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第八十一話 湖上の約束

「大切な話って、なにさね」

 逸はやるつばめ先生を片手で制して、アルフォンス先生は咳払いをした。いつもの穏やかな表情、何食わぬ顔で言う。

「ヴァルクとエイデンの任務が、無事に終了しました」

「......え?」

 つばめ先生の声が、一瞬だけ抜けた。

「無事、なの?」

「はい。今回の特別任務については、すでに完了しています。来月には、二人ともこちらへ戻れる見込みです」

 つばめ先生は、しばらく黙っていた。怒るのか、笑うのか、泣くのか、そのどれにもなりきれない顔で、唇を引き結んでいる。

「......あんた」

「はい」

「あたしに内緒で、助けに行ったりしてないでしょうね?」

 アルフォンス先生は、ほんの少しだけ視線を逸らした。

「行きました」

「行ったの⁉」

 つばめ先生が勢いよく立ち上がりかける。

「ちょっと、なんで誘ってくれなかったのよ!」

「ヴァン君とミコトさんを放置できませんから」

「それは、そうだけど......!」

 つばめ先生は言い返しかけて、結局、言葉を飲み込んだ。わたしとヴァンの名前を出されると、つばめ先生は強く出られないらしい。

「ずるいわね、あんた」

「必要な判断でした。それに私の力が無ければ、危ない場面でした」

「万象因果収束ミリオン・パストだっけ? それあれば無敵じゃない」

「いえ、弱点はあります。連続使用は、私の精神を喰らい、脳を焼きます。それに、私自身が行くことも見聞もきできない範囲は外れますし、何より最大で一日しか見れません」

「意外と制約も多いのね」

「はい。後は眠くなります」

「それで、普段からそんな感じなのね」

「はい。そうかもしれません」

 つばめ先生は大きく息を吐き、長椅子に座り直した。それでも、さっきより肩の力は抜けていて、ヴァルク先生とエイデン神父様が帰ってくるという事実が、少しずつ胸の中で形になっているように見えた。

