ホームハサミが、刻んだ景色。第9話「パリと熊本と彼と私」
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第9話「パリと熊本と彼と私」

12月23日。
パリの夜空に響き渡る歓声と、降り注ぐ黄金色の紙吹雪の中で、宮田弥生は世界最高峰の美容大会「HWC」三連覇を達成した。

フラッシュの嵐。
重厚な金メダル。

そして翌24日には「世界王者としての務め」が待っていた。
公式写真の撮影、各国メディアからのインタビュー、スポンサー行事。
歴代王者たちの手形や署名、愛用のハサミを象ったプレートが飾られる『Hall of Champions』での式典。

どこへ行っても、誰もが彼女を「世界王者・宮田弥生」として扱った。
その賞賛を、弥生は誇らしく、そして誇張することなく真っ直ぐに受け止めていた。


25日。
すべての公式日程を終え、弥生は飛行機に乗った。
十数時間のフライトを経て、日付をまたいだ26日、羽田を経由して熊本空港へと降り立つ。

23日には世界中のカメラが自分を追っていた。
24日には歴史に名を刻む女王だった。
25日は雲の上。
そして26日、手荷物受取所で大きなスーツケースを引きずり、自動ドアをくぐった先――喧騒の向こう側に、一人の男が立っていた。

和彦だった。

大げさな花束も、横断幕もない。
私服姿で、少し寒そうに首をすくめながら到着口を見つめている。

和彦の目は、「世界王者」を探してはいなかった。
ただ、無事に帰ってきた「弥生」を探していた。
視線が合う。弥生が歩み寄ると、和彦は開口一番、静かに笑った。

「おかえり。疲れたろ」

「ただいま」

それだけだった。
順位も、結果も、勝ったかどうかも聞かない。
ただ荷物に手を伸ばし、「重そうだな、持つよ」と自然にスーツケースを引き取る。

弥生の顔色をじっと見て、「元気そうでよかった」と小さく息を吐いた。
和彦にとって重要なのは、世界一の称号ではない。
目の前にいる弥生が、ハサミで手を切ることもなく、怪我もなく、自分の足で無事に熊本へ帰ってきたこと。それだけだった。

助手席に乗り込み、車が空港の駐車場を出る。 車内の暖房がじんわりと身体を温める中、弥生はバッグを探ぐった。

「あ、そうだ。はい、お土産」

差し出されたのは、パリの街角で買ったエッフェル塔のキーホルダーだった。

洗練された美を追求する世界王者が買ってきたとは到底思えない、妙に安っぽい代物だ。
和彦はそれを受け取り、じっくりと眺めてから吹き出した。

「......パリまで行って、これ?」

「悩んだんだからね! 4ユーロのと5ユーロので!」

「そこ悩むところか?」

「あとシールもあるよ」

「いらんて(笑)」

車内にいつもの笑い声が響く。

金メダルの話など一言も出てこない。
けれど弥生は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

やがて、和彦が「どこ行く? 家に直帰でいいか?」とハンドルを切りかけた時、弥生が思いついたように言った。

「ねえ、市役所行きたい」

「は?」
和彦は素で首をかしげた。

「14階」

「えー......俺、今日休み取ったのに職場に行くの?」
あきれ顔で文句を言う和彦に、弥生は「いいじゃん、ちょっとだけ!」と笑う。

和彦は「まあ......いいけどさ」と呟きながら、文句を言いつつも車を市役所へと走らせた。
年末の市役所。
エレベーターに乗り、14階の展望フロアへ上がる。

静かな空間。
ガラス越しに、いつもの熊本の街並みが広がっていた。
車が走り、人々が歩き、遠くの山々に冬の穏やかな光が落ちている。

パリの華やかなステージも、紙吹雪も、フラッシュもない。
ここにあるのは、弥生が明日からまた生きていく、ごく普通の日常だった。

展望窓に寄りかかり、街を見下ろす。

(ああ......帰ってきたな)
胸の中で、世界王者としての自分が静かに解けていくのを感じる。

ここで一度、山を下りる。
世界一の称号は過去の歴史として置いていき、明日からはまた一人の美容師として、目の前のお客さんの髪を切るのだ。

隣で和彦が、ポケットに手を入れたままぼんやりと街を眺めている。
その横顔を見ていて、弥生はふと思った。

この人は、自分が世界一だろうが4位だろうが、美容師として成功していようがいまいが、何も変わらず「弥生」として迎えに来てくれる。
肩書なんて見ていない。
ただ自分という人間と一緒にいてくれる。

