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第二十九話 跳べ

「これ」

 声が、小さく出た。

「どうやって渡るんですか?」

 通路は、途中で途切れていた。こちら側の床と、向こう側の床。その間には、大きな切れ目がある。下は見える。ここまで登ってきた高さが、そのまま足元に落ちている。たぶん、四階くらい。もしも転落したら、きっと助からない。

「跳ぶしかないな」

 ロイさんが言った。

「跳ぶんですか」

「他に道がない」

 ロイさんは向こう側を見た。ハリスさんがロープを手繰る。ヴァンさんが後ろで弛みを取る。ロイさんが一度だけ頷いた。それだけだった。ロイさんが一歩下がる。走る。床の端を蹴る。

 跳ぶ。

 体が空中に出る。足元には何もない。ロープが張って、ハリスさんとヴァンさんの腕に力が入る。ロイさんの足が、向こう側の床に届いた。片膝をつく。けれど、落ちなかった。

「着いた」

 ロイさんはすぐに立ち上がり、向こう側でロープを握った。壁の欠けた石にロープを回し、片手で押さえる。

「次」

 ハリスさんが言った。自分のことだった。ハリスさんはロープの長さを見た。ヴァンさんが頷く。ハリスさんも頷き返す。すぐに跳んだ。ロイさんほど大きくは跳ばない。けれど、無駄がない。着く場所を決めて、そこへ体を運ぶみたいな跳び方だった。ロイさんが腕を伸ばす。ハリスさんの手を掴む。ハリスさんは向こう側へ膝をつき、そのまま床へ上がった。

「問題ない」

 ハリスさんが言った。

「次、ハリエット」

「うん」

 ハリエットちゃんは小さく頷いた。ロープの長さを整える。息を整える。向こう側で、ハリスさんとロイさんが手を伸ばす。ハリエットちゃんは床の端を蹴った。ふわり、と軽く見えた。それでも、下は四階分ある。ハリエットちゃんの手が、ハリスさんの手に届く。ロイさんも腕を伸ばして、肩を支える。ハリエットちゃんは向こう側へ渡った。

「大丈夫です」

 次は、オーレリアちゃんだった。オーレリアちゃんは手帳を抱えたまま切れ目を見る。

「手帳は」

 ロイさんが言った。

「持っていくのよぅ」

「両手を空けた方がいい」

「......分かっているのよぅ」

 オーレリアちゃんは不満そうに、手帳をヴァンさんに渡した。

「ん。預かる」

 頷くと、オーレリアちゃんは前に出た。一度だけ深く息を吸う。そして、跳んだ。高くはない。綺麗でもない。けれど、ちゃんと前へ跳んだ。ロープが張る。ロイさんが引く。ハリスさんが支える。オーレリアちゃんの足が向こう側の端に当たり、少し滑る。

「オリィ!」

 ロイさんの腕が、オーレリアちゃんを抱き留めた。オーレリアちゃんはロイさんの服を掴んだまま、しばらく動かなかった。そっか、そういう時は、オリィって呼ぶんだ。ちょっと羨ましくなった。

「大丈夫か」

「全然平気、ロイ様は大げさなのよぅ」

 次は、わたしだった。

「......はい」

 誰にも呼ばれていないのに、返事をしてしまった。足が動かない。見なければいいのに、見てしまう。下がある。高さがある。落ちたら助からない。考えるほど、体が固まっていく。向こう側で、ハリスさんがロープを引いた。

「ミコトさん、少し前へ」

「はい」

 声が少し裏返った。向こう側で、ハリエットちゃんが手を伸ばしている。ロイさんも、オーレリアちゃんも見ている。ハリスさんはロープを握っていた。こちら側には、ヴァンさんがいる。背中を見られている。

「ミコト」

 ヴァンさんが言った。

「下を見るな」

「見てません」

「見てる」

「......はい」

 見ていた。すごく見ていた。

「前だけ見ろ」

 前。向こう側。ハリエットちゃんの手。そこだけを見ればいい。分かっている。分かっているのに、足が動かない。わたしは、運動が得意ではない。跳ぶのも得意ではない。体力も筋力も瞬発力もない。さっきだって、ほとんど引きずり上げてもらった。そんなわたしが、四階分の高さの上で、通路の切れ目を跳ぼうとしている。どう考えても向いていない。

