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第三十二話 おへんじ


 おれは、ダガーを突き下ろした。

「待って!」

 ミコトの声だった。刃を、白紙の頁に届く寸前で止めた。声が届いた瞬間、考えるよりも先に身体が動きを止めていた。喉は焼けている。腕は重い。指先も痺れている。けれど、あの声だけは、赤黒い煙の中でも妙にはっきり聞こえた。おれは刃先を頁のすぐ上に残したまま、ミコトを見た。

 ミコトは、床にへたり込んだまま顔を上げていた。息は苦しそうだった。言葉を出すだけで、胸の奥から何かを削っているように見える。それでも、目はこっちを見ている。さっきまで謝っていた目ではない。怖がっている。苦しんでもいる。けれど、それだけじゃない。何か、まだ消えていないものを見つけた目だった。

「おへんじ」

 短い声だった。

 それだけだった。

 おれには、すぐには分からなかった。ハリスも、ロイも、ハリエットも、一瞬だけ動きを止めた。けれど、オーレリアだけが息を呑んだ。苦しそうに胸を押さえながら、それでも手帳を抱える手が動く。震える指が、手帳の端に付いた細いペンフォルダへ伸びる。いつも使っているインクペンを、迷わず抜いた。

「......そう、なのよぅ」

 オーレリアは、膝をついたままペンを差し出した。

「返事を、書くのよぅ」

 返事。

 日記に。

 白紙の頁に。

 おれは、ミコトを見た。ミコトは小さく頷いた。声はもう出なかった。それでも、そうだと言っているのは分かった。壊すんじゃない。潰すんじゃない。ハンナが最後に残した白紙へ、返事をする。正しいのかは分からない。間違っているかもしれない。けれど、ダガーを突き刺すよりは、ずっと分からないままではなかった。ミコトがそう言った。オーレリアが分かった。なら、賭ける価値はある。

 問題は、本だった。

 床に置かれたままでは、オーレリアは書けない。もう立てる状態ではない。ロイも、ハリスも、ハリエットも、ミコトも、床に近いところにいる。動けるのは、おれだけだった。さっきまで、おれはこの本を潰そうとしていた。触れたらまずいと思っていた。実際、まずいのだと思う。けれど、今は違う。壊すためではない。届けるために触る。そう思えば安全になるわけではないが、それでも、今この場で本を持てるやつがおれしかいないなら、おれが持つしかない。

 おれはダガーをしまい、本に手を伸ばした。

 指先が表紙に触れた瞬間、冷たいものが皮膚の下へ入り込んでくるような感じがした。息がさらに詰まる。喉の奥がぎゅっと縮む。手を離せば少しは楽になるのかもしれない。けれど、離せば何もできない。持ち上げる。重い。本そのものの重さじゃない。中に残っているものが重い。誰にも読まれず、誰からも返されず、ただ閉じ込められていたものが、紙の形をして手の中に乗っているようだった。

 おれは、その本をオーレリアの前へ差し出した。

 オーレリアは、ペンを握った。息を整えようとして、整えられず、少しだけ眉を寄せる。それでも、白紙の頁へペン先を置いた。最初の線が、強かった。紙が破れるかと思うくらい、強かった。

『あなたは、しんじられないくらい、がんばった』

 短い言葉だった。

 でも、そこには怒りがあった。

 オーレリアは、いつもふわふわした声で話す。語尾も柔らかい。何でも面白がって、記録して、笑っているように見える。けれど、怒っていないわけじゃない。オーレリアは怒鳴らなかった。泣きもしなかった。ただ、紙が破れそうな筆圧で怒っていた。記録するって、こういうことなのかもしれなかった。

 次に、ロイが手を伸ばした。

「貸せ」

 声は掠れていた。けれど、ロイらしい声だった。オーレリアがペンを渡す。ロイはまだ片膝をついたままだった。息は苦しいはずなのに、背筋だけは曲げなかった。おれは本を少し動かし、ロイが書ける位置へ持っていく。

