第20話 残されたもの
ソルは歯を噛み締めた。
「あの女のせいだ! 殺してやる!」
男は静かに告げた。
「それを命じたのが、僕だ」
次の瞬間、ソルは男の顔面を殴りつけた。
男は尻もちをつく。しかし、ソルから目を逸らさなかった。
「マーニが! あいつが一体何をしたって言うんだよ!」
ソルは男の胸倉を掴み、顔面を何度も殴りつけた。
――ソルは違和感を覚えた。
殴りつける度に傷が癒える。
男は抵抗もせず、ひたすらソルを見つめ返している。
ソルは殴るのをやめ、後退りした。
男は体を起こし、折れた歯を吐き捨てる。
「僕もキミと同じく死に拒絶された。一つだけ違う点は、どれだけ痛めつけられようと傷が癒えてしまう」
男は毛皮の内側からナイフを取り出し、自らの左手に突き刺し、傷口を広げてからナイフを引き抜いた。
流れ落ちた血液が逆流するように戻り、傷口が跡形もなく塞がる。
「もう300年近く生きている不老不死だ。ヴェラの民からは神の使いと呼ばれているが、そんな大それたものではない。ごく普通の家庭に生まれ、人と同じように育てられた。キミと同じように、気づけば不死になっていた」
ソルは手を振り払って言い返した。
「それとマーニの死にどういう関係がある!」
男はナイフをしまった。
「不死を見分けることはできない。だから、殺すよう命じた。キミたちを保護するために」
ソルは目を血走らせた。
「保護だと......ふざけるな!」
男は淡々とした口調で答えた。
「今のキミからすれば、そう思うのも無理はない」
冷たい眼差しを向ける。
「だが、不死になった者の末路を知っているのか」
ソルは息を呑んだ。
「末路だと......?」
男は息を吐いた。
「あれはいつだったかもう忘れたが、僕は事故に遭い、それを見ていた者たちは死んだと思ったんだ。僕自身も死を覚悟していた。だが、生きていた。それから、迫害を受けるようになった」
静かに目を伏せる。
「それが、僕一人ならまだよかった。だが、家族にまで被害が及んだ。僕たち一家は生きるのに疲れ果て、死に場所を求めていた」
口元を緩めた。
「そんな時に、魔王ネクロヴァルと出会い、彼に保護された。彼は不老の魔法を提案した。僕は彼の提案を受け入れた。不死になった者が、僕と同じ目に遭わないようにするために」
ソルは歯を噛み締め、拳を握り締めた。
「だからって、こんなこと許されるのかよ!」
男は目を細める。
「それでは、見て見ぬふりをすればよかったというのか」
その声には、わずかな怒気が含まれていた。
ソルは言い返すことができなかった。
男は咳払いを一つ挟んだ。
「僕は歴史の真実を知ってしまった。その選択が正しいと思い、行動を移した」
ソルの目をまっすぐ見つめる。
「僕は彼と盟約を交わした。僕たち一家は、このヴェラの森に集落を作った」
男の声がわずかに揺れた。
「だが、子どもたちに罪はない。子どもを作るなと言えなかった。近親交配にも限界を感じ、森に足を踏み入れた旅人を攫ったことがあった。僕と違い、彼らには寿命がある。彼らは生きるのに必死だった。だが、我々も被害を受けた」
淡々とした口調で続ける。
男の感情が、ソルには読み取れなかった。
「誘拐、強姦、暴行、殺人――だから僕は族長になり、言語体系を変え、ヴェラの民と名乗り、掟を作り、外部との干渉を極力避けた」
族長は両手を広げた。
「家族を失う痛みは理解している。キミの気が済むまで、僕を殴ってくれて構わない。懐にあるナイフで突き刺しても構わない。どれだけ謝罪の言葉を尽くしても、あの少女は蘇らない」
ソルは膝から崩れ落ちた。
涙を流し、自身を呪う。
「くそっ」
族長は毛皮の内側から手帳を取り出し、ソルの目の前に置いた。
血痕が付着した手帳は、マーニの物だった。
「これは、キミが手に持っていた手帳だよ。中を確認させてもらった。これを読んだ上で決断してほしい」
一拍置いて、続けた。
「不老不死として永劫の時を生きるのか。すべての記憶を忘却し、理性を失った怪物になるのか」
腰を下ろし、ソルを見据える。
ソルは手帳を手に取り、ページをめくった。
*
ソルへ
これを読んでいる頃、私はもういない。
聖女様と出逢ったあの日、私は彼女から内緒で教えてもらった。
ソルは悪魔化現象に墜ちている。
そして、私は命を落とす。
旅をやめれば、私は助かるけど、ソルが悪魔になってしまう。
ソルには運命を変える力がある。
でも、それは私がいなくなった後の話。
私には思い当たる節があった。
ツェーンに投げ飛ばされた時、ソルが動かなくなった。