「ミコト」

 ヴァンさんの声は短かった。

「跳べ」

 それだけだった。大丈夫だとも、怖くないとも言わなかった。跳べるとも言ってくれなかった。

 跳べ。

 ただ、それだけ。わたしは、ハリエットちゃんの手を見た。落ちたら助からない。でも、落ちないようにしてくれている人達がいる。跳べる跳べないじゃない。跳ぶしかない。当たり前の事だ。ヴァンさんは、いつも当たり前のことを、当然のように言う。それがすごい。やっぱり跳ぶしかない。跳ぶしかないかぁ。わたしは覚悟を決めた。

「......ミコト、行きます」

 床を蹴る。跳んだ。下が、視界の端に入った。でも見ない。見たくない。足が空中に浮く。体が前へ進む。届かないかもしれないと思った。次の瞬間、腰のロープが引かれる。

「ミコトさん!」

 ハリエットちゃんの手が、わたしの手を掴んだ。ロイさんの腕が、わたしの肩を支える。膝が向こう側の床にぶつかった。

「っ」

 痛い。でも、床だった。わたしは床にしがみついた。相当みっともない気がした。

「着いた......」

 それだけ言うと、力が抜けた。

「大丈夫?」

 ハリエットちゃんが聞く。

「はい。たぶん。膝は、あとで痛くなると思います」

「今は痛くないの?」

「今は、怖い方が勝ってます」

 ハリエットちゃんが小さく笑った。最後に、ヴァンさんが残った。オーレリアちゃんの大きな手帳を抱えている。ヴァンさんは、切れ目の手前に立つ。距離を見る。足場を見る。下も見る。上も見る。きっと色々と何かわたしの分からないところまで見て、考えている。

「ヴァンさ...」

 わたしが呼び終える前に、ヴァンさんは跳んでいた。速かった。一歩で床を蹴って、体が空中を渡る。ロープが張るより先に、ヴァンさんの足は、こちら側の床を捉えていた。片手を床につき、そのまま立ち上がる。

「......すごい」

 思わず言ってしまった。ヴァンさんは少しだけ首をかしげた。

「跳んだ。それだけ」

 それがすごいのだと思ったけれど、言ってもたぶん伝わらない。ヴァンさんは、預かっていた手帳をオーレリアちゃんへ返した。オーレリアちゃんはそれを受け取ると、すぐ胸元へ抱えた。

 全員が、切れ目を渡った。でも、通路はまだ続いていた。古い石の壁。細い床。低い天井。窓はない。空気は重い。石の匂いに、何か古い紙の匂いが混ざっている。わたし達は、ロープを結んだまま進んだ。誰も、もう軽口を叩かなかった。また、先頭のロイさんが止まった。

「またか」

 前を見る。通路が、また途切れていた。今度は、さっきよりずっと長い。向こう側の床は見える。けれど、遠い。勢いをつければ届くかもしれない、という距離ではなかった。人が跳んで渡れる距離ではない。

「無理だ。オレでも届かない」

 ロイさんが言った。ヴァンさんも、無言で切れ目を見ていた。

「ヴァンさんは」

 聞きかけて、途中で止まった。ヴァンさんは首を横に振った。

「これは無理だ」

 ハリスさんがしゃがんで、切れ目を睨む。ロイさんでも無理。ヴァンさんでも無理。なら、誰にも跳んで渡るのは無理だ。ハリエットちゃんは黙ってロープを握り直した。オーレリアちゃんは、手帳に何か書き込んでいる。

 皆が沈黙している中で、ハリスさんが、床の端を指先でこすった。古い石の欠けたところから、白っぽい粉が少し落ちる。

 落ちるはずだった。

 けれど、その一部が、何もない空中で止まった。

「あれ? 今......」

 わたしが言うと、ハリスさんがすぐにその場所を見た。ヴァンさんも目を細める。白い粒が、何もないはずの空中に乗っている。

「ロイ、石を少し削れるか」

「できる」

 ロイさんが壁の欠けたところを刃で削った。白い粉が落ちる。ハリスさんはそれを受け取ると、切れ目の上へそっと撒いた。粉のいくつかが、空中で止まった。点々と、何もない場所に並んでいる。