(......あ、言おう)
そう思った瞬間だった。

「そうそう。言いたかったことがあったんだ」
弥生が口を開くと同時に、和彦もハッと顔を上げた。

「ん? あ、そういえば俺も言い忘れてた」
ふたりは顔を見合わせた。

「なに?」

「弥生から言えよ」

「いいよ、和彦から」

「じゃあ......」

一瞬だけ、14階の静寂がふたりを包んだ。

和彦が息を吸い、弥生も同時に息を吸う。

「結婚しよう」
「結婚しよう」

空気が凍りついた。

「............」
「............」
数秒の沈黙の後、ふたりの声が同時に裏返った。

「「はぁ!?」」
そこからは、感動的なプロポーズとはほど遠い、くだらない主導権争いだった。

「ちょっと! 私が先に言った!」

「いや、俺だろ! 完全にかぶったけど絶対俺が先だった!」

「私! 私の方がコンマ数秒早かった!」

「俺だって! 俺、車の中で言っても良かったんだぞ! 格好つけさせろよ!」

「なにそれ! 私だって帰国早々、空港で言っても良かったんだよ!」

「普通は男からだろ!」

「えー! 普段そんなこと言わないのに、こういう時だけ男女に差をつけるんだー!」

「違うって! 男として一回くらい格好つけさせてくれって話!」

「私だって格好つけたかったの!」

静かな14階の展望フロアで、休日出勤でもないのに自分の職場へ連れてこられた男と、世界三連覇を果たして帰ってきたばかりの女が、どちらが先にプロポーズしたかで本気の言い合いをしている。

「いつから考えてたんだよ!」と和彦が抗議すると、弥生は少し胸を張って、 「......パリ行く前」 と言った。

和彦は一瞬呆気にとられた顔をして、参ったように頭をかいた。

「......俺もだよ。お前が帰ってくる前からずっと考えてた」
その言葉に、弥生は言葉を詰まらせた。

世界大会へ行く前。
勝つかも負けるかも分からなかった時から、和彦は自分の隣にいる将来を考えていてくれたのだ。

ふと、どちらからともなく可笑しさがこみ上げてきた。

「......ははは」
「......ふふっ、なにそれ」

ふたりは声を合わせて笑い出した。

指輪もない。
花束もない。
片膝をつくロマンチックな演出も、感動の涙もない。
結局、どちらが申し込んで、どちらが受けたのかすら分からない。

「で、指輪はどうすんの?」と弥生が笑いながら尋ねると、和彦は至極当然といった顔で答えた。

「今度、一緒に見に行こう」

「選んでくれないの?」

「だって、ずっと着けるの弥生だろ。俺が勝手に決めて変なデザイン買ったら嫌だろ。高いの買って『これ嫌い』って言われたら俺立ち直れんし」

「言わないよ(笑)」

「じゃあ一緒に行こう。それが一番確実だ」

どこまでも水平で、飾らない言葉。
世界の頂点に立った宮田弥生が選んだのは、自分を「世界王者」として崇め奉る王子様ではなく、自分の歩幅に合わせて一緒に笑って歩いてくれる、この男だった。

14階の窓の外には、冬の熊本の街が優しく広がっている。

世界三連覇の余韻は、熊本空港の自動ドアと、5ユーロのダサいキーホルダーと、この14階の騒がしいプロポーズの中へ、ゆっくりと溶けていった。

「......よし、帰るか」

「うん。お腹空いた」

「休み取ったのに職場来て、プロポーズ横取りされて、俺はカッコ悪すぎる」

「文句言わないの。で、何食べに行く?」

車に乗り込み、和彦がエンジンをかけながら腕を組んだ。

「そうだなあ......よし、ビーフシチュー!」

「昨日までフランスいたのに?」

「あれ? ビーフシチューってロシア料理だろ?」

「フランス料理だね(笑)」

「じゃあ魚介ブイヤベースでワインで乾杯!」

「ん〜、フランスだね〜」
和彦のいい加減な知ったかぶりに、弥生は呆れ顔で声を張り上げた。

「もう! フランス料理から離れなさいよ!」

「なんだよ、せっかく奮発しようと思ったのに!」

「もういいよ。いつものレストランで!......」

「分かったよ! 好きなだけ食え」

「そんなに沢山は食べられないわよ!」
ふたりは車内でお腹を抱えて笑った。

世界大会で三連覇を果たし、昨日までパリの最高峰の文化に触れていた女性が、帰国後に選んだのは高級ディナーではなく、地元にある「いつものファミレス」だった。

「帰国祝いだ。馳走するよ」

「パフェも頼んでいい?」

「帰国祝いだからいいよ」

案内されたボックス席。和彦がハンバーグ定食を注文し、弥生はオムライスを注文し食後にチョコレートパフェをひとつだけ頼んだ。

やがて運ばれてきたパフェを前に、弥生はふと手を止めた。

グラスの中に重ねられた生クリーム、アイスクリーム、チョコソース、そして一番上にちょこんと乗った真っ赤なチェリー。

(......昔、デザート睨んでたっけ)