 ロイはペンを握り、迷わず書いた。

『その時代に私達がいたら、君と友達になっていたのに、残念だ。あと120年はオーレリアと共に生きてから、そっちへ行くので、待っていろ。 ロイ・アッシュフィールド』

 ばかだと思った。

 けれど、悪くなかった。

 百二十年生きるつもりなのか、とも思った。オーレリアと共に、というところを当然のように書くのもどうかと思った。でも、ロイはそういうやつだ。死んだ相手にも、未来の約束を投げる。友達になっていた、と言い切る。そっちへ行くから待っていろ、と言う。慰めなのか、宣言なのか、挑発なのか、おそらく、その全部だった。あいつは、怒っている時ほど真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて危なっかしい。けれど、ハンナの日記みたいなものに対しては、その真っ直ぐさが一番遠くまで届くのかもしれない。

 オーレリアが、息が苦しいのに少しだけ笑った。

 次に、ハリスがペンを受け取った。

 ハリスは、すぐには書かなかった。白紙の頁を見る。日記の文字を見る。オーレリアとロイの書いた言葉を見る。それから、ゆっくりとペンを置いた。

『君を無価値だと言った者達は、君の価値を量れるほど、君を見ていなかった。

 君を守る立場にいた者達は、立場だけを持っていて、責任を持っていなかった。

 先生も、神父も、家名を誇った者達も、クラスメイトも、君一人すら救えなかった。

 なら、無価値だったのは君の人生ではない。

 彼らの肩書きだ。』

 ハリスらしいと思った。

 優しい、と言えばいいのかは分からない。けれど、おれは正しいと思う。ハリスは、ハンナを慰める前に、ハンナを追い詰めたものを切り捨てた。君は悪くない、では終わらせない。悪いのは誰か。何をするべきだった者が、何をしなかったのか。誰が見ず、誰が助けず、誰が笑い、誰が値札を貼ったのか。ハリスはそれを一つずつ切り分けて、ハンナの代わりに粉砕して見せた。それは、おれの言いたかったことでもあった。

 ハリスはペンをハリエットへ渡した。

 ハリエットは、震える手で受け取った。ミコトを支えていた手を少しだけ離し、白紙の頁に向き合う。息は苦しそうだった。けれど、その目はもう逃げていなかった。

『あなたは母思いで、努力家で、誠実な人。無価値なんかじゃない』

 ハリエットの文字は、柔らかい。それなのに、強かった。ハンナを悪霊とも、禁書とも、危険なものとも呼ばなかった。母思いで、努力家で、誠実な人、と書いた。日記の中にいたハンナを見ている。あの赤黒い煙ではなく、母親を助けようとして、馬鹿にされても日記を書き続けて、最後まで何かを残した女の子の方を見ている。おれにはできない見方だった。おれは、危険なら止める。元凶なら潰す。そう考える。でも、ハリエットはその奥にいる人を見て、価値を見付けて褒めた。

 次に、ミコトの番だった。

 ミコトは、ペンを受け取る時に少し手を震わせた。息が苦しいせいだけじゃない。皇國語を書くのは、まだ簡単じゃないはずだ。話すのだって、少し前までたどたどしかった。文字を書くなら、もっと難しい。それでも、ミコトはペンを握った。

 おれは本を支えた。

 ミコトは、白紙の頁をじっと見つめる。それから、一字ずつ、確かめるように書き始めた。

『つらいことが沢山あったのが、わかりました。それでも、いじめに負けず、ずっと最後まで生き抜いて、日記も書き続けて、4か月も耐えたことが、すごいです』

 時間がかかった。

 けれど、誰も急かさなかった。

 文字は少し硬い。ところどころ、線が迷っている。覚えたての皇國語、あけべ文字で書かれていた。けれど、その分だけ、ミコトが一字ずつ選んでいるのが分かった。知っている言葉だけで、言えることを探している。足りない言葉の代わりに、何度も考えて、書ける形にしている。

『あなたは、立派です。おかあさんは、少なくともあなたを誇り、に思っているはずです』

 誇り、のところで少し止まった。たぶん、書き方を思い出していた。ハリエットが小さく口の形だけで教えた。ミコトは頷き、また書いた。

『無価値ではない。誰にわかってもらえなかったこと、今、私たちが知りました。無意味ではない。あなたは、すごい』

 ミコトの息が乱れる。

 それでも、手は止まらなかった。

『もう、だいじょうぶ』

 その言葉だけ、少し丸かった。子供に言うみたいだった。自分に言い聞かせているみたいでもあった。

『あなたは、努力家、すてきな、女の子』

 努力家。

 すてき。

 それは、ハンナのことだった。でも、おれにはミコトのことにも見えた。知らない言葉を覚えて、知らない文字を覚えて、怖いものの前で泣きそうになりながら、それでも書いている。自分も苦しいのに、ハンナへ言葉を届けようとしている。変なやつだ。今もそう思う。けれど、それだけじゃない。ミコトは、自分が何もできないと思っているのかもしれない。よく謝るし、怖がるし、すぐ自分のせいにしようとする。でも、できないから動かないやつじゃない。できないまま、覚えたての言葉で、覚えたての文字で、届くかどうかも分からない相手に返事を書いている。努力家で、すてきな女の子。その言葉は、ミコト自身にも当てはまるのだと、おれは思った。