「道、なのよぅ?」

 オーレリアちゃんが小さく言った。

「たぶん」

 ハリスさんはそれ以上、説明しなかった。見えない道がある。今は、それで十分だった。

「先頭はそのままロイ。粉を撒きながら進め」

「分かった」

 ロイさんは粉を受け取ると、切れ目の前に立った。少しずつ粉を撒く。白い点が空中に止まる。その上へ足を置く。落ちなかった。小さく、床を踏む音がした。ロイさんはそのまま、一歩ずつ進んだ。粉を撒き、点を見て、足を置く。見えないだけで、そこには道があった。ロイさんが向こう側へ着くと、ロープを引いた。

「来い」

 次にハリスさんが渡った。続いて、ハリエットちゃん、オーレリアちゃん。みんな、粉の点だけを見て進んだ。わたしの番になった。下は見ない。粉だけを見る。

 そう決めたのに、足はなかなか前に出なかった。何もない空中に足を出すようにしか見えない。でも、白い点はそこにある。そこに道がある。

「ミコトさん、大丈夫です」

 向こう側から、ハリエットちゃんが手を伸ばした。

「粉だけ見てください」

「はい」

 白い点を見る。その下は見えていても意識しない。足を出す。床があった。ちょっと安心する。次の点を見る。また足を出す。床があった。ちょっと安心する。それだけを繰り返した。最後の一歩で、ハリエットちゃんの手を掴んだ。引かれて、見える床の上に立つ。

「渡れた......」

「はい。渡れました」

 ハリエットちゃんが小さく頷いた。最後に、ヴァンさんが渡った。粉の跡を確かめるように、一歩ずつ、音も立てずに進んでくる。全員が、二つ目の切れ目を越えた。

 そこから先は、空気が変わった。通路は少し広くなり、壁の石も古くなったように見えた。ところどころに、削れた模様がある。星の形にも見えるし、ただの傷にも見える。階段と通路、そしてまた階段と通路を奥へ進む。ロープはまだ外さない。

 いくつかの短い通路と階段を越えた先、最後の階段を登りきると、扉のない部屋に出た。塔の最上階にある、広い部屋だった。周囲の壁に窓は無かった。天井は高く、硝子張りの天窓があった。太い梁が渡っている。その間に、大きな円形の枠があった。たぶん、開く仕組みになっている。けれど今は、ぴったりと閉じていた。金具も、硬く噛み合ったまま動きそうにない。雨が漏れてきた様子はなかった。

 そこから星明かりが差し込んでいて、部屋の中はぼんやりと明るかった。部屋の中央には、梯子のような、柱のような、二本の高い支え台が残っていた。ただの台座ではなかった。床から高く立ち上がり、上の方には太い梁が渡っている。ところどころに古い金具の跡があった。昔は、そこに何か長くて大きなものが斜めに置かれていたのだと思う。

「望遠鏡か」

 ハリスさんが小さく言いながら、ロープを外す。皆も続いた。

「大型のものだったみたいなのよぅ」

 オーレリアちゃんが周りを見た。肝心の望遠鏡は、どこにもなかった。壁際には棚があった。けれど、中は全て空っぽだった。昔は記録や星図のようなものが収められていたのかもしれない。でも、今は何も残っていない。
 
 床に染みはない。埃は、古いまま静かに積もっている。長い間、誰も来ていない場所に見えた。けれど、部屋の奥だけが違った。二本の支え台から少し外れた、傍らの床。そこに、一冊の本が置かれていた。床に、直接。古い本だった。表紙は黒ずんでいて、題名は読めない。金具は錆び、角は擦り切れている。けれど、その本だけ、埃をかぶっていなかった。まるで、誰かがさっきそこに置いたみたいに。でも、そんなはずはない。ここまでの道は、誰かが簡単に来られる場所ではなかった。