「あの、つばめ先生」

「なに?」

「その......エイデン神父さまの、プロポーズの話は、受けるんですか?」

 つばめ先生が固まった。アルフォンス先生は、静かに目を伏せる。

「ミコトちゃん」

「はい」

「そういうところ、思い切りがいいわね」

「す、すみません」

「謝らなくていいけど」

 つばめ先生は、少しだけ顔を赤くして横を向いた。

「そうね。気持ちの整理がついたらね」

「整理、ですか」

「ええ。あたしにも、色々あるのよ」

 それ以上は聞けなかった。でも、拒絶ではなかった。それだけで、少し嬉しくなる。

 つばめ先生は、今度はわたしを見た。

「そういうミコトちゃんこそ、ちゃんとお付き合い始めたの?」

「え」

「ヴァン君と」

「あ、えっと」

「好きです、って互いに気持ちを確認しただけじゃ、その先には進めないよ。特にヴァン君はね。あの子、自分から大事なものを欲しがるのが下手だから」

 つばめ先生はいつもの軽い調子で言ったけれど、目はちゃんと真面目だった。

「だから、ちゃんと恋人してきなさい」

「恋人......」

 その言葉だけで、顔が熱くなる。

 わたしとヴァンが、恋人。昨日、好きだと言ってもらえて、わたしも好きだと言った。でも、その言葉に名前をつけると、急に胸の奥が騒がしくなった。

「ただし、まだ一線は越えちゃだめだからね」

「い、ぃぃ一線、ですか......⁉」

「そう。一線」

「え、えっと......子供だから、まだ早いってことですよね?」

 わたしが尋ねると、つばめ先生は少しだけ表情を改めた。

「まだ責任を取れないからよ。好きだから何をしてもいい、ってわけじゃないの。大事にしたいなら、ちゃんと待つことも覚えなさい。自分も、相手も、未来もね」

「......はい」

「まあ、手を繋ぐとか、少し寄り添うとか、そういうのはいいけど」

「つばめさん」

 アルフォンス先生が咳払いをした。

「具体的すぎます」

「必要でしょ。あんた、こういう話は絶対役に立たないもの」

「否定はしません」

「そして、あんた以上にできないのがヴァルク。絶対まともな性教育なんかしてない」

「それも否定しません」

「いい、ミコト。あの子は、年齢の割にバカみたいに強いけど、中身は子供なの。それも星級ステラ・クラスの子よりも、男女の話を知らない」

「たぶん、そんな気はしていました」

 つばめ先生は、わたしの肩をぽんと叩いた。

「でしょ? でも、怖がらなくていいわ。嬉しいなら嬉しいって言って、会いたいなら会いたいって言って、ちゃんと恋人になってきなさい」

「......はい」

 わたしは、小さく頷いた。

 ヴァンと、恋人になる。それは昨日よりも、もっとはっきりした約束のように思えた。

  *

 それからの日々は、驚くほど甘かった。

 朝、教室で目が合う。それだけで、胸の奥がそわそわした。ヴァンはいつもと同じ顔をしようとしていたけれど、わたしが小さく手を振ると、ほんの少しだけ耳が赤くなる。

 それを見て、わたしも赤くなる。何も変わっていないはずなのに、全てが変わっていた。

 隣の席で教本を開く時、指先が触れる。廊下を歩く時、歩幅を合わせてくれる。訓練場でヴァンが木剣を振る姿を見ていると、前よりもずっと格好よく見えて困った。

「ミコト」

「なんですか?」

「見すぎ」

「す、すみません」

「謝るな」

「でも」

「......嫌じゃない」

 そんなことを真顔で言うから、わたしはまた何も言えなくなる。

 放課後には、寄宿舎までの短い道のりを一緒に帰った。校舎裏の小道を歩き、湖の見える坂で少し立ち止まると、ヴァンはわたしの手を見て、それから顔を逸らした。

「手」

「うん?」

「繋いでいいか」

 わたしは慌てて頷いた。

「う、うん......」

 ヴァンの手は、少し硬かった。剣を握る手。わたしを助けてくれた手。その手が、今はそっとわたしの手を包んでいる。

 それだけで、世界が少し違って見えた。

「恋人、ですもんね」

 小さく言うと、ヴァンがこちらを見た。

「恋人? そうか、恋人か」

 今まで意識してない辺りが、とってもヴァンらしい。

「違うの?」

「違わない。恋人同士だ」

 迷いのない返事だった。その真っ直ぐさが嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいになる。

「ヴァン」

「何だ」

「もう一回、言ってもいいですか」

「何を」

「好きです」

 ヴァンは、一瞬だけ黙った。それから、わたしの手を少しだけ強く握る。

「おれも好きだ」

 それだけで、一日分の幸せが増えた。

  *

 湖の上で星を見る約束の日は、その何日か後だった。

 夕食のあと、寄宿舎の一階カフェで窓の外を眺めていると、冬の空は澄んでいて、星がいつもより近く見えた。

「綺麗ですね」

「うん」

 ヴァンも窓の外を見ていた。

「湖の上だと、もっと綺麗だ」

「湖の上?」

「ああ。水に星が映る。上にも下にも星があるみたいになる」

「見たいです」

 思わず言ってしまった。けれど、すぐに現実を思い出す。

「でも、夜に出歩くのは......」

「駄目だな」

「うん」

 学院の規則もある。アルフォンス先生やつばめ先生に心配をかけるわけにもいかない。そう思っていたのに、ヴァンは少し考えてから言った。

「任せて」

「え?」

「少しだけなら、何とかなる」

「何とかって、何をするんですか」

「静かに出る」

「それは無断外出では」

「うん」

「うん、じゃありません」

 わたしは止めなければいけなかった。止めなければいけないと、ちゃんと分かっていた。

 でも、星の映る湖をヴァンと二人で見たい。その気持ちが、規則より少しだけ強かった。

 わたしは、夜の約束が楽しみでワクワクしていた。

  *

 夜。

 わたし達は、こっそり寄宿舎を抜け出した。

 つばめ先生に見つかったら、きっと怒られる。アルフォンス先生に見つかったら、たぶん微笑みながら全部見透かされる。だから、できるだけ音を立てずに廊下を歩き、外へ出た。

 冬の冷たい夜気が頬を刺す。けれど、ヴァンが手を握ってくれていると、不思議と寒さは怖くなかった。

「大丈夫か」

「うん」

「足元」

「大丈夫」

 ヴァンが何度も振り返って、わたしを気にかけてくれる。その度に、わたしの胸から頬までぽかぽかと温かくなる。

 桟橋に着くと、湖は驚くほど静かだった。ヴァンが手早くボートを出し、わたしはまたヴァンの手を取って乗り込む。小舟が少し揺れたけれど、この前よりも少しだけスムーズに乗り込めた気がした。

