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第十一話 金翼の街


 転移陣の光輪を抜けると、空気の匂いが変わった。

 古びた校舎の石と、静かな湖の匂いではない。
 焼いた麦と、果物と、革と、油。
 それから、どこか遠くで水が揺れている匂い。

 ミコトは一歩出たところで、足を止めた。

「......わ」

 声が漏れる。

 ヴァンは少し先で振り返った。

「どうした」

「今の、何ですか」

「転移陣ペレホート・ヴラター」

「転移」

 ミコトは後ろを見た。

 そこには、床に刻まれた円形の紋様がある。
 石畳の上に、細い金属線が幾重にも走り、中央には七つの小さな湖を模した印が並んでいた。

 その上には、もう何もない。

 さっきまでいた学院の廊下も、礼拝堂の静けさも、すっかり消えている。

「歩いて来たら遠い」

 ヴァンは短く言った。

「七つの湖は、それぞれ離れている。だから、こういう場所を使う」

「誰でも使えるんですか?」

「金を払えば」

「お金」

「学院生は学生証で通れる」

 ヴァンは、胸元の学生証を軽く指で叩いた。

 ミコトも慌てて、自分の学生証を見る。
 借り物の制服の胸元に下げられたそれは、まだ少し自分のものではない気がした。

「便利ですね」

「そうか?」

 ヴァンには、よく分からなかった。

 学生証で転移陣を使えるのは、学院生なら当たり前だった。
 けれどミコトは、転移陣の外縁に刻まれた文字まで、まじまじと見ている。

 ヴァンは少し待った。

「行くぞ」

「あ、はい」

 金翼湖ゴルトクリローの自由市場は、学院の中央通りとは違っていた。

 中央通りの店は、硝子窓も看板も整いすぎていて、ミコトには少し近寄りがたかった。
 けれどここは、もっと声が近い。

 布を広げた屋台。
 焼き菓子の匂い。
 樽に積まれた果物。
 紐で吊るされた小さな革袋。
 木箱の中で転がる色とりどりの糸玉。

 人の声が重なり合っている。

 小柄な人が多かった。
 子供かと思ったら、立派な髭を整えた大人だったりする。

「ハルプリングが多いんだ」

 ヴァンが言った。

 ミコトが見ているものを、少し遅れて察したらしい。

「金翼湖は、自由市場だから」

「自由市場」

「貴族の店じゃない。実用品が多い」

「だから、ルナのものを買いに?」

「中央通りで買うようなものじゃない」

 そう言って、ヴァンは歩き出す。

 ミコトはその隣を歩いた。

 石の橋を渡る時、また足が止まった。

 橋には継ぎ目がなかった。

 大きな一枚岩を削り出したようにも見える。
 けれど、欄干には細かな蔦の模様が浮かび、足元には波紋のような浅い凹凸が続いている。
 石なのに、どこか柔らかい。

「これ、どうやって作ってるんですか」

「石塑の術カムネレープ」

 ヴァンは答えた。

「石を粘土みたいにする。形を作って、固める」

「石を、粘土みたいに」

 ミコトは橋の欄干へそっと目を寄せた。

 触りかけて、手を引っ込める。

「彫刻家さんも、こういう魔法を使うんですか?」

「使うやつもいる。道具で削るやつもいる」

「魔法彫刻家、みたいな?」

「そう呼ぶやつもいる」

 ミコトは少しだけ黙った。

 たぶん、また何かを見比べている。

 ヴァンには、その全部は分からなかった。
 ただ、ミコトがこの街の普通のものに、いちいち足を止めることだけは分かった。

 市場の通りには、金属の蕾のようなものが等間隔に立っていた。

 ミコトがそれを見上げる。

「これは?」

「街灯」

「明かりですか?」

「中に永遠の灯ネウガシームが入ってる」

「でも、光ってません」

「昼だから蓋が閉じてる。時間になると開く」

 ヴァンは、街灯の上部を指した。

 蕾の合わせ目のような線がある。
 夜になれば、あそこが開いて、中の光が漏れる。

「消さないんですか?」

「消さない。覆う」

「なるほど......」

 ミコトは小さく頷いた。

 分かったような、まだ分かっていないような顔だった。

 その横を、大きな荷物が通った。

 いや、荷物を載せた円盤が通った。

 木箱がいくつも積まれている。
 それなのに、下には車輪がない。