 ヴァンさんが、皆より一歩前に出る。ハリエットちゃんが、すぐに言った。

「それに触らないで」
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第二十九話 跳べ

「これ」

 声が、小さく出た。

「どうやって渡るんですか?」

 通路は、途中で途切れていた。こちら側の床と、向こう側の床。その間には、大きな切れ目がある。下は見える。ここまで登ってきた高さが、そのまま足元に落ちている。たぶん、四階くらい。もしも転落したら、きっと助からない。

「跳ぶしかないな」

 ロイさんが言った。

「跳ぶんですか」

「他に道がない」

 ロイさんは向こう側を見た。ハリスさんがロープを手繰る。ヴァンさんが後ろで弛みを取る。ロイさんが一度だけ頷いた。それだけだった。ロイさんが一歩下がる。走る。床の端を蹴る。

 跳ぶ。

 体が空中に出る。足元には何もない。ロープが張って、ハリスさんとヴァンさんの腕に力が入る。ロイさんの足が、向こう側の床に届いた。片膝をつく。けれど、落ちなかった。

「着いた」

 ロイさんはすぐに立ち上がり、向こう側でロープを握った。壁の欠けた石にロープを回し、片手で押さえる。

「次」

 ハリスさんが言った。自分のことだった。ハリスさんはロープの長さを見た。ヴァンさんが頷く。ハリスさんも頷き返す。すぐに跳んだ。ロイさんほど大きくは跳ばない。けれど、無駄がない。着く場所を決めて、そこへ体を運ぶみたいな跳び方だった。ロイさんが腕を伸ばす。ハリスさんの手を掴む。ハリスさんは向こう側へ膝をつき、そのまま床へ上がった。

「問題ない」

 ハリスさんが言った。

「次、ハリエット」

「うん」

 ハリエットちゃんは小さく頷いた。ロープの長さを整える。息を整える。向こう側で、ハリスさんとロイさんが手を伸ばす。ハリエットちゃんは床の端を蹴った。ふわり、と軽く見えた。それでも、下は四階分ある。ハリエットちゃんの手が、ハリスさんの手に届く。ロイさんも腕を伸ばして、肩を支える。ハリエットちゃんは向こう側へ渡った。

「大丈夫です」

 次は、オーレリアちゃんだった。オーレリアちゃんは手帳を抱えたまま切れ目を見る。

「手帳は」

 ロイさんが言った。

「持っていくのよぅ」

「両手を空けた方がいい」

「......分かっているのよぅ」

 オーレリアちゃんは不満そうに、手帳をヴァンさんに渡した。

「ん。預かる」

 頷くと、オーレリアちゃんは前に出た。一度だけ深く息を吸う。そして、跳んだ。高くはない。綺麗でもない。けれど、ちゃんと前へ跳んだ。ロープが張る。ロイさんが引く。ハリスさんが支える。オーレリアちゃんの足が向こう側の端に当たり、少し滑る。

「オリィ!」

 ロイさんの腕が、オーレリアちゃんを抱き留めた。オーレリアちゃんはロイさんの服を掴んだまま、しばらく動かなかった。そっか、そういう時は、オリィって呼ぶんだ。ちょっと羨ましくなった。

「大丈夫か」

「全然平気、ロイ様は大げさなのよぅ」

 次は、わたしだった。

「......はい」

 誰にも呼ばれていないのに、返事をしてしまった。足が動かない。見なければいいのに、見てしまう。下がある。高さがある。落ちたら助からない。考えるほど、体が固まっていく。向こう側で、ハリスさんがロープを引いた。

「ミコトさん、少し前へ」

「はい」

 声が少し裏返った。向こう側で、ハリエットちゃんが手を伸ばしている。ロイさんも、オーレリアちゃんも見ている。ハリスさんはロープを握っていた。こちら側には、ヴァンさんがいる。背中を見られている。

「ミコト」

 ヴァンさんが言った。

「下を見るな」

「見てません」

「見てる」

「......はい」

 見ていた。すごく見ていた。

「前だけ見ろ」

 前。向こう側。ハリエットちゃんの手。そこだけを見ればいい。分かっている。分かっているのに、足が動かない。わたしは、運動が得意ではない。跳ぶのも得意ではない。体力も筋力も瞬発力もない。さっきだって、ほとんど引きずり上げてもらった。そんなわたしが、四階分の高さの上で、通路の切れ目を跳ぼうとしている。どう考えても向いていない。

