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第三十話 禁断の書


 戦術タクティカルドルイド。

 その呼び名は、あまり好きではない。私は森祭司ドルイドのような世捨て人ではないし、戦術なんて怖いものにも興味がない。欠片もない。けれど、今この時だけは、先生から学んだ戦いの教えが、とてもありがたいと思った。

 未踏領域。

 そこへ踏み込む前には、何かしらの探知魔法を起動させておくこと。この部屋は、まさに未踏領域だった。星見の塔、開かずの塔、その最上階。

 何が待ち受けているか分からない。滑り台の階段よりも酷い罠が待ち受けている可能性もある。だから、罠を感知したいけれど、私の持つ陥穽感知ファーレオーブルの呪文は、野外で底なし沼や流砂、落石しそうな場所を見付ける事はできても、こういう人工物の中ではほとんど役に立たない。だから、生命感知レーベンオーブルの呪文も違う。誰かが隠れている可能性を完全には捨て切れないけれど、そういうのは多分、ヴァン君が見付けてくれる。それじゃ、毒物感知ギフトオーブルの呪文はどうだろう。もしかすると、教科書で読んだ毒針の飛び出す罠があるかも知れない。これは障壁も貫通して毒の気配を見付けてくれるし、ヴァン君やハリスの目が届かない所も補える。

「望遠鏡か」

 そんな事を考えている間に、弟の声が聞こえた。みんな、ロープを外して部屋の中へ入ってしまっている。そこは昔、星を見るために使われていた場所。けれど今は、望遠鏡もなく、資料もなく、誰かが使っている気配もない。閉じた天窓から落ちる星明かりだけが、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。少し寂しいのに、何だか神秘的な場所。床も、壁も、天井も、棚も、中央に残された二本の高い支え台も、見えるものはすべて古くて、歴史の香りがした。

 ......って、感慨に浸っている場合じゃないでしょ、ハリエット。

 邪性感知ベーゼオーブルを使って、悪いモノが潜んでないか見なきゃ。ううん、違う。探すのは悪いモノじゃなくて危険なモノ。清らかに見えるものが、本当に人を傷つけないとも限らない。だからって、善性感知グーテオーブルを使うのも違う。やっぱり、基本の基本で探知するのが正解よね。

「魔法感知マギーオーブル」

 小さく唱えると、視界が変わる。世界の形が変わるわけではない。石の床も、壁も、梁も、天井も、二本の支え台も、そこにあるものは同じだった。ただ、薄い膜が重なるように淡い気配が浮かび上がる。肉眼では見えないものが、漂う光と色の気配として私の意識に触れてくる。うん、この感覚は不思議。世界が違って見える。朝と昼、夕と夜の他に、もう一つの時間帯があるみたいに、視界の光が異なって見える。

 石壁には、古い残り香のようなものがあるわね。もう働いてはいない。けれど、完全には消えていない。長い時間をかけて薄まり、乾き、石の奥へ沈んだ魔法の名残かしら。昔ここで使われていた術式か、塔そのものに染みついた力か、そこまでは分からないけれど、ただ、静かね。とても静か。まるで役目を終えたものが、墓標を残すかのように、もう死んでいるのと変わらない。

 二本の支え台、名前は何ていうのか分からないけれど、こっちにもかすかな光が残っているわね。梯子のような、柱のような高い支え台。上の梁。古い金具の跡。そこに置かれていた大きな望遠鏡を支えるためのものだったのだと思うけれど、天窓の枠にも、薄い筋のような気配がある。多分、開閉術アウフツーを使って窓の開け閉めを助けるものかも。でも、随分と長い間あれは使われていないから、まるで眠っているみたい。

 ヴァン君が、一歩前に出た。

 その視線の先には一冊の本があった。それは、光っているというより、滲んでいた。黒ずんだ表紙の内側から、赤黒いものが染み出しているように見えた。もちろん、本当に赤いものが目に見えたわけではない。魔力の気配は、人によって違うものとして感じられる。私には、それが冷たく、重く、胸の奥を押さえるような赤黒さとして伝わってきただけだ。こんな色では、力術系なのか変成系なのか、魔法系統の判別もできやしないわ。

 あの本の周りだけ、空気が違う。邪悪だとは、まだ言えない。でも危険なのは間違いない。強力な魔法の力。それだけは分かった。ヴァン君が、確かめようとしてる。だめ。言わなきゃ。

