第一章(伍):闇に焼かれ、光に縋る *
夜の帳が降りる前の、爽やかな風と、穏やかな陽光が差し込む昼下がり。
天界の最高神が座する神座には、いつものように完璧で冷徹な天神・玄霄の姿があった。
あの狂おしい夜が明けたというのに、彼の黄金の双眸には一分の乱れもない。
純白の神殿にひと柱で佇み、まるで何事もなかったかのように世界の理の流転を見つめていた。
だが、その視線の端――この広大な天界のあちこちに目を向ければ、世界を形作る神々の気配に明らかな変化が生じていることは、玄霄とて見逃していなかった。
星神・辰星の神殿から、かつてのような穏やかな星の巡りが消え失せ、底知れぬ怒りと冷気が澱のように漂っていること。
地神・翠嶺が、崩れかけた理を修復しようと奔走し、あわただしく神威を行き交わせていること。
――彼らが何に怒り、何を企み、どこへ向かおうとしているのか。
玄霄は未来視の眼を使うまでもなく、すべてを正確に把握していた。
星神が奪還の機会を窺っていることも、地神がこの異変に戸惑い、動揺していることも。
すべては彼の計算の内、あるいは「支払うべき代償」に過ぎなかった。
好き勝手に動くがいい。――あのひかりは、もう誰にも渡さない。
夜の巡りも、世界の支えも。
その代償は、すべて我が払う。
辰星がどれほど牙を研ごうとも、世界がどれほど歪もうとも、一度手に入れた銀のひかりを放つつもりなど毛頭ない。
そう、玄霄は冷たく微笑み、辰星たちの気配を視界の隅で切り捨てた。
その思考の片隅にある月神の神域を襲い、皓月をこの手元に閉じ込めたことで生じるはずの「夜の巡り」の空白――それについても、玄霄の計算は狂っていなかった。
彼はいまだ若く、小さな銀のひかりとして出会った頃を思わせる皓月に、世界を巡る負担など一切負わせるつもりはなかった。
下界の夜を保つため、彼は自らの冷徹な神威を夜空に張り巡らせ、本来なら月神の仕事である夜の巡りを完璧に代行・強制執行していた。
世界を欺き、理をねじ曲げ、すべてを自分の腕の中に収めながら。
一方その頃、神殿の奥――。
昼の光が届かない深い一室では、奪い取られた月神・皓月が、夜の訪れを静かに待っていた。
昼の間に逃げ出そうにも天神の神威は天神の領域をすべてくまなく覆いつくしていて、皓月が一歩宮の外へ出ようものならすぐに彼が飛んでくる。
運よく見つからなかったとしても、逃げ切れるのは領域の端までだ。
それに、一度見つかってからは薄布一枚しか身に着けるものを許されずにいる。
どうあっても逃げ出すことなどできそうもなかった。
それでも。
「囚われの身」でありながら、昼の間に玄霄が世界をどうねじ伏せているのかを、皓月もまた肌で感じ取っていた。
星神の怒りも、世界に走る亀裂も、すべてはあの男が自らの両腕で受け止め、封じ込めている。
冷酷で、傲慢で、世界を敵に回すことを恐れぬ大罪人。
なのに、あれほど冷徹だったはずの黄金の瞳の奥には、いつだって自分を壊してしまうほどの狂おしい執着が焼き付いている。
(......この男は、本気だ)
星神の隣で星を産むはずだった未来を自らの手で粉々に砕き、世界が破滅しようとも月の神をその腕に縛り付けると決めた。
そのあまりに重く、狂った愛の形に、月神としての誇りが怒りを覚える一方で――その中心に置かれている自分が、どうしようもなく逃れられなくなっていることを、皓月はもう隠せなかった。
やがて、太陽が沈み、容赦のない夜の帳が再び神域を覆い隠す。
神々の気配が遠のき、世界が静寂に包まれたその瞬間――。
逃れられない密室の中で、夜の残酷な儀式が幕を開けた。
荒れ狂う神威の嵐がピタリと止み、夜の帳が静寂を運んでくると同時に、玄霄は皓月を強く抱き寄せる。
皓月が辰星との結びつきを断ち切られ、その腕へと閉じ込められたあの夜から、夜の訪れはそのまま「終わらない罰」へと変わった。
夜が訪れるたび、玄霄は皓月を離さない。
まるでこの世界に二柱しかいなくなったかのように、執拗に、壊れ物を扱うような、それでいてすべてを独占せずにはいられないような熱量で。
けれど、そうするたびに――予期していた通りに玄霄の肉体は、その魂は深淵の業に蝕まれていく。
「っ......がっ......グ、ゥ......!」
夜の営みの果て、玄霄の口元から鮮血が零れ落ちる。
闇の古き神々の呪詛。
その業は、幾度夜を超えても彼の魂を容赦なく苛む。
最初の夜、彼こそが皓月を穢しているはずなのに、皓月を拒絶していた玄霄はいまや拒絶の言葉を紡がない。
崩れそうになる体を隠すように、皓月の薄い柔らかな衣に顔を埋め、まるで縋るようにその腕の中へと倒れ込んでいくようになった。
かそけきひかりと認識して何より失えぬと、そう思う存在に、玄霄は救いを求めていた。
あまりにも身勝手で、あまりにも不器用な姿。
(ざまあみろ...)
縋りつかれながら皓月はいつものようにそう思う。
なのに――いつからだろう。
憎むべき奪い手で、この世界の理を乱した大罪人。
放っておけばいい。
このまま苦しみ果てて、消えてしまえばいい。
そう理性が叫んでいるというのに――。
「......っ、本当に、どうしようもない男だ......っ!」
震える背中に回した皓月の指先は、今日もまた、彼の傷ついた魂を癒やすように柔らかく眩い銀のひかりを滲ませていた。
奪われるたびに傷つき、傷つくたびに光を求め、二柱は互いの体温と狂気を分け合うようにして夜を重ねていく。
それは救いか、それとも破滅への道連れか。
答えなど出ないまま、切なさと甘い澱みに満ちた夜が、今日も静かに彼らを呑み込んでいく。