「ミコト」

 ヴァンさんの声は短かった。

「跳べ」

 それだけだった。大丈夫だとも、怖くないとも言わなかった。跳べるとも言ってくれなかった。

 跳べ。

 ただ、それだけ。わたしは、ハリエットちゃんの手を見た。落ちたら助からない。でも、落ちないようにしてくれている人達がいる。跳べる跳べないじゃない。跳ぶしかない。当たり前の事だ。ヴァンさんは、いつも当たり前のことを、当然のように言う。それがすごい。やっぱり跳ぶしかない。跳ぶしかないかぁ。わたしは覚悟を決めた。

「......ミコト、行きます」

 床を蹴る。跳んだ。下が、視界の端に入った。でも見ない。見たくない。足が空中に浮く。体が前へ進む。届かないかもしれないと思った。次の瞬間、腰のロープが引かれる。

「ミコトさん!」

 ハリエットちゃんの手が、わたしの手を掴んだ。ロイさんの腕が、わたしの肩を支える。膝が向こう側の床にぶつかった。

「っ」

 痛い。でも、床だった。わたしは床にしがみついた。相当みっともない気がした。

「着いた......」

 それだけ言うと、力が抜けた。

「大丈夫?」

 ハリエットちゃんが聞く。

「はい。たぶん。膝は、あとで痛くなると思います」

「今は痛くないの?」

「今は、怖い方が勝ってます」

 ハリエットちゃんが小さく笑った。最後に、ヴァンさんが残った。オーレリアちゃんの大きな手帳を抱えている。ヴァンさんは、切れ目の手前に立つ。距離を見る。足場を見る。下も見る。上も見る。きっと色々と何かわたしの分からないところまで見て、考えている。

「ヴァンさ...」

 わたしが呼び終える前に、ヴァンさんは跳んでいた。速かった。一歩で床を蹴って、体が空中を渡る。ロープが張るより先に、ヴァンさんの足は、こちら側の床を捉えていた。片手を床につき、そのまま立ち上がる。

「......すごい」

 思わず言ってしまった。ヴァンさんは少しだけ首をかしげた。

「跳んだ。それだけ」

 それがすごいのだと思ったけれど、言ってもたぶん伝わらない。ヴァンさんは、預かっていた手帳をオーレリアちゃんへ返した。オーレリアちゃんはそれを受け取ると、すぐ胸元へ抱えた。

 全員が、切れ目を渡った。でも、通路はまだ続いていた。古い石の壁。細い床。低い天井。窓はない。空気は重い。石の匂いに、何か古い紙の匂いが混ざっている。わたし達は、ロープを結んだまま進んだ。誰も、もう軽口を叩かなかった。また、先頭のロイさんが止まった。

「またか」

 前を見る。通路が、また途切れていた。今度は、さっきよりずっと長い。向こう側の床は見える。けれど、遠い。勢いをつければ届くかもしれない、という距離ではなかった。人が跳んで渡れる距離ではない。

「無理だ。オレでも届かない」

 ロイさんが言った。ヴァンさんも、無言で切れ目を見ていた。

「ヴァンさんは」

 聞きかけて、途中で止まった。ヴァンさんは首を横に振った。

「これは無理だ」

 ハリスさんがしゃがんで、切れ目を睨む。ロイさんでも無理。ヴァンさんでも無理。なら、誰にも跳んで渡るのは無理だ。ハリエットちゃんは黙ってロープを握り直した。オーレリアちゃんは、手帳に何か書き込んでいる。

 皆が沈黙している中で、ハリスさんが、床の端を指先でこすった。古い石の欠けたところから、白っぽい粉が少し落ちる。

 落ちるはずだった。

 けれど、その一部が、何もない空中で止まった。

「あれ? 今......」

 わたしが言うと、ハリスさんがすぐにその場所を見た。ヴァンさんも目を細める。白い粒が、何もないはずの空中に乗っている。

「ロイ、石を少し削れるか」

「できる」

 ロイさんが壁の欠けたところを刃で削った。白い粉が落ちる。ハリスさんはそれを受け取ると、切れ目の上へそっと撒いた。粉のいくつかが、空中で止まった。点々と、何もない場所に並んでいる。