「それに触らないで」

 ヴァン君の足が止まった。すぐに、みんなの視線が私へ向いた。ミコトさんの目が大きくなる。オーレリアは手帳を抱えたまま、私と本を交互に見た。ロイ君は、オーレリアの前に半歩出る。弟のハリスは、私の顔を見てから、床の本を見た。

「何がある?」

 弟が聞いた。

「魔法の気配があります。それも強力な」

 私は答えた。我ながら声が少し固くなった。怖がらせたいわけではない。けれど、軽く言えるものでもなかったし、危険の可能性は、皆に知って貰いたかった。

「部屋全体にも、古い残留魔力はあります。でも、それは薄くて、もう眠っているようなものです。けれど、あの本だけは違います」

「何の魔法か分かる?」

 オーレリアが聞いた。

「分かりません」

 私は首を振る。推測は幾つか思い浮かぶけれど、先入観を与えて、みんなの考え方を縛るのは良くない。

「魔法感知マギーオーブルだけでは、そこまでは分かりません。ただ、触らない方がいいと思います」

 弟は黙って頷いた。こういう時、分からないって事を責めたりしないから、私はすごく助かる。弟が意見を求めるまで、私は自分の勝手な推測を言わなくても大丈夫。考察の邪魔をしない。それが賢い弟を持つ姉の務めだから。

「本だけ埃をかぶっていないのよぅ」

 オーレリアが小さく言った。流石の観察眼だわ。彼女は、もう見た事を手帳に書き記してある。字がちょっと震えているから、怖がっていないわけではないと思う。けれど、怖いものを怖いまま記録しようとする。

「この部屋は、長く使われていないのよぅ。棚も空、床の埃も古い。でも、あの本だけ、ちょっと新しいのよぅ」

「誰かが最近置いた?」

 ロイ君が言った。弟が答える。

「それなら、ここまで来た人がいることになる。しかも、埃のある床の上に足跡一つ残さず。それに、塔の入口は鍵も締まっているし、あの天窓も開けられた感じはしない。つまり、密室。...その人はどうやって入って、どうやって出た? ここへ来るまでの道も、普通の道では無かった」

「確かに普通の道ではないのよぅ」

 オーレリアが、少しだけ手帳を抱え直した。ミコトさんは、本を見つめていた。ミコトさんも怖がっているように見えたし、目を離せないでいるようにも見えた。私は、そっと彼女のそばへ寄った。何かあれば腕を引ける距離。そうしているだけで、少しだけ落ち着く。ミコトさんが危なっかしいから、というのもあるけれど、私がこうしたい気持ちも少しある。

 その時、本が開いた。

 誰も触れていなかった。黒ずんだ表紙が、ゆっくりと持ち上がる。古い頁が、一枚、見える。風はない。天窓も閉じている。部屋の空気は動いていない。それなのに、頁は、自分でめくられるように動いた。

 私は息を呑んだ。触れてはいけない。見てもいけない。でも、そうする以外に思い付く事が他に何もない。でも嫌だ。どうしよう。私はミコトさんを見た。ミコトさんは、別の誰かを見ていた。期待を込めて見ているように感じた。その視線の先に、ヴァン君がいた。

 ヴァン君は、逃げなかった。

 本には触れなかった。でも見据えていた。ただ、開かれた頁を見て、そこに書かれた題名を読み上げてくれた。

『ハンナの日記』

 ハンナ。知らない名前だ。けれど、その名前を見た時、胸の奥が少し痛くなった。魔法のせいかもしれない。日記という言葉のせいかもしれない。分からない。でも、誰かが自分の名前を題にして残したものが、こんな場所で、こんな姿になっていることが、もう痛かった。分からないけれど、痛かった。