 最後に、ペンがおれへ向けられた。

 おれは少しだけ迷った。書くことなんて、ないと思った。オーレリアが認めた。ロイが友達になると言った。ハリスが間違いを切り捨てた。ハリエットが人として見た。ミコトが、すごいと書いた。もう十分だろうと思った。

 けれど、ミコトがこっちを見ていた。書け、と言っている目だった。さっき、跳べと言ったのは、おれだ。ミコトに苦手な「跳ぶ」をさせたのだから、おれも、苦手な「書く」をする。おれはペンを受け取った。持ち慣れない。ダガーよりずっと軽いのに、やけに重かった。白紙の端に、書いた。

『ハンナ、おれ達が読んだ。事実を知った。誰か知らないが、そんな奴等の言った事は間違いだ。今、意味が生まれた』

 それだけだ。

 慰めになっているのかは分からない。けれど、おれに書けるのはそれだけだった。誰にも読まれなかったなら、読んだと書く。誰にも知られなかったなら、知ったと書く。無意味だったと言うなら、今、意味が生まれたと書く。それ以上のことは分からない。でも、それだけは言える。

 ペンを返そうとした時、ミコトが小さく息を吸った。

「ヴァンさん!」

「何だ」

「ルナ、描いて!」

 ルナ。

 ミコトは、そう言った。

 そういえば、授業中に教科書の端へ描いていた落書きを、ミコトに見られたことがあった。あれを覚えていたのか。こんな時に、そんなものを思い出すのかと思ったが、ミコトは苦しそうな顔のまま、それでも真剣にこっちを見ていた。言葉だけでは足りないと思ったのかもしれない。慰める言葉だけではなく、日記の白紙に眠る小さな生き物の絵を添えようとしている。なぜルナなのか、全部は分からない。けれど、ミコトがそう言うなら、それでいいと思った。

 おれは、少しだけ息を吐いた。

「分かった」

 ペンを握り直す。

 文字よりは、絵の方がまだましだった。白紙の隅に、丸くなったルナを描く。授業中に描く時より、線は震えた。息も苦しい。手も痺れている。それでも、耳を描き、背中を描き、尻尾を描く。最後に、目を閉じて眠っている顔を描いた。

 小さなルナだった。

 ハンナの日記の白紙に、言葉と一緒に、眠るルナがいる。

 その瞬間、本が震えた。

 がく、と一度。

 がくがく、と続けて震える。

 赤黒いものが、頁の端で揺れた。黒紫の煙が、部屋の中で渦を巻く。まずいと思った。失敗したのかと思った。おれは本を押さえた。けれど、次に聞こえたのは、悲鳴ではなかった。

 しゅうう、と細い音がした。日記の背から、黒紫の瘴気が抜けていく。赤黒い染みが、紙の奥へ吸い戻されるように薄くなる。部屋に満ちていた息苦しさが、少しずつほどけていく。

 息が入った。

 空気が、胸の中へ戻ってきた。

 ロイが大きく咳き込む。オーレリアも肩で息をした。ハリスは床に手をついたまま、深く息を吐いた。ハリエットはミコトを抱きしめたまま、泣きそうな顔で笑っていた。ミコトは、まだ苦しそうだったけれど、ちゃんと息をしていた。

 おれは、日記を見た。

 さっきまでの重さは、少しだけ薄れていた。完全に消えたわけではない。日記はまだ古く、黒ずんでいて、痛みを抱えたもののままだった。けれど、もう息を奪ってはいなかった。

 終わったのか。

 そう思った。

 その時だった。

「こら、貴様ら!!!」

 階下から、ジークハルト先生の声が響き渡る。

「これは一体どういう事だ!!!!」
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緋鋼皇國物語Ⅰ作者:ふみの世界樹
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第三十二話 おへんじ


