第二十四話 埋まりきらない溝、それでも
――翌日の昼頃。
ロゼンは目を覚ました。
顔を覗き込んでいるカイレンと目が合った。
しばしの沈黙。
カイレンは無言で外へ出ていった。
「今のは何だったんだ......?」
上半身を起こし、周囲を見渡す。
ロゼンの荷物とマーニの遺品があり、脱ぎ捨てた旅装束や靴、手帳が置かれていた。
族長の家だった。
外に出ると、族長がこちらへ向かってくる。
ロゼンの前で足を止め、微笑んだ。
「よく眠れましたか?」
「ああ。おかげさまで」
ロゼンは便意を催した。
「それはそうと、トイレはどこにある?」
「案内するので、少しの間、我慢してください」
族長は足早に歩き、ロゼンはお腹に手を当て、その後に続いた。
案内されたのは、湖畔だった。
さまざまな農作物が実った畑を通り過ぎると、奥に木製の簡素な個室が設置されていた。
そこから出てきた、尻が汚れた男は腰蓑を手に持ち、下半身を露出した状態で、湖に腰まで浸かった。
ロゼンは怪訝な顔をした。
「あの中で済ませるのか?」
族長は頷いた。
「糞尿は肥料になります。湖で汚れを落としてください」
「俺が飲んだ水って、まさか......」
族長は視線を逸らした。
ロゼンは息を吐いた。
「いや、もういい」
族長は笑みを浮かべた。
「ロゼン、毛皮を預かりますよ」
「ああ。臭いが移ると困るからな」
ロゼンは毛皮を脱ぎ、族長に預けた。
トイレに入ると、悪臭が鼻を突く。
腰蓑を脱ぎ、段差を上った。
下を見ると、入れ物の中に糞尿が溜まり、小蠅が羽音を鳴らして飛んでいた。
ロゼンは吐き気を堪え、屈んで用を済ませる。
そして、トイレから逃げるように出ていき、湖に腰まで浸かって手で汚れを落とした。
湖から上がり、手のにおいを嗅いだ。
腰蓑を穿き、ため息をついた。
族長がロゼンに毛皮を返す。
ロゼンは毛皮を纏いながら言った。
「病で亡くなった原因は、水に問題があるんじゃないのか」
族長は淡々とした口調で言った。
「使用する水は沸かしているのですが、儘ならないものです」
「医薬師はいないのか?」
族長は眉尻を下げた。
「いない代わりに祈祷師がいます」
ロゼンは肩を竦めた。
「胡散臭いな」
「それでも、ヴェラの民は、祈祷師の儀式で病が治ると信じています」
族長は咳払いを一つ。
「昨日、言われた物を用意しました」
ロゼンは頷いた。
「ああ。早速作るとしよう」
「案内します」
族長が歩き出し、ロゼンは後に続いた。
*
――湖畔の一角に、カイレンが待機していた。
カイレンは振り向き、片膝をついた。
「ze tiralen estal,Kailen nalteal ze tiralen.
(ご用があれば、カイレンに申し付けてください)」
「Kailen,nalteal ze tiralen estal.
(カイレン、楽にしていい)」
カイレンは立ち上がり、ロゼンを一瞥した。
「ロゼン、イエ」
首を傾げるロゼンに、族長が代弁した。
「カイレンも手伝ってくれるようです」
ロゼンは頷き、地面に並べられた物に目を向けた。
使い古された寸胴鍋、鍋をかき混ぜる木製の杓子、獣の骨、蔓で編んだ網、古びた石斧。
「石と薪が必要だな」
族長が聞き返した。
「火を使うのですか?」
ロゼンは右腕を掻いた。
「火は魔法で何とかなる」
「わかりました。手分けして探しましょう」
族長はカイレンに命じた。
「Kailen,nalteal ze tiralen estal.
(カイレン、薪を集めてきてくれ)」
カイレンは頷き、森へ向かって走った。
族長はロゼンに伝えた。
「カイレンには、薪を集めに行ってもらいました」
「族長、石は上が平らな物が三つ必要だ。薪をくべるので、ある程度空間を確保したい」
「わかりました。一緒に探しましょう」
*
――石と薪が集まり、ロゼンが準備を始める。
石を三つ組んで、その中に薪を山型に並べ、その上に水が入った寸胴鍋を置いた。
ロゼンは地面に顔を近づけ、魔法を唱えた。
「灯火よ、薪を静かに燃やせ」
薪に火が点き、煙が上がる。
「これが魔法ですか」
族長は笑い、カイレンは後ろへ飛び退いた。
「Kailen,ze tiralen estal? ze tiralen estal ze Losen nalteal.
(カイレン、見たか? 今のが魔法だ)」
カイレンは地面に顔を近づけ、薪を燃やす火を見て、瞳の奥を輝かせた。
「Kozuchal,Kailen nalteal ze tiralen estal!
(族長、カイレンも魔法を使いたい!)」
ロゼンは網を寸胴鍋に敷き、ちょうどいい長さの枝を鍋に引っ掛け、網が沈まないように固定した。
族長はロゼンに質問を投げかけた。
「僕とカイレンも魔法が使えますか?」
ロゼンは石斧で骨を砕きながら答えた。
「族長は不老の魔法を使っていたんじゃないのか」
「不老の魔法は、詠唱さえ間違えなければ、誰にでも使えるんです。三百年ぶりの客人が来たので、慌てて暗記しました」
砕いた骨を寸胴鍋に入れ、薪をくべる。
ロゼンは火加減を見ながら吐露した。
「魔法について教えることはできない。俺は、あんたらをまだ許せない気持ちが残っている。俺が今こうしているのは、美味い飯を食うためだ」
二人は俯いた。
「申し訳ありません。少し浮かれてしまいました」
「......ゴメン」
二人は気まずそうに顔を見合わせた。
族長は咳払いを一つ。
「そういえば、お腹が空きましたね。ロゼン、何か食べますか?」
ロゼンは鍋を見ながら返事をした。
「ああ」
族長はカイレンに命じた。
「Kailen,nalteal ze tiralen estal.