 ヴァンが櫂を入れる。水音が、夜に溶けていった。

 岸から離れるにつれて、学院の灯りが遠くなる。そして、空が広がった。

「......すごい」

 思わず声が漏れた。

 空一面の星。その下に、同じ星を映した湖。本当に、上にも下にも星があった。

 私の知っている夜空ではないけれど、似たような星の並びがあるのも面白い。黄道十二星座なんか、ほとんど同じだ。

 西の空には、牡牛座が傾いている。 南の空には獅子座、南東からは乙女座が顔を出している。でも、それらに纏わる物語、神々の話は私も知らない。

 未知なのに既知。既知なのに未知。なんだか不思議だ。

 ボートだけが、その不思議な星空を映した広い水面みなもの真ん中に浮かんでいる。

「星が綺麗ですね」

「うん」

「綺麗な夜......。空上も湖面したも、キラキラしてる」

「うん」

「ヴァンは、こんな素敵な景色、どうやって見つけたんですか?」

「兄貴が教えてくれた」

「ヴァルク先生に?」

「ああ。夜に抜け出して、怒られたらしい」

「怒られたんですか」

「うん」

 わたしは小さく笑った。ヴァンも少しだけ笑う。

 水面の星が揺れている。その揺れの中で、ヴァンの横顔が見えた。

 整った顔、鍛えられて逞しい身体、頼もしくて温かい手、湖面と同じ青い瞳に星明かりの粒が見える。少しの間、見惚れてしまった。

 近い。

 でも、もっと近づきたいと思った。

「ヴァン」

「何だ」

「隣に行っても、いいですか?」

「だめ、危ない。おれが行く」

 そう言って、ヴァンが隣に座る。わたしは少し横にズレて座る。

「ミコト。手、繋いで」

「うん」

 沈黙が落ちた。けれど、嫌な沈黙ではなかった。胸がうるさくて、言葉が出ないだけの沈黙だった。

「ミコト」

「はい」

「恋人なんだよな」

 ヴァンが、星ではなくわたしを見ていた。

「うん。わたし達は、恋人です」

「ミコト、恋人の次はどうする?」

 次。

「結婚か?」

 え?

「その後は、子供か?」

 ええ......⁉

 ちょ、ちょちょちょ......早い早い! つばめ先生の予想通りだった。

 わたしは、一度深呼吸したあと、コホンと咳払いをし、ヴァンに向き直る。火照った顔ではなく、できるだけ真面目な顔で。

「ヴァン。物事には順序と、相応しい時があります」

「順序と、相応しい時」

「そうです」

「分かった。それじゃ、ちゃんとしよう」

「なにを?」

「事故じゃなく」

「⁉ そ、それって......」

 キスのことですか⁉ ......とは口に出せないまま、わたしは動揺で固まってしまった。頭でそう思い当たった瞬間、胸の奥が熱くなる。顔が熱い。

 ヴァンの目が、少し揺れた。おそらく、口にしなくても、わたしが思い当たったことは伝わっているみたいだった。

「そう」

 ヴァンはそこで止まった。珍しく迷っている。

「......いいか?」

 何を、と聞くまでもない。

 顔が熱くなる。人命救助でも、事故でもない。これが初めてだ。

 わたしの、初めてになる。

「はい」

 声が、生まれたての子猫みたいに小さく震えた。

 ヴァンが少しだけ近づく。わたしも、目を閉じた。

 吐息が掛かる。ヴァンも緊張しているのか、その吐息は微かに震えていた。どくんどくんと高鳴る心臓の音が、互いに聞こえてしまいそう。

 唇に、温かいものが触れた。

 ほんの短いキスだった。驚くほど静かで、驚くほど優しい。ふわりと触れて、そっと離れる。それだけなのに、胸の奥がいっぱいになった。

 これが、恋人同士のくちづけ。

 わたしとヴァンの、はじめて。

 目を開けると、ヴァンがすぐ近くにいた。

 星の光が、ヴァンの瞳に映っている。わたしも、きっと同じ顔をしている。

 唇が離れたあとも、すぐには言葉が出なかった。ヴァンがわたしを見ていて、わたしもヴァンを見ている。

 湖の上には、星の光が落ちていた。

 わたし達は、本当に恋人になったのだと思った。この世界で、この湖の上で、会いたい人、帰る場所、帰るべき約束ができた。

 しあわせだ、と思った。こんな時間がずっと続けば...... 。

 その時だった。

 夜の向こうで、光が弾けた。

 ────え? 