 おれは、ダガーを突き下ろした。

「待って!」

 ミコトの声だった。刃を、白紙の頁に届く寸前で止めた。声が届いた瞬間、考えるよりも先に身体が動きを止めていた。喉は焼けている。腕は重い。指先も痺れている。けれど、あの声だけは、赤黒い煙の中でも妙にはっきり聞こえた。おれは刃先を頁のすぐ上に残したまま、ミコトを見た。

 ミコトは、床にへたり込んだまま顔を上げていた。息は苦しそうだった。言葉を出すだけで、胸の奥から何かを削っているように見える。それでも、目はこっちを見ている。さっきまで謝っていた目ではない。怖がっている。苦しんでもいる。けれど、それだけじゃない。何か、まだ消えていないものを見つけた目だった。

「おへんじ」

 短い声だった。

 それだけだった。

 おれには、すぐには分からなかった。ハリスも、ロイも、ハリエットも、一瞬だけ動きを止めた。けれど、オーレリアだけが息を呑んだ。苦しそうに胸を押さえながら、それでも手帳を抱える手が動く。震える指が、手帳の端に付いた細いペンフォルダへ伸びる。いつも使っているインクペンを、迷わず抜いた。

「......そう、なのよぅ」

 オーレリアは、膝をついたままペンを差し出した。

「返事を、書くのよぅ」

 返事。

 日記に。

 白紙の頁に。

 おれは、ミコトを見た。ミコトは小さく頷いた。声はもう出なかった。それでも、そうだと言っているのは分かった。壊すんじゃない。潰すんじゃない。ハンナが最後に残した白紙へ、返事をする。正しいのかは分からない。間違っているかもしれない。けれど、ダガーを突き刺すよりは、ずっと分からないままではなかった。ミコトがそう言った。オーレリアが分かった。なら、賭ける価値はある。

 問題は、本だった。

 床に置かれたままでは、オーレリアは書けない。もう立てる状態ではない。ロイも、ハリスも、ハリエットも、ミコトも、床に近いところにいる。動けるのは、おれだけだった。さっきまで、おれはこの本を潰そうとしていた。触れたらまずいと思っていた。実際、まずいのだと思う。けれど、今は違う。壊すためではない。届けるために触る。そう思えば安全になるわけではないが、それでも、今この場で本を持てるやつがおれしかいないなら、おれが持つしかない。

 おれはダガーをしまい、本に手を伸ばした。

 指先が表紙に触れた瞬間、冷たいものが皮膚の下へ入り込んでくるような感じがした。息がさらに詰まる。喉の奥がぎゅっと縮む。手を離せば少しは楽になるのかもしれない。けれど、離せば何もできない。持ち上げる。重い。本そのものの重さじゃない。中に残っているものが重い。誰にも読まれず、誰からも返されず、ただ閉じ込められていたものが、紙の形をして手の中に乗っているようだった。

 おれは、その本をオーレリアの前へ差し出した。

 オーレリアは、ペンを握った。息を整えようとして、整えられず、少しだけ眉を寄せる。それでも、白紙の頁へペン先を置いた。最初の線が、強かった。紙が破れるかと思うくらい、強かった。

『あなたは、しんじられないくらい、がんばった』

 短い言葉だった。

 でも、そこには怒りがあった。

 オーレリアは、いつもふわふわした声で話す。語尾も柔らかい。何でも面白がって、記録して、笑っているように見える。けれど、怒っていないわけじゃない。オーレリアは怒鳴らなかった。泣きもしなかった。ただ、紙が破れそうな筆圧で怒っていた。記録するって、こういうことなのかもしれなかった。

 次に、ロイが手を伸ばした。

「貸せ」

 声は掠れていた。けれど、ロイらしい声だった。オーレリアがペンを渡す。ロイはまだ片膝をついたままだった。息は苦しいはずなのに、背筋だけは曲げなかった。おれは本を少し動かし、ロイが書ける位置へ持っていく。