 弟がヴァン君の隣に行き、彼に代わって朗読する。頁が、ゆっくりと進む。

『983年 4月15日 憧れのヴェナリス様に、勇気を出して告白した。......見事にフラれた。無能が近寄るなとまで言われた。ショックだった』

 誰も笑わなかった。笑えるはずがなかった。

『4月17日 彼に告白した事が、みんなにばれた。特にシェリーヌにばれたのが痛い』

『4月22日 誰かが私の机に馬糞を入れた』

 ミコトさんが、小さく息を呑んだ。

『5月7日 私の食事に、毛虫が入っていた。毒を持って居たらしく、喉が痛い。明日は合唱の日なのに変な声になった』

「ひどい......」

 ミコトさんの声が震えた。

 ひどい。

 その言葉は正しい。けれど、日記の中の出来事は、正しい言葉を置いたくらいでは少しも軽くならなかった。それどころか、益々ひどい事になっていった。

『6月12日 大雨なのに私の傘が無い。レインコートも破かれていた』

『6月13日 風邪を引いた。でも先生には仮病を使うなと言われた。頭が痛い。熱が下がらない。吐き気もする』

 弟の声が沈んで行く。私は怒っているのだと思った。弟は、怒る時に大きな声を出さない。けれど、何が誰の責任なのかを見過ごさない。たぶん今も、日付と出来事と、そこにいたはずの大人達の不在を、頭の中で一つずつ並べている。怒りを、いつか放つべき矢へと、作り変えている。弟は、ハリスはそういう子。

『7月9日 母が病気になった。薬代が必要だ。貧乏貴族のうちには何も宛てがない』

『7月12日 大金を貸してくれる人に出会えた。明日は、いい服を着て行こう』

 そこで、オーレリアの指が止まった。何かを書こうとしていたのかもしれない。けれど、書けなかったのだと思う。書いてしまえば、それを形にしてしまう。けれど、形にしなければ消えてしまう。オーレリアは、そういうものの前で、一瞬だけ迷っているように見えた。何でもかんでも記録すればいいと考えるような、そんな浅慮な子じゃないからだ。オーレリア、私の親友は。

 次の頁は、短かった。

『7月13日 死にたい。』

 部屋の空気が、重くなった。私は胸元を押さえた。魔法の気配だけではない。文字が重い。たった一言なのに、その向こうにあるものが重すぎる。私と弟、ヤクトブレオ家も、虐められた。死にたいって思った時もある。だから、ちょっとは分かる。......でも、日記に書き残すほど、私は死にたいとは思わなかった。弟がいたから。でも、この子は、ハンナはひとりで抱えている。

『7月15日 母の容態が悪くなった。薬は無い。恥を忍んで、誰かに助けて貰おうかと思ったが、友達は誰もいない。先生も頼りにならない。神父様に聞いてみよう』

『7月16日 神父様は病気を治す力があるらしい。お金を貯めよう』

 ロイ君の手が、ぎゅっと握られた。ロイ君は真っ直ぐな人だ。目を見たら、もうずっと怒っている。直ぐに分かる。そんな所が時々、真っ直ぐすぎて危なっかしい。けれど、こういう時、その真っ直ぐさは、とても大事なものに思える。彼がオーレリアの傍にいてくれる。それだけで私は安心する。

 頁は進む。

『8月24日 ついにお金が溜まった。もうあんな事はしなくていい。やっと解放される』

『8月25日 神父様にお金を払った。明日、母の所に来て貰える。約束した』

『8月26日 待ったけれど、来なかった。きっと何か急用だったのかも知れない。明日ちょっと尋ねてみよう』

 私は、目を伏せたくなった。でも、伏せなかった。あんな事。もう、それがどういう事なのか分からない年齢じゃない。オーレリアも、ミコトさんも分かっていると思う。でもヴァン君は、ちょっと分かってない感じがする。もしかしたらロイ君も。うん、この二人はそれでいい。でも、弟は分かっている。私が、あんな事になりそうだったから。どうやって若い女の子が、お金を溜められるのか、知っているから。

 これは、もう他人事じゃない。

 最後まで読まなきゃ。

『8月27日 お金の事を尋ねたら、知らないと言われた。嘘吐きは地獄に落ちると言われた。クラスメイトはみんなで私を笑った。でもヴェナリス様だけは、笑わなかった。ちょっと嬉しい。やっぱり未だ好きなのかも......』

 誰も、何も言わなかった。

『8月28日 ヴェナリス様に、昨日の事で、ありがとうを伝えに行った。でも違った。おまえ相手に笑ってやる価値すら無いと言われた。まだ、一緒になって笑ってくれてた方がマシだった。もう死にたい』

 ミコトさんが、口元を押さえた。私は、その手を見た。何か言ってあげたいのに、何も言えない。そういう手だった。私も同じ。痛かったですね、と言いたかった。苦しかったですね、と言いたかった。でも、それは今ここで、私が言ってよい言葉なのか分からなかった。とりあえず、ヴェナリスってやつは、殴ってやりたい。