 薄い円盤が地面から少し浮き、商人の後ろをすべるようについていく。

 ミコトが目で追った。

「浮いてます」

「荷運びの浮盤グルゾノース」

「便利ですね」

「重いものを運ぶ時はな」

 商人は慣れた様子で人の間を抜けていく。
 浮盤の上の木箱は、揺れはするが落ちない。

 市場の奥では、巡回の衛兵が二人歩いていた。

 持っているのは槍のようにも見える。
 けれど柄は太く、先端には金属の筒と術式らしき刻印があった。
 杖にも見える。

 ミコトがそちらを見ているのに気付いて、ヴァンは言った。

「銃杖」

「じゅうじょう?」

「突ける。撃てる。術も通せる」

「それは......強そうです」

「衛兵だからな」

 ミコトは、もう一度だけ銃杖を見た。
 衛兵の方も、こちらを一瞬見たが、すぐに視線を戻した。

 学院生が自由市場を歩いているだけなら、珍しいことではない。

 ヴァンは目的の店へ向かった。

 布の店で、柔らかい端切れを選ぶ。
 水皿は、浅くて倒れにくいもの。
 餌皿は、縁が低いもの。
 籠は、持ち運ぶためではなく、置いておくためのもの。

「閉じ込めるんじゃないんですよね」

 ミコトが確認する。

「閉じ込めない」

 ヴァンは即答した。

「気に入らなければ使わない」

「はい」

 ミコトは、少し嬉しそうに皿を両手で持った。

 店の人が包んでくれた品を受け取り、二人は通りへ戻る。

 そこで、聞き覚えのある声がした。

「あわわ、そっちは潰れっから上に置かねえでけろ!」

 振り向くと、チャミーがいた。

 両腕に袋を抱え、さらに足元には籠が二つ。
 中には野菜、果物、焼き菓子、紙包みの何かが詰まっている。

 メイド服の裾を少し持ち上げながら、彼女は店の前で荷物と格闘していた。

「チャミーさん」

 ミコトが声を掛ける。

 チャミーは顔を上げた。

「おや、ミコト様。ヴァン様も。こんなとこで会うとは、びっくりしただ」

「買い出しですか?」

「んだ。レオナ様が、庶民の味ってやつを知りたいって言うもんでな。おら、あれこれ見繕ってただ」

 チャミーは嬉しそうだった。

 荷物は多い。
 けれど、困っているというより、張り切りすぎているように見えた。

「持つ」

 ヴァンが言った。

 チャミーは目を瞬かせた。

「ありがてえべ! 助かるだ!」

「馬車までだろ」

「んだ。あっちの通りに待たせてるだ」

 ヴァンは、チャミーの足元にあった重そうな袋を片手で持ち上げた。

 ミコトは少し驚いた。

 袋は、チャミーが両手で抱えていたものより大きい。
 それをヴァンは、まるで普通の手荷物のように持っている。

 ミコトは、自分の紙袋を抱えたまま二人について歩いた。

 自由市場の出口近くに、馬車が止まっていた。
 御者がチャミーに気付き、荷台の扉を開ける。

 ヴァンは袋をそこへ置いた。

「ここでいいか」

「んだんだ。ほんに助かっただ」

 チャミーは深々と頭を下げた。

「ヴァン様、ありがとごぜえます」

「別に」

 ヴァンは短く言った。

 チャミーはすぐに荷物の並びを確かめ始める。
 果物の籠を奥へ。
 焼き菓子の箱を上へ。
 潰れやすい包みを別に分ける。

 礼を言ったら、すぐ自分の仕事へ戻る。

 ヴァンはそれを見ていた。

 ミコトも見ていた。

 馬車の影に、少しだけ風が通った。
 市場の匂いが、ふわりと流れていく。

「優しいんですね?」

 ミコトが言った。

 ヴァンは振り向く。

「べつに」

「いえ、優しいと思います」

「そうか?」

 ミコトは、抱えていた布の包みを少し胸元に寄せた。

 それから、チャミーが積み直した荷物の方を見た。
 すぐには何も言わない。
 ただ、何かを確かめるように、ヴァンの横顔をもう一度だけ見た。

「ありがとうございます」

「なんでミコトが言うんだ」

 ヴァンには、よく分からなかった。

 その時。

「おい」

 背後から、声がした。
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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 転移陣の光輪を抜けると、空気の匂いが変わった。