 ロイはペンを握り、迷わず書いた。

『その時代に私達がいたら、君と友達になっていたのに、残念だ。あと120年はオーレリアと共に生きてから、そっちへ行くので、待っていろ。 ロイ・アッシュフィールド』

 ばかだと思った。

 けれど、悪くなかった。

 百二十年生きるつもりなのか、とも思った。オーレリアと共に、というところを当然のように書くのもどうかと思った。でも、ロイはそういうやつだ。死んだ相手にも、未来の約束を投げる。友達になっていた、と言い切る。そっちへ行くから待っていろ、と言う。慰めなのか、宣言なのか、挑発なのか、おそらく、その全部だった。あいつは、怒っている時ほど真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎて危なっかしい。けれど、ハンナの日記みたいなものに対しては、その真っ直ぐさが一番遠くまで届くのかもしれない。

 オーレリアが、息が苦しいのに少しだけ笑った。

 次に、ハリスがペンを受け取った。

 ハリスは、すぐには書かなかった。白紙の頁を見る。日記の文字を見る。オーレリアとロイの書いた言葉を見る。それから、ゆっくりとペンを置いた。

『君を無価値だと言った者達は、君の価値を量れるほど、君を見ていなかった。

 君を守る立場にいた者達は、立場だけを持っていて、責任を持っていなかった。

 先生も、神父も、家名を誇った者達も、クラスメイトも、君一人すら救えなかった。

 なら、無価値だったのは君の人生ではない。

 彼らの肩書きだ。』

 ハリスらしいと思った。

 優しい、と言えばいいのかは分からない。けれど、おれは正しいと思う。ハリスは、ハンナを慰める前に、ハンナを追い詰めたものを切り捨てた。君は悪くない、では終わらせない。悪いのは誰か。何をするべきだった者が、何をしなかったのか。誰が見ず、誰が助けず、誰が笑い、誰が値札を貼ったのか。ハリスはそれを一つずつ切り分けて、ハンナの代わりに粉砕して見せた。それは、おれの言いたかったことでもあった。

 ハリスはペンをハリエットへ渡した。

 ハリエットは、震える手で受け取った。ミコトを支えていた手を少しだけ離し、白紙の頁に向き合う。息は苦しそうだった。けれど、その目はもう逃げていなかった。

『あなたは母思いで、努力家で、誠実な人。無価値なんかじゃない』

 ハリエットの文字は、柔らかい。それなのに、強かった。ハンナを悪霊とも、禁書とも、危険なものとも呼ばなかった。母思いで、努力家で、誠実な人、と書いた。日記の中にいたハンナを見ている。あの赤黒い煙ではなく、母親を助けようとして、馬鹿にされても日記を書き続けて、最後まで何かを残した女の子の方を見ている。おれにはできない見方だった。おれは、危険なら止める。元凶なら潰す。そう考える。でも、ハリエットはその奥にいる人を見て、価値を見付けて褒めた。

 次に、ミコトの番だった。

 ミコトは、ペンを受け取る時に少し手を震わせた。息が苦しいせいだけじゃない。皇國語を書くのは、まだ簡単じゃないはずだ。話すのだって、少し前までたどたどしかった。文字を書くなら、もっと難しい。それでも、ミコトはペンを握った。

 おれは本を支えた。

 ミコトは、白紙の頁をじっと見つめる。それから、一字ずつ、確かめるように書き始めた。

『つらいことが沢山あったのが、わかりました。それでも、いじめに負けず、ずっと最後まで生き抜いて、日記も書き続けて、4か月も耐えたことが、すごいです』

 時間がかかった。

 けれど、誰も急かさなかった。

 文字は少し硬い。ところどころ、線が迷っている。覚えたての皇國語、あけべ文字で書かれていた。けれど、その分だけ、ミコトが一字ずつ選んでいるのが分かった。知っている言葉だけで、言えることを探している。足りない言葉の代わりに、何度も考えて、書ける形にしている。