『8月29日 遂に、母が死んだ』

 短い一文だった。だからこそ、何も言えなかった。

 母が死んだ。

 そこに、泣いたとも、叫んだとも、悲しいとも、苦しいとも書かれていない。書かれていないことが、かえって怖い。もう、書く力が残っていなかったのかもしれない。それとも、書き切れないぐらい、気持ちがいっぱいなのかも。

 最後の頁が開いた。

『8月30日 さようなら、ハンナの人生は、無意味で無価値でした』

 その後には、白紙の頁が続いていた。

 白い頁。

 何も書かれていない頁。

 でも、空っぽには見えなかった。言えなかったこと。届かなかったこと。怒り。恥ずかしさ。悲しみ。助けてほしかったという声。そういうものが、文字にならないまま、白いところへ押し込められているように見えた。途中で終わっている日記、それがこんなに怖いなんて、知らなかった。

 その時、背後で石の擦れる音がした。

 え、なに?

 入口の周りの石壁が、薄い板のようにめくれていた。ぱたぱたと乾いた音を立てて、石の表面が起き上がり、折れ、重なり、入口へ集まっていく。扉が閉じたのではない。扉などなかった。開いていた場所そのものが、石に塗りつぶされていく。私は直ぐに何かの呪文を疑った。呪文学の授業で習った内容を思い出して、該当する呪文は何か無いか、必死に思い出す。

 |石塑の術カムネレープ。

 石が、石のまま、別の形になる。さっきの階段滑り台の罠も、これと同じだ。でも呪文を掛けた術者の姿が見えない。さっきみた魔法感知マギーオーブルでは、壁にそんな強い魔力は残ってなかった。新たに発動された魔法である事に間違いはないのに、どうして。

「入口が」

 ミコトさんが言った。ロイ君が動こうとした。弟が止めようとする。

「待て」

 でも、間に合わなかった。入口は、あっという間に半分以上塞がっていた。石の表面が次々とめくれ、重なり、ならされていく。開いていた場所が、ただの壁になっていく。外へ戻る道が、目の前で消えていく。

 私は、思わずミコトさんの袖を掴んだ。振り返ったのは、私だけではない。ロイ君も、オーレリアも、ミコトさんも、弟も入口を見ていた。けれど、ヴァン君だけは違った。彼は入口を横目で一度見ただけで、すぐに本へ視線を戻していた。

 本から目を離していない。

 そのことが、かえって怖かった。ヴァン君は、入口が危なくないと思っているわけではない。閉じ込められたことに気付いていないわけでもない。ただ、何が元凶なのか、もう分かっているような態度だった。

 あの本。

 間違いない。あの本が元凶だ。そう言えば少し習った事がある。禁書。絶対に読んじゃいけない禁断の書物。多分、あれがそうなのかも知れない。

「ハンナ・エードラ......」

 オーレリアが、ほとんど息だけで名前を言った。

「知ってるのか」

 ハリスが聞く。

「名前だけなら、古い記録にあったかもしれないのよぅ。でも、こんなことまでは......、それにヴェナリスって......」

 オーレリアの声は、そこで途切れた。その時、白紙の頁の端に、黒いものが滲んだ。

 最初は、インクに見えた。

 けれど、ただの黒ではなかった。赤黒い。紙の奥から押し出されるように、じわりと広がる。文字になりそこねたものが、頁の端から溢れてくるようだった。それは、はっきりとした黒紫色の光を放つ魔法の力を帯びていた。この黒紫は、死霊術系の魔法を示す色だ。

「離れて!」

 私は言った。言い終わる前に、ヴァン君が動いた。

「下がれ」

 短い声。ロイ君がオーレリアを庇う。弟がこちらへ振り向く。私はミコトさんの腕を引こうとした。けれど、赤黒いものはもう、本の外へ垂れていた。

 紙から表紙へ。

 表紙から床へ。

 ぽたり、と落ちる。

 床の上で広がったそれは、水のようには流れなかった。薄くほどける。煙のように立ち昇る。色のついた影みたいに、床から剥がれて、低く、薄く、広く、部屋の中へと満ちて行く。

 息が苦しい。

 そう思った。でも、そう思った時には、もう遅かった。

 最初に、ロイ君が低く呻いて、喉を抑えた。
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第三十話 禁断の書