 続いて、大きな爆音が轟いた。

 見れば、学院に火の手が上がっていた。

 広がる黒煙に、星々は隠れた。
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第八十一話 湖上の約束

「大切な話って、なにさね」

 逸はやるつばめ先生を片手で制して、アルフォンス先生は咳払いをした。いつもの穏やかな表情、何食わぬ顔で言う。

「ヴァルクとエイデンの任務が、無事に終了しました」

「......え?」

 つばめ先生の声が、一瞬だけ抜けた。

「無事、なの?」

「はい。今回の特別任務については、すでに完了しています。来月には、二人ともこちらへ戻れる見込みです」

 つばめ先生は、しばらく黙っていた。怒るのか、笑うのか、泣くのか、そのどれにもなりきれない顔で、唇を引き結んでいる。

「......あんた」

「はい」

「あたしに内緒で、助けに行ったりしてないでしょうね?」

 アルフォンス先生は、ほんの少しだけ視線を逸らした。

「行きました」

「行ったの⁉」

 つばめ先生が勢いよく立ち上がりかける。

「ちょっと、なんで誘ってくれなかったのよ!」

「ヴァン君とミコトさんを放置できませんから」

「それは、そうだけど......!」

 つばめ先生は言い返しかけて、結局、言葉を飲み込んだ。わたしとヴァンの名前を出されると、つばめ先生は強く出られないらしい。

「ずるいわね、あんた」

「必要な判断でした。それに私の力が無ければ、危ない場面でした」

「万象因果収束ミリオン・パストだっけ? それあれば無敵じゃない」

「いえ、弱点はあります。連続使用は、私の精神を喰らい、脳を焼きます。それに、私自身が行くことも見聞もきできない範囲は外れますし、何より最大で一日しか見れません」

「意外と制約も多いのね」

「はい。後は眠くなります」

「それで、普段からそんな感じなのね」

「はい。そうかもしれません」

 つばめ先生は大きく息を吐き、長椅子に座り直した。それでも、さっきより肩の力は抜けていて、ヴァルク先生とエイデン神父様が帰ってくるという事実が、少しずつ胸の中で形になっているように見えた。