25歳のあの日。世界へ向かう手がかりを探して、店のテーブルにデザートを並べ、食べもせずにじっと観察していた。
なぜ写真と実物では違って見えるのか、光はどう落ちているのか、立体とは何なのか。

あの頃のパフェは、自分を世界の頂点へ突き動かすための「解読すべき研究対象」だった。

それから世界へ行き、敗北を知り、もがき、研究を重ね、とうとう世界一に登りつめた。
そして今、目の前にあるのは――。


「なんだよ、食べないの?溶けるぞ」
ハンバーグを頬張りながら、和彦が不思議そうに覗き込んでくる。

「食べるよ」

弥生はスプーンを伸ばし、アイスクリームを一口すくった。口の中に甘さが広がる。
今のパフェは、もう戦うための素材ではない。
大好きな男と、くだらない喧嘩をして笑い合った後に食べる、ただの美味しいデザートだった。

「帰国祝いなんだから三杯くらい食えよ」

「帰国とパフェの数、関係ないでしょ」

弥生はくすりと笑い、チェリーを口に運んだ。
あの日から何ひとつ変わっていない、いつもの甘い味覚。

世界一になった夜の豪華なバンケットより、熊本へ帰ってきて和彦と食べたこの一杯のパフェの味を、弥生は何十年経っても忘れないのだろう。

世界三連覇の余韻は、熊本空港の自動ドアと、5ユーロのダサいキーホルダーと、14階のプロポーズ、そしていつものレストランのパフェの中に、綺麗に溶けて消えていった。



第9話 完
第10話へつづく
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ハサミが、刻んだ景色。作者:夏目六華
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第9話「パリと熊本と彼と私」

12月23日。
パリの夜空に響き渡る歓声と、降り注ぐ黄金色の紙吹雪の中で、宮田弥生は世界最高峰の美容大会「HWC」三連覇を達成した。

フラッシュの嵐。
重厚な金メダル。

そして翌24日には「世界王者としての務め」が待っていた。
公式写真の撮影、各国メディアからのインタビュー、スポンサー行事。
歴代王者たちの手形や署名、愛用のハサミを象ったプレートが飾られる『Hall of Champions』での式典。

どこへ行っても、誰もが彼女を「世界王者・宮田弥生」として扱った。
その賞賛を、弥生は誇らしく、そして誇張することなく真っ直ぐに受け止めていた。


25日。
すべての公式日程を終え、弥生は飛行機に乗った。
十数時間のフライトを経て、日付をまたいだ26日、羽田を経由して熊本空港へと降り立つ。

23日には世界中のカメラが自分を追っていた。
24日には歴史に名を刻む女王だった。
25日は雲の上。
そして26日、手荷物受取所で大きなスーツケースを引きずり、自動ドアをくぐった先――喧騒の向こう側に、一人の男が立っていた。

和彦だった。

大げさな花束も、横断幕もない。
私服姿で、少し寒そうに首をすくめながら到着口を見つめている。

和彦の目は、「世界王者」を探してはいなかった。
ただ、無事に帰ってきた「弥生」を探していた。
視線が合う。弥生が歩み寄ると、和彦は開口一番、静かに笑った。

「おかえり。疲れたろ」

「ただいま」

それだけだった。
順位も、結果も、勝ったかどうかも聞かない。
ただ荷物に手を伸ばし、「重そうだな、持つよ」と自然にスーツケースを引き取る。

弥生の顔色をじっと見て、「元気そうでよかった」と小さく息を吐いた。
和彦にとって重要なのは、世界一の称号ではない。
目の前にいる弥生が、ハサミで手を切ることもなく、怪我もなく、自分の足で無事に熊本へ帰ってきたこと。それだけだった。