 戦術タクティカルドルイド。

 その呼び名は、あまり好きではない。私は森祭司ドルイドのような世捨て人ではないし、戦術なんて怖いものにも興味がない。欠片もない。けれど、今この時だけは、先生から学んだ戦いの教えが、とてもありがたいと思った。

 未踏領域。

 そこへ踏み込む前には、何かしらの探知魔法を起動させておくこと。この部屋は、まさに未踏領域だった。星見の塔、開かずの塔、その最上階。

 何が待ち受けているか分からない。滑り台の階段よりも酷い罠が待ち受けている可能性もある。だから、罠を感知したいけれど、私の持つ陥穽感知ファーレオーブルの呪文は、野外で底なし沼や流砂、落石しそうな場所を見付ける事はできても、こういう人工物の中ではほとんど役に立たない。だから、生命感知レーベンオーブルの呪文も違う。誰かが隠れている可能性を完全には捨て切れないけれど、そういうのは多分、ヴァン君が見付けてくれる。それじゃ、毒物感知ギフトオーブルの呪文はどうだろう。もしかすると、教科書で読んだ毒針の飛び出す罠があるかも知れない。これは障壁も貫通して毒の気配を見付けてくれるし、ヴァン君やハリスの目が届かない所も補える。

「望遠鏡か」

 そんな事を考えている間に、弟の声が聞こえた。みんな、ロープを外して部屋の中へ入ってしまっている。そこは昔、星を見るために使われていた場所。けれど今は、望遠鏡もなく、資料もなく、誰かが使っている気配もない。閉じた天窓から落ちる星明かりだけが、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。少し寂しいのに、何だか神秘的な場所。床も、壁も、天井も、棚も、中央に残された二本の高い支え台も、見えるものはすべて古くて、歴史の香りがした。

 ......って、感慨に浸っている場合じゃないでしょ、ハリエット。

 邪性感知ベーゼオーブルを使って、悪いモノが潜んでないか見なきゃ。ううん、違う。探すのは悪いモノじゃなくて危険なモノ。清らかに見えるものが、本当に人を傷つけないとも限らない。だからって、善性感知グーテオーブルを使うのも違う。やっぱり、基本の基本で探知するのが正解よね。

「魔法感知マギーオーブル」

 小さく唱えると、視界が変わる。世界の形が変わるわけではない。石の床も、壁も、梁も、天井も、二本の支え台も、そこにあるものは同じだった。ただ、薄い膜が重なるように淡い気配が浮かび上がる。肉眼では見えないものが、漂う光と色の気配として私の意識に触れてくる。うん、この感覚は不思議。世界が違って見える。朝と昼、夕と夜の他に、もう一つの時間帯があるみたいに、視界の光が異なって見える。

 石壁には、古い残り香のようなものがあるわね。もう働いてはいない。けれど、完全には消えていない。長い時間をかけて薄まり、乾き、石の奥へ沈んだ魔法の名残かしら。昔ここで使われていた術式か、塔そのものに染みついた力か、そこまでは分からないけれど、ただ、静かね。とても静か。まるで役目を終えたものが、墓標を残すかのように、もう死んでいるのと変わらない。

 二本の支え台、名前は何ていうのか分からないけれど、こっちにもかすかな光が残っているわね。梯子のような、柱のような高い支え台。上の梁。古い金具の跡。そこに置かれていた大きな望遠鏡を支えるためのものだったのだと思うけれど、天窓の枠にも、薄い筋のような気配がある。多分、開閉術アウフツーを使って窓の開け閉めを助けるものかも。でも、随分と長い間あれは使われていないから、まるで眠っているみたい。

 ヴァン君が、一歩前に出た。

 その視線の先には一冊の本があった。それは、光っているというより、滲んでいた。黒ずんだ表紙の内側から、赤黒いものが染み出しているように見えた。もちろん、本当に赤いものが目に見えたわけではない。魔力の気配は、人によって違うものとして感じられる。私には、それが冷たく、重く、胸の奥を押さえるような赤黒さとして伝わってきただけだ。こんな色では、力術系なのか変成系なのか、魔法系統の判別もできやしないわ。

 あの本の周りだけ、空気が違う。邪悪だとは、まだ言えない。でも危険なのは間違いない。強力な魔法の力。それだけは分かった。ヴァン君が、確かめようとしてる。だめ。言わなきゃ。