「あの、つばめ先生」

「なに?」

「その......エイデン神父さまの、プロポーズの話は、受けるんですか?」

 つばめ先生が固まった。アルフォンス先生は、静かに目を伏せる。

「ミコトちゃん」

「はい」

「そういうところ、思い切りがいいわね」

「す、すみません」

「謝らなくていいけど」

 つばめ先生は、少しだけ顔を赤くして横を向いた。

「そうね。気持ちの整理がついたらね」

「整理、ですか」

「ええ。あたしにも、色々あるのよ」

 それ以上は聞けなかった。でも、拒絶ではなかった。それだけで、少し嬉しくなる。

 つばめ先生は、今度はわたしを見た。

「そういうミコトちゃんこそ、ちゃんとお付き合い始めたの?」

「え」

「ヴァン君と」

「あ、えっと」

「好きです、って互いに気持ちを確認しただけじゃ、その先には進めないよ。特にヴァン君はね。あの子、自分から大事なものを欲しがるのが下手だから」

 つばめ先生はいつもの軽い調子で言ったけれど、目はちゃんと真面目だった。

「だから、ちゃんと恋人してきなさい」

「恋人......」

 その言葉だけで、顔が熱くなる。

 わたしとヴァンが、恋人。昨日、好きだと言ってもらえて、わたしも好きだと言った。でも、その言葉に名前をつけると、急に胸の奥が騒がしくなった。

「ただし、まだ一線は越えちゃだめだからね」

「い、ぃぃ一線、ですか......⁉」

「そう。一線」

「え、えっと......子供だから、まだ早いってことですよね?」

 わたしが尋ねると、つばめ先生は少しだけ表情を改めた。

「まだ責任を取れないからよ。好きだから何をしてもいい、ってわけじゃないの。大事にしたいなら、ちゃんと待つことも覚えなさい。自分も、相手も、未来もね」

「......はい」

「まあ、手を繋ぐとか、少し寄り添うとか、そういうのはいいけど」

「つばめさん」

 アルフォンス先生が咳払いをした。

「具体的すぎます」

「必要でしょ。あんた、こういう話は絶対役に立たないもの」

「否定はしません」

「そして、あんた以上にできないのがヴァルク。絶対まともな性教育なんかしてない」

「それも否定しません」

「いい、ミコト。あの子は、年齢の割にバカみたいに強いけど、中身は子供なの。それも星級ステラ・クラスの子よりも、男女の話を知らない」

「たぶん、そんな気はしていました」

 つばめ先生は、わたしの肩をぽんと叩いた。

「でしょ? でも、怖がらなくていいわ。嬉しいなら嬉しいって言って、会いたいなら会いたいって言って、ちゃんと恋人になってきなさい」

「......はい」

 わたしは、小さく頷いた。

 ヴァンと、恋人になる。それは昨日よりも、もっとはっきりした約束のように思えた。

  *

 それからの日々は、驚くほど甘かった。

 朝、教室で目が合う。それだけで、胸の奥がそわそわした。ヴァンはいつもと同じ顔をしようとしていたけれど、わたしが小さく手を振ると、ほんの少しだけ耳が赤くなる。

 それを見て、わたしも赤くなる。何も変わっていないはずなのに、全てが変わっていた。

 隣の席で教本を開く時、指先が触れる。廊下を歩く時、歩幅を合わせてくれる。訓練場でヴァンが木剣を振る姿を見ていると、前よりもずっと格好よく見えて困った。

「ミコト」

「なんですか?」

「見すぎ」

「す、すみません」

「謝るな」

「でも」

「......嫌じゃない」

 そんなことを真顔で言うから、わたしはまた何も言えなくなる。

 放課後には、寄宿舎までの短い道のりを一緒に帰った。校舎裏の小道を歩き、湖の見える坂で少し立ち止まると、ヴァンはわたしの手を見て、それから顔を逸らした。

「手」

「うん?」

「繋いでいいか」

 わたしは慌てて頷いた。

「う、うん......」

 ヴァンの手は、少し硬かった。剣を握る手。わたしを助けてくれた手。その手が、今はそっとわたしの手を包んでいる。

 それだけで、世界が少し違って見えた。

「恋人、ですもんね」

 小さく言うと、ヴァンがこちらを見た。

「恋人? そうか、恋人か」

 今まで意識してない辺りが、とってもヴァンらしい。

「違うの?」

「違わない。恋人同士だ」

 迷いのない返事だった。その真っ直ぐさが嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいになる。

「ヴァン」

「何だ」

「もう一回、言ってもいいですか」

「何を」

「好きです」

 ヴァンは、一瞬だけ黙った。それから、わたしの手を少しだけ強く握る。

「おれも好きだ」

 それだけで、一日分の幸せが増えた。

  *

 湖の上で星を見る約束の日は、その何日か後だった。

 夕食のあと、寄宿舎の一階カフェで窓の外を眺めていると、冬の空は澄んでいて、星がいつもより近く見えた。

「綺麗ですね」

「うん」

 ヴァンも窓の外を見ていた。

「湖の上だと、もっと綺麗だ」

「湖の上?」

「ああ。水に星が映る。上にも下にも星があるみたいになる」

「見たいです」

 思わず言ってしまった。けれど、すぐに現実を思い出す。

「でも、夜に出歩くのは......」

「駄目だな」

「うん」

 学院の規則もある。アルフォンス先生やつばめ先生に心配をかけるわけにもいかない。そう思っていたのに、ヴァンは少し考えてから言った。

「任せて」

「え?」

「少しだけなら、何とかなる」

「何とかって、何をするんですか」

「静かに出る」

「それは無断外出では」

「うん」

「うん、じゃありません」

 わたしは止めなければいけなかった。止めなければいけないと、ちゃんと分かっていた。

 でも、星の映る湖をヴァンと二人で見たい。その気持ちが、規則より少しだけ強かった。

 わたしは、夜の約束が楽しみでワクワクしていた。

  *

 夜。

 わたし達は、こっそり寄宿舎を抜け出した。

 つばめ先生に見つかったら、きっと怒られる。アルフォンス先生に見つかったら、たぶん微笑みながら全部見透かされる。だから、できるだけ音を立てずに廊下を歩き、外へ出た。

 冬の冷たい夜気が頬を刺す。けれど、ヴァンが手を握ってくれていると、不思議と寒さは怖くなかった。

「大丈夫か」

「うん」

「足元」

「大丈夫」

 ヴァンが何度も振り返って、わたしを気にかけてくれる。その度に、わたしの胸から頬までぽかぽかと温かくなる。

 桟橋に着くと、湖は驚くほど静かだった。ヴァンが手早くボートを出し、わたしはまたヴァンの手を取って乗り込む。小舟が少し揺れたけれど、この前よりも少しだけスムーズに乗り込めた気がした。