ソルは悔しがっていたけど、もし打ち所が悪ければ死んでいても不思議じゃなかった。
だから、私は聖女様の言葉を信じることにした。
それが、いつ訪れるのかわからない。
不安だった。
ソルに話せば、きっと旅を中断する。
そうなれば、ソルが悪魔になってしまう。
それだけは、許せなかった。
レイ・ドランの手記を届ける時、ソルは迷わなかった。
私もあれでよかったと思っている。
マルコスは、愛する女性のためなら、この命すら惜しくないと言っていた。
私は彼の話を聞いて、未来を想像した。
死ぬのは怖いけど、ソルが悪魔になってしまうほうが、私は怖かった。
だから、死ぬのなんて怖くないと思えるようになった。
でも、私の存在を忘れられるのだけは怖かった。
私は後悔していない。
だから、私のせいで自分を責めないでほしい。
私の最期のわがまま。
夢を追いかけて。
マーニ・アルヘイナ
*
ソルの瞳が潤み、涙が頬を伝う。
「言いたいことが、山ほどあるんじゃなかったのかよ......」
手帳には何度もページを破った跡があった。
指先でその跡を撫でる。
マーニとの記憶が、波のように押し寄せてきた。
涙がとめどなく溢れる。
「夢を追いかけてって何だよ......。くそっ。これじゃ、さっきの俺がバカみたいじゃないか......」
手帳を握り締めた。
「こんな姿、マーニに見られたら笑われてしまうな」
手の甲で涙を拭い、深呼吸をひとつ。
「俺はマーニのことを忘れない! だから――」
顔を上げ、族長を見据えた。
「俺を不老不死にしろ!」
族長は立ち上がった。
「不老の魔法は数日の間、激痛を伴う。死ぬほどの苦痛に耐えなければならない。外見も大きく変化する。生殖機能も失う――それでも、後悔しないね?」
「ああ。始めろ。あいつのためにも、足を止めるわけにはいかない」
族長は頷いた。
「わかった。キミの意思を尊重しよう」
ソルに近寄り、頭に手を置く。
詠唱を始めた。
「太古の理よ、彼の者に宿れ。朽ちることなく、変わることなく、ただ在り続けよ。刻まれし姿を失うことなく、流転の時を退けよ。刻の契約を、今ここに果たさん」
手を離し、踵を返した。
「僕は失礼するよ」
足音が遠ざかった直後、変化が始まった。
ソルは吐血し、のけ反るように倒れ込んだ。
歯を食いしばり、声を押し殺す。
全身の骨がわずかにずれ、筋肉が隆起し、血管が裂ける。
頭に激痛が走り、脳が焼き切れそうに熱くなる。
嘔吐し、絶叫した。
「があああぁぁぁあ――ッ!」
白目を剥いたまま気絶する。
だが、激しい痛みがすぐに意識を引き戻した。
呼吸ができなくなり、首を掻き毟る。
爪で皮膚を裂き、肉を削る。
頭がどうにかなりそうだった。
地面に何度も頭を叩きつける。
牢から声にならない声が漏れ続けた。
それが五日に渡り続いた。
*
――それから六日が経過した。
族長は格子の前で足を止めた。
破れた服を纏った銀髪の少年が倒れている。
地面には凝固した血が広がり、岩肌を掻きむしった血痕の下には爪が落ちていた。
抜け落ちた赤い髪が散乱し、噛み砕いたであろう奥歯が転がっている。
族長は自分の前髪を摘まんだ。
「なるほど。不老不死になると髪の色が変わるのは、僕だけじゃなかったのか」
少年は起き上がり、赤い瞳で族長を見つめた。
「途中から意識を失った。声が違うな」
その声は、中性的なものだった。
「まあ、いい。俺は不老不死になったのか?」
「僕の時もそうだった。不老不死になっているはずだよ」
少年は前髪を摘まんで目を見開く。
「髪の色まで変わるのか」
「瞳も赤くなっている」
少年は足元の手帳に手を伸ばし、地面と癒着したそれを引き剥がして見つめた。
「こんなことになるなら、あんたに預けておけばよかった」
手帳をポケットに入れ、顔を上げた。
「マーニの遺体は、埋葬してくれたのか」
族長は首を縦に振る。
「キミに断りもなくやらせてもらった。ただし、キミが想像している方法ではない。我々は自然に生かされている。だから、自然に還すことにしている」
少年は俯いた。
「キミの持ち物と彼女の遺品も保管してある」
族長は顎にそっと手を当てた。
「キミのことを何と呼べばいい。手帳にはソルと書かれていたが」
しばしの沈黙。
「......あんたたちの言語で、『ソル』はどう発音する」
族長はゆっくりと発音した。
「Losen」
「わかった。今後、俺はロゼンと名乗る」
族長が閂板を外し、ロゼンは外へ出た。
――こうして、彼は過去の己と決別した。