 古びた校舎の石と、静かな湖の匂いではない。
 焼いた麦と、果物と、革と、油。
 それから、どこか遠くで水が揺れている匂い。

 ミコトは一歩出たところで、足を止めた。

「......わ」

 声が漏れる。

 ヴァンは少し先で振り返った。

「どうした」

「今の、何ですか」

「転移陣ペレホート・ヴラター」

「転移」

 ミコトは後ろを見た。

 そこには、床に刻まれた円形の紋様がある。
 石畳の上に、細い金属線が幾重にも走り、中央には七つの小さな湖を模した印が並んでいた。

 その上には、もう何もない。

 さっきまでいた学院の廊下も、礼拝堂の静けさも、すっかり消えている。

「歩いて来たら遠い」

 ヴァンは短く言った。

「七つの湖は、それぞれ離れている。だから、こういう場所を使う」

「誰でも使えるんですか?」

「金を払えば」

「お金」

「学院生は学生証で通れる」

 ヴァンは、胸元の学生証を軽く指で叩いた。

 ミコトも慌てて、自分の学生証を見る。
 借り物の制服の胸元に下げられたそれは、まだ少し自分のものではない気がした。

「便利ですね」

「そうか?」

 ヴァンには、よく分からなかった。

 学生証で転移陣を使えるのは、学院生なら当たり前だった。
 けれどミコトは、転移陣の外縁に刻まれた文字まで、まじまじと見ている。

 ヴァンは少し待った。

「行くぞ」

「あ、はい」

 金翼湖ゴルトクリローの自由市場は、学院の中央通りとは違っていた。

 中央通りの店は、硝子窓も看板も整いすぎていて、ミコトには少し近寄りがたかった。
 けれどここは、もっと声が近い。

 布を広げた屋台。
 焼き菓子の匂い。
 樽に積まれた果物。
 紐で吊るされた小さな革袋。
 木箱の中で転がる色とりどりの糸玉。

 人の声が重なり合っている。

 小柄な人が多かった。
 子供かと思ったら、立派な髭を整えた大人だったりする。

「ハルプリングが多いんだ」

 ヴァンが言った。

 ミコトが見ているものを、少し遅れて察したらしい。

「金翼湖は、自由市場だから」

「自由市場」

「貴族の店じゃない。実用品が多い」

「だから、ルナのものを買いに?」

「中央通りで買うようなものじゃない」

 そう言って、ヴァンは歩き出す。

 ミコトはその隣を歩いた。

 石の橋を渡る時、また足が止まった。

 橋には継ぎ目がなかった。

 大きな一枚岩を削り出したようにも見える。
 けれど、欄干には細かな蔦の模様が浮かび、足元には波紋のような浅い凹凸が続いている。
 石なのに、どこか柔らかい。

「これ、どうやって作ってるんですか」

「石塑の術カムネレープ」

 ヴァンは答えた。

「石を粘土みたいにする。形を作って、固める」

「石を、粘土みたいに」

 ミコトは橋の欄干へそっと目を寄せた。

 触りかけて、手を引っ込める。

「彫刻家さんも、こういう魔法を使うんですか?」

「使うやつもいる。道具で削るやつもいる」

「魔法彫刻家、みたいな?」

「そう呼ぶやつもいる」

 ミコトは少しだけ黙った。

 たぶん、また何かを見比べている。

 ヴァンには、その全部は分からなかった。
 ただ、ミコトがこの街の普通のものに、いちいち足を止めることだけは分かった。

 市場の通りには、金属の蕾のようなものが等間隔に立っていた。

 ミコトがそれを見上げる。

「これは?」

「街灯」

「明かりですか?」

「中に永遠の灯ネウガシームが入ってる」

「でも、光ってません」

「昼だから蓋が閉じてる。時間になると開く」

 ヴァンは、街灯の上部を指した。

 蕾の合わせ目のような線がある。
 夜になれば、あそこが開いて、中の光が漏れる。

「消さないんですか?」

「消さない。覆う」

「なるほど......」

 ミコトは小さく頷いた。

 分かったような、まだ分かっていないような顔だった。

 その横を、大きな荷物が通った。

 いや、荷物を載せた円盤が通った。

 木箱がいくつも積まれている。
 それなのに、下には車輪がない。
 薄い円盤が地面から少し浮き、商人の後ろをすべるようについていく。

 ミコトが目で追った。