「それに触らないで」

 ヴァン君の足が止まった。すぐに、みんなの視線が私へ向いた。ミコトさんの目が大きくなる。オーレリアは手帳を抱えたまま、私と本を交互に見た。ロイ君は、オーレリアの前に半歩出る。弟のハリスは、私の顔を見てから、床の本を見た。

「何がある?」

 弟が聞いた。

「魔法の気配があります。それも強力な」

 私は答えた。我ながら声が少し固くなった。怖がらせたいわけではない。けれど、軽く言えるものでもなかったし、危険の可能性は、皆に知って貰いたかった。

「部屋全体にも、古い残留魔力はあります。でも、それは薄くて、もう眠っているようなものです。けれど、あの本だけは違います」

「何の魔法か分かる?」

 オーレリアが聞いた。

「分かりません」

 私は首を振る。推測は幾つか思い浮かぶけれど、先入観を与えて、みんなの考え方を縛るのは良くない。

「魔法感知マギーオーブルだけでは、そこまでは分かりません。ただ、触らない方がいいと思います」

 弟は黙って頷いた。こういう時、分からないって事を責めたりしないから、私はすごく助かる。弟が意見を求めるまで、私は自分の勝手な推測を言わなくても大丈夫。考察の邪魔をしない。それが賢い弟を持つ姉の務めだから。

「本だけ埃をかぶっていないのよぅ」

 オーレリアが小さく言った。流石の観察眼だわ。彼女は、もう見た事を手帳に書き記してある。字がちょっと震えているから、怖がっていないわけではないと思う。けれど、怖いものを怖いまま記録しようとする。

「この部屋は、長く使われていないのよぅ。棚も空、床の埃も古い。でも、あの本だけ、ちょっと新しいのよぅ」

「誰かが最近置いた?」

 ロイ君が言った。弟が答える。

「それなら、ここまで来た人がいることになる。しかも、埃のある床の上に足跡一つ残さず。それに、塔の入口は鍵も締まっているし、あの天窓も開けられた感じはしない。つまり、密室。...その人はどうやって入って、どうやって出た? ここへ来るまでの道も、普通の道では無かった」

「確かに普通の道ではないのよぅ」

 オーレリアが、少しだけ手帳を抱え直した。ミコトさんは、本を見つめていた。ミコトさんも怖がっているように見えたし、目を離せないでいるようにも見えた。私は、そっと彼女のそばへ寄った。何かあれば腕を引ける距離。そうしているだけで、少しだけ落ち着く。ミコトさんが危なっかしいから、というのもあるけれど、私がこうしたい気持ちも少しある。

 その時、本が開いた。

 誰も触れていなかった。黒ずんだ表紙が、ゆっくりと持ち上がる。古い頁が、一枚、見える。風はない。天窓も閉じている。部屋の空気は動いていない。それなのに、頁は、自分でめくられるように動いた。

 私は息を呑んだ。触れてはいけない。見てもいけない。でも、そうする以外に思い付く事が他に何もない。でも嫌だ。どうしよう。私はミコトさんを見た。ミコトさんは、別の誰かを見ていた。期待を込めて見ているように感じた。その視線の先に、ヴァン君がいた。

 ヴァン君は、逃げなかった。

 本には触れなかった。でも見据えていた。ただ、開かれた頁を見て、そこに書かれた題名を読み上げてくれた。

『ハンナの日記』

 ハンナ。知らない名前だ。けれど、その名前を見た時、胸の奥が少し痛くなった。魔法のせいかもしれない。日記という言葉のせいかもしれない。分からない。でも、誰かが自分の名前を題にして残したものが、こんな場所で、こんな姿になっていることが、もう痛かった。分からないけれど、痛かった。