助手席に乗り込み、車が空港の駐車場を出る。 車内の暖房がじんわりと身体を温める中、弥生はバッグを探ぐった。

「あ、そうだ。はい、お土産」

差し出されたのは、パリの街角で買ったエッフェル塔のキーホルダーだった。

洗練された美を追求する世界王者が買ってきたとは到底思えない、妙に安っぽい代物だ。
和彦はそれを受け取り、じっくりと眺めてから吹き出した。

「......パリまで行って、これ?」

「悩んだんだからね! 4ユーロのと5ユーロので!」

「そこ悩むところか?」

「あとシールもあるよ」

「いらんて(笑)」

車内にいつもの笑い声が響く。

金メダルの話など一言も出てこない。
けれど弥生は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

やがて、和彦が「どこ行く? 家に直帰でいいか?」とハンドルを切りかけた時、弥生が思いついたように言った。

「ねえ、市役所行きたい」

「は?」
和彦は素で首をかしげた。

「14階」

「えー......俺、今日休み取ったのに職場に行くの?」
あきれ顔で文句を言う和彦に、弥生は「いいじゃん、ちょっとだけ!」と笑う。

和彦は「まあ......いいけどさ」と呟きながら、文句を言いつつも車を市役所へと走らせた。
年末の市役所。
エレベーターに乗り、14階の展望フロアへ上がる。

静かな空間。
ガラス越しに、いつもの熊本の街並みが広がっていた。
車が走り、人々が歩き、遠くの山々に冬の穏やかな光が落ちている。

パリの華やかなステージも、紙吹雪も、フラッシュもない。
ここにあるのは、弥生が明日からまた生きていく、ごく普通の日常だった。

展望窓に寄りかかり、街を見下ろす。

(ああ......帰ってきたな)
胸の中で、世界王者としての自分が静かに解けていくのを感じる。

ここで一度、山を下りる。
世界一の称号は過去の歴史として置いていき、明日からはまた一人の美容師として、目の前のお客さんの髪を切るのだ。

隣で和彦が、ポケットに手を入れたままぼんやりと街を眺めている。
その横顔を見ていて、弥生はふと思った。

この人は、自分が世界一だろうが4位だろうが、美容師として成功していようがいまいが、何も変わらず「弥生」として迎えに来てくれる。
肩書なんて見ていない。
ただ自分という人間と一緒にいてくれる。

(......あ、言おう)
そう思った瞬間だった。

「そうそう。言いたかったことがあったんだ」
弥生が口を開くと同時に、和彦もハッと顔を上げた。

「ん? あ、そういえば俺も言い忘れてた」
ふたりは顔を見合わせた。

「なに?」

「弥生から言えよ」

「いいよ、和彦から」

「じゃあ......」

一瞬だけ、14階の静寂がふたりを包んだ。

和彦が息を吸い、弥生も同時に息を吸う。

「結婚しよう」
「結婚しよう」

空気が凍りついた。

「............」
「............」
数秒の沈黙の後、ふたりの声が同時に裏返った。

「「はぁ!?」」
そこからは、感動的なプロポーズとはほど遠い、くだらない主導権争いだった。

「ちょっと! 私が先に言った!」

「いや、俺だろ! 完全にかぶったけど絶対俺が先だった!」

「私! 私の方がコンマ数秒早かった!」

「俺だって! 俺、車の中で言っても良かったんだぞ! 格好つけさせろよ!」

「なにそれ! 私だって帰国早々、空港で言っても良かったんだよ!」

「普通は男からだろ!」

「えー! 普段そんなこと言わないのに、こういう時だけ男女に差をつけるんだー!」

「違うって! 男として一回くらい格好つけさせてくれって話!」

「私だって格好つけたかったの!」

静かな14階の展望フロアで、休日出勤でもないのに自分の職場へ連れてこられた男と、世界三連覇を果たして帰ってきたばかりの女が、どちらが先にプロポーズしたかで本気の言い合いをしている。