「浮いてます」

「荷運びの浮盤グルゾノース」

「便利ですね」

「重いものを運ぶ時はな」

 商人は慣れた様子で人の間を抜けていく。
 浮盤の上の木箱は、揺れはするが落ちない。

 市場の奥では、巡回の衛兵が二人歩いていた。

 持っているのは槍のようにも見える。
 けれど柄は太く、先端には金属の筒と術式らしき刻印があった。
 杖にも見える。

 ミコトがそちらを見ているのに気付いて、ヴァンは言った。

「銃杖」

「じゅうじょう?」

「突ける。撃てる。術も通せる」

「それは......強そうです」

「衛兵だからな」

 ミコトは、もう一度だけ銃杖を見た。
 衛兵の方も、こちらを一瞬見たが、すぐに視線を戻した。

 学院生が自由市場を歩いているだけなら、珍しいことではない。

 ヴァンは目的の店へ向かった。

 布の店で、柔らかい端切れを選ぶ。
 水皿は、浅くて倒れにくいもの。
 餌皿は、縁が低いもの。
 籠は、持ち運ぶためではなく、置いておくためのもの。

「閉じ込めるんじゃないんですよね」

 ミコトが確認する。

「閉じ込めない」

 ヴァンは即答した。

「気に入らなければ使わない」

「はい」

 ミコトは、少し嬉しそうに皿を両手で持った。

 店の人が包んでくれた品を受け取り、二人は通りへ戻る。

 そこで、聞き覚えのある声がした。

「あわわ、そっちは潰れっから上に置かねえでけろ!」

 振り向くと、チャミーがいた。

 両腕に袋を抱え、さらに足元には籠が二つ。
 中には野菜、果物、焼き菓子、紙包みの何かが詰まっている。

 メイド服の裾を少し持ち上げながら、彼女は店の前で荷物と格闘していた。

「チャミーさん」

 ミコトが声を掛ける。

 チャミーは顔を上げた。

「おや、ミコト様。ヴァン様も。こんなとこで会うとは、びっくりしただ」

「買い出しですか?」

「んだ。レオナ様が、庶民の味ってやつを知りたいって言うもんでな。おら、あれこれ見繕ってただ」

 チャミーは嬉しそうだった。

 荷物は多い。
 けれど、困っているというより、張り切りすぎているように見えた。

「持つ」

 ヴァンが言った。

 チャミーは目を瞬かせた。

「ありがてえべ! 助かるだ!」

「馬車までだろ」

「んだ。あっちの通りに待たせてるだ」

 ヴァンは、チャミーの足元にあった重そうな袋を片手で持ち上げた。

 ミコトは少し驚いた。

 袋は、チャミーが両手で抱えていたものより大きい。
 それをヴァンは、まるで普通の手荷物のように持っている。

 ミコトは、自分の紙袋を抱えたまま二人について歩いた。

 自由市場の出口近くに、馬車が止まっていた。
 御者がチャミーに気付き、荷台の扉を開ける。

 ヴァンは袋をそこへ置いた。

「ここでいいか」

「んだんだ。ほんに助かっただ」

 チャミーは深々と頭を下げた。

「ヴァン様、ありがとごぜえます」

「別に」

 ヴァンは短く言った。

 チャミーはすぐに荷物の並びを確かめ始める。
 果物の籠を奥へ。
 焼き菓子の箱を上へ。
 潰れやすい包みを別に分ける。

 礼を言ったら、すぐ自分の仕事へ戻る。

 ヴァンはそれを見ていた。

 ミコトも見ていた。

 馬車の影に、少しだけ風が通った。
 市場の匂いが、ふわりと流れていく。

「優しいんですね?」

 ミコトが言った。

 ヴァンは振り向く。

「べつに」

「いえ、優しいと思います」

「そうか?」

 ミコトは、抱えていた布の包みを少し胸元に寄せた。

 それから、チャミーが積み直した荷物の方を見た。
 すぐには何も言わない。
 ただ、何かを確かめるように、ヴァンの横顔をもう一度だけ見た。

「ありがとうございます」

「なんでミコトが言うんだ」

 ヴァンには、よく分からなかった。

 その時。

「おい」

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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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