 弟がヴァン君の隣に行き、彼に代わって朗読する。頁が、ゆっくりと進む。

『983年 4月15日 憧れのヴェナリス様に、勇気を出して告白した。......見事にフラれた。無能が近寄るなとまで言われた。ショックだった』

 誰も笑わなかった。笑えるはずがなかった。

『4月17日 彼に告白した事が、みんなにばれた。特にシェリーヌにばれたのが痛い』

『4月22日 誰かが私の机に馬糞を入れた』

 ミコトさんが、小さく息を呑んだ。

『5月7日 私の食事に、毛虫が入っていた。毒を持って居たらしく、喉が痛い。明日は合唱の日なのに変な声になった』

「ひどい......」

 ミコトさんの声が震えた。

 ひどい。

 その言葉は正しい。けれど、日記の中の出来事は、正しい言葉を置いたくらいでは少しも軽くならなかった。それどころか、益々ひどい事になっていった。

『6月12日 大雨なのに私の傘が無い。レインコートも破かれていた』

『6月13日 風邪を引いた。でも先生には仮病を使うなと言われた。頭が痛い。熱が下がらない。吐き気もする』

 弟の声が沈んで行く。私は怒っているのだと思った。弟は、怒る時に大きな声を出さない。けれど、何が誰の責任なのかを見過ごさない。たぶん今も、日付と出来事と、そこにいたはずの大人達の不在を、頭の中で一つずつ並べている。怒りを、いつか放つべき矢へと、作り変えている。弟は、ハリスはそういう子。

『7月9日 母が病気になった。薬代が必要だ。貧乏貴族のうちには何も宛てがない』

『7月12日 大金を貸してくれる人に出会えた。明日は、いい服を着て行こう』

 そこで、オーレリアの指が止まった。何かを書こうとしていたのかもしれない。けれど、書けなかったのだと思う。書いてしまえば、それを形にしてしまう。けれど、形にしなければ消えてしまう。オーレリアは、そういうものの前で、一瞬だけ迷っているように見えた。何でもかんでも記録すればいいと考えるような、そんな浅慮な子じゃないからだ。オーレリア、私の親友は。

 次の頁は、短かった。

『7月13日 死にたい。』

 部屋の空気が、重くなった。私は胸元を押さえた。魔法の気配だけではない。文字が重い。たった一言なのに、その向こうにあるものが重すぎる。私と弟、ヤクトブレオ家も、虐められた。死にたいって思った時もある。だから、ちょっとは分かる。......でも、日記に書き残すほど、私は死にたいとは思わなかった。弟がいたから。でも、この子は、ハンナはひとりで抱えている。

『7月15日 母の容態が悪くなった。薬は無い。恥を忍んで、誰かに助けて貰おうかと思ったが、友達は誰もいない。先生も頼りにならない。神父様に聞いてみよう』

『7月16日 神父様は病気を治す力があるらしい。お金を貯めよう』

 ロイ君の手が、ぎゅっと握られた。ロイ君は真っ直ぐな人だ。目を見たら、もうずっと怒っている。直ぐに分かる。そんな所が時々、真っ直ぐすぎて危なっかしい。けれど、こういう時、その真っ直ぐさは、とても大事なものに思える。彼がオーレリアの傍にいてくれる。それだけで私は安心する。

 頁は進む。

『8月24日 ついにお金が溜まった。もうあんな事はしなくていい。やっと解放される』

『8月25日 神父様にお金を払った。明日、母の所に来て貰える。約束した』

『8月26日 待ったけれど、来なかった。きっと何か急用だったのかも知れない。明日ちょっと尋ねてみよう』

 私は、目を伏せたくなった。でも、伏せなかった。あんな事。もう、それがどういう事なのか分からない年齢じゃない。オーレリアも、ミコトさんも分かっていると思う。でもヴァン君は、ちょっと分かってない感じがする。もしかしたらロイ君も。うん、この二人はそれでいい。でも、弟は分かっている。私が、あんな事になりそうだったから。どうやって若い女の子が、お金を溜められるのか、知っているから。

 これは、もう他人事じゃない。

 最後まで読まなきゃ。

『8月27日 お金の事を尋ねたら、知らないと言われた。嘘吐きは地獄に落ちると言われた。クラスメイトはみんなで私を笑った。でもヴェナリス様だけは、笑わなかった。ちょっと嬉しい。やっぱり未だ好きなのかも......』

 誰も、何も言わなかった。

『8月28日 ヴェナリス様に、昨日の事で、ありがとうを伝えに行った。でも違った。おまえ相手に笑ってやる価値すら無いと言われた。まだ、一緒になって笑ってくれてた方がマシだった。もう死にたい』

 ミコトさんが、口元を押さえた。私は、その手を見た。何か言ってあげたいのに、何も言えない。そういう手だった。私も同じ。痛かったですね、と言いたかった。苦しかったですね、と言いたかった。でも、それは今ここで、私が言ってよい言葉なのか分からなかった。とりあえず、ヴェナリスってやつは、殴ってやりたい。