(カイレン、食事を三人分もらってきてくれ)」
カイレンは頷き、集落へ全速力で走った。
族長はロゼンの背中を見つめた。
しかし、かける言葉が見つからなかった。
*
――鍋の中がぐつぐつと煮え、強烈な獣臭が漂った。
ロゼンは煙で目がやられ、涙目で咳込んだ。
族長は咳込みながら風上へ移動した。
「ロゼン、酷い臭いですが、本当に大丈夫ですか?」
ロゼンは吐き気を堪えながら首を縦に振った。
しかめっ面のカイレンは、族長の隣に並び、手に抱えていた赤い果実を落とした。
激しく咳込みながら涙目で族長に訴える。
「Kozuchal,ze tiralen estal.Losen ze Raven Maiten nalteal.Kozuchal,Kailen nalteal ze tiralen!
(集落まで異臭が漂ってきました。ロゼンは、ヴェラの民を殺すつもりです。族長、カイレンに命じてください!)」
今にも剣を抜こうとするカイレンを族長が宥める。
「ze tiralen estal ze nalteal.Kailen,ze Raven Maiten nalteal ze tiralen.Kailen,Losen nalteal ze tiralen.
(糞尿は発酵させなければ肥料にならない。カイレン、ヴェラの民は失敗から学んでいる。今は、ロゼンを信じて耐えろ)」
ロゼンは薪をくべ、鍋の中身を杓子で軽くかき混ぜる。
ひたすら耐え、その時が来るのを待った。
*
――夕暮れ。
見物人が増え、ヴェラの民を宥めるのに、族長は疲れ果て、座り込んでいた。
鍋の水分は、五分の一ほど蒸発していた。
ロゼンはとろみがついたのを見て、頷いた。
そして、網を一気に引き揚げる。
網の中には砕いた骨が残っていた。
それを地面に置いた。
ヴェラの民は興味深そうに、その様子を見守っている。
やがて、獣臭は食欲をそそる、こってりした匂いへと変わっていった。
族長は鼻をひくつかせた。
「ロゼン、美味しそうな匂いがしますが、完成ですか?」
「いや、まだ煮詰める必要がある」
ロゼンは網の中の骨に目をやった。
「族長、そんなに味が気になるのなら、骨を舐めて味見すればいい。俺は、火加減を調整しているから動けない」
族長は好奇心に駆られ、網を広げて、手頃な骨を摘まんで口に運んだ。
その瞳が潤み――
涙が頬を伝った。
舌の上で骨を転がしながら言葉にした。
「僕は、三百年もの間、この味を忘れていました......。ロゼン、本当にありがとう」
ロゼンは口元を緩めた。
「大袈裟だな」
族長の反応を見て、カイレンも興味本位で骨を口に入れた。
「......ze tiralen estal.ze tiralen estal ze nalteal.ze tiralen estal ze Kailen nalteal.Kailen nalteal ze tiralen estal ze nalteal!
(......骨から味がする。不思議な味だ。ずっと味わっていたい。ロゼンを止めようとした、カイレンが間違っていた!)」
ヴェラの民も骨を手に取り、口に運んだ。
喜怒哀楽――さまざまな反応を見せた。
ついには騒ぎ始める者が現れ、族長が一喝した。
「ze tiralen estal!
(静粛に!)」
ヴェラの民は静まり返った。
族長は咳払いを一つ挟んで、続けた。
「Losen ze Raven Maiten nalteal.ze tiralen estal ze nalteal.Raven Maiten,nalteal ze tiralen estal.
(ロゼンはヴェラの民のために、未知の味を教えてくれた。彼の邪魔をしてはならない。家に帰り、彼に祈りを捧げよ)」
ヴェラの民一同は片膝をつき、口を揃えて言った。
「Samel ze nalteal.
(仰せのままに)」
静かに立ち上がり、集落へ帰る。
カイレンはロゼンに赤い果実を差し出した。
「ロゼン、クエ」
ロゼンは果実を受け取り、にかっと笑った。
「ありがとな、カイレン」
ロゼンは鍋を見つめたまま、毛皮で果実を拭き、口に運んだ。
その様子を見て、カイレンは嬉しそうに笑みを零した。
*
――夜。
ロゼンは、薪の火に土をかけて消火した。
寸胴鍋の内側には、白い粉状の結晶が付着していた。
それを指で拭い、舐めて塩気があることを確認する。
族長がロゼンに声をかけた。
「終わりましたか?」
「ああ。鍋が冷めるのを待って、鍋肌の結晶を削り取れば、調味料として使える」
族長は柔らかく微笑んだ。
「ロゼン、お疲れさまです。ずっと立ちっぱなしで疲れたでしょう。食事にしましょう」
食事が三人分用意されていた。
ロゼンは族長に尋ねた。
「俺が終わるまで待っていてくれたのか?」
族長は首を縦に振った。
「はい。ヴェラの民は家族です。家族は揃って食事をするものです」
カイレンが笑った。
「ロゼン、カゾク」
ロゼンは胸の奥が温かくなった。
「肉料理があるな......」
口の端を釣り上げた。
「調味料が合うか、味見役が三人必要だな」
族長は頷いた。
「そういうことなら味見しないわけにもいきません」
「カイレン、アジミ」
カイレンは言葉の意味を理解していなかったが、二人の表情を見て、何となく察した。
三人の溝がほんの少し埋まった一夜の出来事だった――