 ヴァンが櫂を入れる。水音が、夜に溶けていった。

 岸から離れるにつれて、学院の灯りが遠くなる。そして、空が広がった。

「......すごい」

 思わず声が漏れた。

 空一面の星。その下に、同じ星を映した湖。本当に、上にも下にも星があった。

 私の知っている夜空ではないけれど、似たような星の並びがあるのも面白い。黄道十二星座なんか、ほとんど同じだ。

 西の空には、牡牛座が傾いている。 南の空には獅子座、南東からは乙女座が顔を出している。でも、それらに纏わる物語、神々の話は私も知らない。

 未知なのに既知。既知なのに未知。なんだか不思議だ。

 ボートだけが、その不思議な星空を映した広い水面みなもの真ん中に浮かんでいる。

「星が綺麗ですね」

「うん」

「綺麗な夜......。空上も湖面したも、キラキラしてる」

「うん」

「ヴァンは、こんな素敵な景色、どうやって見つけたんですか?」

「兄貴が教えてくれた」

「ヴァルク先生に?」

「ああ。夜に抜け出して、怒られたらしい」

「怒られたんですか」

「うん」

 わたしは小さく笑った。ヴァンも少しだけ笑う。

 水面の星が揺れている。その揺れの中で、ヴァンの横顔が見えた。

 整った顔、鍛えられて逞しい身体、頼もしくて温かい手、湖面と同じ青い瞳に星明かりの粒が見える。少しの間、見惚れてしまった。

 近い。

 でも、もっと近づきたいと思った。

「ヴァン」

「何だ」

「隣に行っても、いいですか?」

「だめ、危ない。おれが行く」

 そう言って、ヴァンが隣に座る。わたしは少し横にズレて座る。

「ミコト。手、繋いで」

「うん」

 沈黙が落ちた。けれど、嫌な沈黙ではなかった。胸がうるさくて、言葉が出ないだけの沈黙だった。

「ミコト」

「はい」

「恋人なんだよな」

 ヴァンが、星ではなくわたしを見ていた。

「うん。わたし達は、恋人です」

「ミコト、恋人の次はどうする?」

 次。

「結婚か?」

 え?

「その後は、子供か?」

 ええ......⁉

 ちょ、ちょちょちょ......早い早い! つばめ先生の予想通りだった。

 わたしは、一度深呼吸したあと、コホンと咳払いをし、ヴァンに向き直る。火照った顔ではなく、できるだけ真面目な顔で。

「ヴァン。物事には順序と、相応しい時があります」

「順序と、相応しい時」

「そうです」

「分かった。それじゃ、ちゃんとしよう」

「なにを?」

「事故じゃなく」

「⁉ そ、それって......」

 キスのことですか⁉ ......とは口に出せないまま、わたしは動揺で固まってしまった。頭でそう思い当たった瞬間、胸の奥が熱くなる。顔が熱い。

 ヴァンの目が、少し揺れた。おそらく、口にしなくても、わたしが思い当たったことは伝わっているみたいだった。

「そう」

 ヴァンはそこで止まった。珍しく迷っている。

「......いいか?」

 何を、と聞くまでもない。

 顔が熱くなる。人命救助でも、事故でもない。これが初めてだ。

 わたしの、初めてになる。

「はい」

 声が、生まれたての子猫みたいに小さく震えた。

 ヴァンが少しだけ近づく。わたしも、目を閉じた。

 吐息が掛かる。ヴァンも緊張しているのか、その吐息は微かに震えていた。どくんどくんと高鳴る心臓の音が、互いに聞こえてしまいそう。

 唇に、温かいものが触れた。

 ほんの短いキスだった。驚くほど静かで、驚くほど優しい。ふわりと触れて、そっと離れる。それだけなのに、胸の奥がいっぱいになった。

 これが、恋人同士のくちづけ。

 わたしとヴァンの、はじめて。

 目を開けると、ヴァンがすぐ近くにいた。

 星の光が、ヴァンの瞳に映っている。わたしも、きっと同じ顔をしている。

 唇が離れたあとも、すぐには言葉が出なかった。ヴァンがわたしを見ていて、わたしもヴァンを見ている。

 湖の上には、星の光が落ちていた。

 わたし達は、本当に恋人になったのだと思った。この世界で、この湖の上で、会いたい人、帰る場所、帰るべき約束ができた。

 しあわせだ、と思った。こんな時間がずっと続けば...... 。

 その時だった。

 夜の向こうで、光が弾けた。

 ────え? 

 続いて、大きな爆音が轟いた。

 見れば、学院に火の手が上がっていた。

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