『8月29日 遂に、母が死んだ』

 短い一文だった。だからこそ、何も言えなかった。

 母が死んだ。

 そこに、泣いたとも、叫んだとも、悲しいとも、苦しいとも書かれていない。書かれていないことが、かえって怖い。もう、書く力が残っていなかったのかもしれない。それとも、書き切れないぐらい、気持ちがいっぱいなのかも。

 最後の頁が開いた。

『8月30日 さようなら、ハンナの人生は、無意味で無価値でした』

 その後には、白紙の頁が続いていた。

 白い頁。

 何も書かれていない頁。

 でも、空っぽには見えなかった。言えなかったこと。届かなかったこと。怒り。恥ずかしさ。悲しみ。助けてほしかったという声。そういうものが、文字にならないまま、白いところへ押し込められているように見えた。途中で終わっている日記、それがこんなに怖いなんて、知らなかった。

 その時、背後で石の擦れる音がした。

 え、なに?

 入口の周りの石壁が、薄い板のようにめくれていた。ぱたぱたと乾いた音を立てて、石の表面が起き上がり、折れ、重なり、入口へ集まっていく。扉が閉じたのではない。扉などなかった。開いていた場所そのものが、石に塗りつぶされていく。私は直ぐに何かの呪文を疑った。呪文学の授業で習った内容を思い出して、該当する呪文は何か無いか、必死に思い出す。

 |石塑の術カムネレープ。

 石が、石のまま、別の形になる。さっきの階段滑り台の罠も、これと同じだ。でも呪文を掛けた術者の姿が見えない。さっきみた魔法感知マギーオーブルでは、壁にそんな強い魔力は残ってなかった。新たに発動された魔法である事に間違いはないのに、どうして。

「入口が」

 ミコトさんが言った。ロイ君が動こうとした。弟が止めようとする。

「待て」

 でも、間に合わなかった。入口は、あっという間に半分以上塞がっていた。石の表面が次々とめくれ、重なり、ならされていく。開いていた場所が、ただの壁になっていく。外へ戻る道が、目の前で消えていく。

 私は、思わずミコトさんの袖を掴んだ。振り返ったのは、私だけではない。ロイ君も、オーレリアも、ミコトさんも、弟も入口を見ていた。けれど、ヴァン君だけは違った。彼は入口を横目で一度見ただけで、すぐに本へ視線を戻していた。

 本から目を離していない。

 そのことが、かえって怖かった。ヴァン君は、入口が危なくないと思っているわけではない。閉じ込められたことに気付いていないわけでもない。ただ、何が元凶なのか、もう分かっているような態度だった。

 あの本。

 間違いない。あの本が元凶だ。そう言えば少し習った事がある。禁書。絶対に読んじゃいけない禁断の書物。多分、あれがそうなのかも知れない。

「ハンナ・エードラ......」

 オーレリアが、ほとんど息だけで名前を言った。

「知ってるのか」

 ハリスが聞く。

「名前だけなら、古い記録にあったかもしれないのよぅ。でも、こんなことまでは......、それにヴェナリスって......」

 オーレリアの声は、そこで途切れた。その時、白紙の頁の端に、黒いものが滲んだ。

 最初は、インクに見えた。

 けれど、ただの黒ではなかった。赤黒い。紙の奥から押し出されるように、じわりと広がる。文字になりそこねたものが、頁の端から溢れてくるようだった。それは、はっきりとした黒紫色の光を放つ魔法の力を帯びていた。この黒紫は、死霊術系の魔法を示す色だ。

「離れて!」

 私は言った。言い終わる前に、ヴァン君が動いた。

「下がれ」

 短い声。ロイ君がオーレリアを庇う。弟がこちらへ振り向く。私はミコトさんの腕を引こうとした。けれど、赤黒いものはもう、本の外へ垂れていた。

 紙から表紙へ。

 表紙から床へ。

 ぽたり、と落ちる。

 床の上で広がったそれは、水のようには流れなかった。薄くほどける。煙のように立ち昇る。色のついた影みたいに、床から剥がれて、低く、薄く、広く、部屋の中へと満ちて行く。

 息が苦しい。

 そう思った。でも、そう思った時には、もう遅かった。

 最初に、ロイ君が低く呻いて、喉を抑えた。
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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