『あなたは、立派です。おかあさんは、少なくともあなたを誇り、に思っているはずです』

 誇り、のところで少し止まった。たぶん、書き方を思い出していた。ハリエットが小さく口の形だけで教えた。ミコトは頷き、また書いた。

『無価値ではない。誰にわかってもらえなかったこと、今、私たちが知りました。無意味ではない。あなたは、すごい』

 ミコトの息が乱れる。

 それでも、手は止まらなかった。

『もう、だいじょうぶ』

 その言葉だけ、少し丸かった。子供に言うみたいだった。自分に言い聞かせているみたいでもあった。

『あなたは、努力家、すてきな、女の子』

 努力家。

 すてき。

 それは、ハンナのことだった。でも、おれにはミコトのことにも見えた。知らない言葉を覚えて、知らない文字を覚えて、怖いものの前で泣きそうになりながら、それでも書いている。自分も苦しいのに、ハンナへ言葉を届けようとしている。変なやつだ。今もそう思う。けれど、それだけじゃない。ミコトは、自分が何もできないと思っているのかもしれない。よく謝るし、怖がるし、すぐ自分のせいにしようとする。でも、できないから動かないやつじゃない。できないまま、覚えたての言葉で、覚えたての文字で、届くかどうかも分からない相手に返事を書いている。努力家で、すてきな女の子。その言葉は、ミコト自身にも当てはまるのだと、おれは思った。

 最後に、ペンがおれへ向けられた。

 おれは少しだけ迷った。書くことなんて、ないと思った。オーレリアが認めた。ロイが友達になると言った。ハリスが間違いを切り捨てた。ハリエットが人として見た。ミコトが、すごいと書いた。もう十分だろうと思った。

 けれど、ミコトがこっちを見ていた。書け、と言っている目だった。さっき、跳べと言ったのは、おれだ。ミコトに苦手な「跳ぶ」をさせたのだから、おれも、苦手な「書く」をする。おれはペンを受け取った。持ち慣れない。ダガーよりずっと軽いのに、やけに重かった。白紙の端に、書いた。

『ハンナ、おれ達が読んだ。事実を知った。誰か知らないが、そんな奴等の言った事は間違いだ。今、意味が生まれた』

 それだけだ。

 慰めになっているのかは分からない。けれど、おれに書けるのはそれだけだった。誰にも読まれなかったなら、読んだと書く。誰にも知られなかったなら、知ったと書く。無意味だったと言うなら、今、意味が生まれたと書く。それ以上のことは分からない。でも、それだけは言える。

 ペンを返そうとした時、ミコトが小さく息を吸った。

「ヴァンさん!」

「何だ」

「ルナ、描いて!」

 ルナ。

 ミコトは、そう言った。

 そういえば、授業中に教科書の端へ描いていた落書きを、ミコトに見られたことがあった。あれを覚えていたのか。こんな時に、そんなものを思い出すのかと思ったが、ミコトは苦しそうな顔のまま、それでも真剣にこっちを見ていた。言葉だけでは足りないと思ったのかもしれない。慰める言葉だけではなく、日記の白紙に眠る小さな生き物の絵を添えようとしている。なぜルナなのか、全部は分からない。けれど、ミコトがそう言うなら、それでいいと思った。

 おれは、少しだけ息を吐いた。

「分かった」

 ペンを握り直す。

 文字よりは、絵の方がまだましだった。白紙の隅に、丸くなったルナを描く。授業中に描く時より、線は震えた。息も苦しい。手も痺れている。それでも、耳を描き、背中を描き、尻尾を描く。最後に、目を閉じて眠っている顔を描いた。

 小さなルナだった。

 ハンナの日記の白紙に、言葉と一緒に、眠るルナがいる。

 その瞬間、本が震えた。

 がく、と一度。

 がくがく、と続けて震える。

 赤黒いものが、頁の端で揺れた。黒紫の煙が、部屋の中で渦を巻く。まずいと思った。失敗したのかと思った。おれは本を押さえた。けれど、次に聞こえたのは、悲鳴ではなかった。

 しゅうう、と細い音がした。日記の背から、黒紫の瘴気が抜けていく。赤黒い染みが、紙の奥へ吸い戻されるように薄くなる。部屋に満ちていた息苦しさが、少しずつほどけていく。

 息が入った。

 空気が、胸の中へ戻ってきた。

 ロイが大きく咳き込む。オーレリアも肩で息をした。ハリスは床に手をついたまま、深く息を吐いた。ハリエットはミコトを抱きしめたまま、泣きそうな顔で笑っていた。ミコトは、まだ苦しそうだったけれど、ちゃんと息をしていた。

 おれは、日記を見た。

 さっきまでの重さは、少しだけ薄れていた。完全に消えたわけではない。日記はまだ古く、黒ずんでいて、痛みを抱えたもののままだった。けれど、もう息を奪ってはいなかった。

 終わったのか。

 そう思った。

 その時だった。

「こら、貴様ら!!!」

 階下から、ジークハルト先生の声が響き渡る。

「これは一体どういう事だ!!!!」
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