「いつから考えてたんだよ!」と和彦が抗議すると、弥生は少し胸を張って、 「......パリ行く前」 と言った。

和彦は一瞬呆気にとられた顔をして、参ったように頭をかいた。

「......俺もだよ。お前が帰ってくる前からずっと考えてた」
その言葉に、弥生は言葉を詰まらせた。

世界大会へ行く前。
勝つかも負けるかも分からなかった時から、和彦は自分の隣にいる将来を考えていてくれたのだ。

ふと、どちらからともなく可笑しさがこみ上げてきた。

「......ははは」
「......ふふっ、なにそれ」

ふたりは声を合わせて笑い出した。

指輪もない。
花束もない。
片膝をつくロマンチックな演出も、感動の涙もない。
結局、どちらが申し込んで、どちらが受けたのかすら分からない。

「で、指輪はどうすんの?」と弥生が笑いながら尋ねると、和彦は至極当然といった顔で答えた。

「今度、一緒に見に行こう」

「選んでくれないの?」

「だって、ずっと着けるの弥生だろ。俺が勝手に決めて変なデザイン買ったら嫌だろ。高いの買って『これ嫌い』って言われたら俺立ち直れんし」

「言わないよ(笑)」

「じゃあ一緒に行こう。それが一番確実だ」

どこまでも水平で、飾らない言葉。
世界の頂点に立った宮田弥生が選んだのは、自分を「世界王者」として崇め奉る王子様ではなく、自分の歩幅に合わせて一緒に笑って歩いてくれる、この男だった。

14階の窓の外には、冬の熊本の街が優しく広がっている。

世界三連覇の余韻は、熊本空港の自動ドアと、5ユーロのダサいキーホルダーと、この14階の騒がしいプロポーズの中へ、ゆっくりと溶けていった。

「......よし、帰るか」

「うん。お腹空いた」

「休み取ったのに職場来て、プロポーズ横取りされて、俺はカッコ悪すぎる」

「文句言わないの。で、何食べに行く?」

車に乗り込み、和彦がエンジンをかけながら腕を組んだ。

「そうだなあ......よし、ビーフシチュー!」

「昨日までフランスいたのに?」

「あれ? ビーフシチューってロシア料理だろ?」

「フランス料理だね(笑)」

「じゃあ魚介ブイヤベースでワインで乾杯!」

「ん〜、フランスだね〜」
和彦のいい加減な知ったかぶりに、弥生は呆れ顔で声を張り上げた。

「もう! フランス料理から離れなさいよ!」

「なんだよ、せっかく奮発しようと思ったのに!」

「もういいよ。いつものレストランで!......」

「分かったよ! 好きなだけ食え」

「そんなに沢山は食べられないわよ!」
ふたりは車内でお腹を抱えて笑った。

世界大会で三連覇を果たし、昨日までパリの最高峰の文化に触れていた女性が、帰国後に選んだのは高級ディナーではなく、地元にある「いつものファミレス」だった。

「帰国祝いだ。馳走するよ」

「パフェも頼んでいい?」

「帰国祝いだからいいよ」

案内されたボックス席。和彦がハンバーグ定食を注文し、弥生はオムライスを注文し食後にチョコレートパフェをひとつだけ頼んだ。

やがて運ばれてきたパフェを前に、弥生はふと手を止めた。

グラスの中に重ねられた生クリーム、アイスクリーム、チョコソース、そして一番上にちょこんと乗った真っ赤なチェリー。

(......昔、デザート睨んでたっけ)

25歳のあの日。世界へ向かう手がかりを探して、店のテーブルにデザートを並べ、食べもせずにじっと観察していた。
なぜ写真と実物では違って見えるのか、光はどう落ちているのか、立体とは何なのか。

あの頃のパフェは、自分を世界の頂点へ突き動かすための「解読すべき研究対象」だった。

それから世界へ行き、敗北を知り、もがき、研究を重ね、とうとう世界一に登りつめた。
そして今、目の前にあるのは――。


「なんだよ、食べないの?溶けるぞ」
ハンバーグを頬張りながら、和彦が不思議そうに覗き込んでくる。

「食べるよ」

弥生はスプーンを伸ばし、アイスクリームを一口すくった。口の中に甘さが広がる。
今のパフェは、もう戦うための素材ではない。
大好きな男と、くだらない喧嘩をして笑い合った後に食べる、ただの美味しいデザートだった。

「帰国祝いなんだから三杯くらい食えよ」

「帰国とパフェの数、関係ないでしょ」

弥生はくすりと笑い、チェリーを口に運んだ。
あの日から何ひとつ変わっていない、いつもの甘い味覚。

世界一になった夜の豪華なバンケットより、熊本へ帰ってきて和彦と食べたこの一杯のパフェの味を、弥生は何十年経っても忘れないのだろう。

世界三連覇の余韻は、熊本空港の自動ドアと、5ユーロのダサいキーホルダーと、14階のプロポーズ、そしていつものレストランのパフェの中に、綺麗に溶けて消えていった。



第9話 完
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ハサミが、刻んだ景色。作者:夏目六華
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