「道、なのよぅ?」

 オーレリアちゃんが小さく言った。

「たぶん」

 ハリスさんはそれ以上、説明しなかった。見えない道がある。今は、それで十分だった。

「先頭はそのままロイ。粉を撒きながら進め」

「分かった」

 ロイさんは粉を受け取ると、切れ目の前に立った。少しずつ粉を撒く。白い点が空中に止まる。その上へ足を置く。落ちなかった。小さく、床を踏む音がした。ロイさんはそのまま、一歩ずつ進んだ。粉を撒き、点を見て、足を置く。見えないだけで、そこには道があった。ロイさんが向こう側へ着くと、ロープを引いた。

「来い」

 次にハリスさんが渡った。続いて、ハリエットちゃん、オーレリアちゃん。みんな、粉の点だけを見て進んだ。わたしの番になった。下は見ない。粉だけを見る。

 そう決めたのに、足はなかなか前に出なかった。何もない空中に足を出すようにしか見えない。でも、白い点はそこにある。そこに道がある。

「ミコトさん、大丈夫です」

 向こう側から、ハリエットちゃんが手を伸ばした。

「粉だけ見てください」

「はい」

 白い点を見る。その下は見えていても意識しない。足を出す。床があった。ちょっと安心する。次の点を見る。また足を出す。床があった。ちょっと安心する。それだけを繰り返した。最後の一歩で、ハリエットちゃんの手を掴んだ。引かれて、見える床の上に立つ。

「渡れた......」

「はい。渡れました」

 ハリエットちゃんが小さく頷いた。最後に、ヴァンさんが渡った。粉の跡を確かめるように、一歩ずつ、音も立てずに進んでくる。全員が、二つ目の切れ目を越えた。

 そこから先は、空気が変わった。通路は少し広くなり、壁の石も古くなったように見えた。ところどころに、削れた模様がある。星の形にも見えるし、ただの傷にも見える。階段と通路、そしてまた階段と通路を奥へ進む。ロープはまだ外さない。

 いくつかの短い通路と階段を越えた先、最後の階段を登りきると、扉のない部屋に出た。塔の最上階にある、広い部屋だった。周囲の壁に窓は無かった。天井は高く、硝子張りの天窓があった。太い梁が渡っている。その間に、大きな円形の枠があった。たぶん、開く仕組みになっている。けれど今は、ぴったりと閉じていた。金具も、硬く噛み合ったまま動きそうにない。雨が漏れてきた様子はなかった。

 そこから星明かりが差し込んでいて、部屋の中はぼんやりと明るかった。部屋の中央には、梯子のような、柱のような、二本の高い支え台が残っていた。ただの台座ではなかった。床から高く立ち上がり、上の方には太い梁が渡っている。ところどころに古い金具の跡があった。昔は、そこに何か長くて大きなものが斜めに置かれていたのだと思う。

「望遠鏡か」

 ハリスさんが小さく言いながら、ロープを外す。皆も続いた。

「大型のものだったみたいなのよぅ」

 オーレリアちゃんが周りを見た。肝心の望遠鏡は、どこにもなかった。壁際には棚があった。けれど、中は全て空っぽだった。昔は記録や星図のようなものが収められていたのかもしれない。でも、今は何も残っていない。
 
 床に染みはない。埃は、古いまま静かに積もっている。長い間、誰も来ていない場所に見えた。けれど、部屋の奥だけが違った。二本の支え台から少し外れた、傍らの床。そこに、一冊の本が置かれていた。床に、直接。古い本だった。表紙は黒ずんでいて、題名は読めない。金具は錆び、角は擦り切れている。けれど、その本だけ、埃をかぶっていなかった。まるで、誰かがさっきそこに置いたみたいに。でも、そんなはずはない。ここまでの道は、誰かが簡単に来られる場所ではなかった。

 ヴァンさんが、皆より一歩前に出る。ハリエットちゃんが、すぐに言った。

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