら、同じ教室にいても、遠く見えるものの間には、何があるのだろう。
手帳の端で、ヴァンの名前が目に入った。
静か。
その横には、まだ何も書けない。
ただ、さっきの小さな呟きだけが、耳に残っていた。
兄貴め。
ミコトはペン先を少し浮かせたまま、結局、何も書き足さなかった。
黒板の9は、まだ続いている。