4.お役に立つのなら
「え?」
ばっと顔を上げた美也子の目前に、昇二の顔があった。吐息が絡むくらい、近い距離。男性の顔をこんな距離で眺めたことのない美也子は、顔を赤くする。
「教師になりたいんだろう?」
間近で問われた美也子は、恥ずかしさも相まって、コクコクと首を縦に振ることしかできなかった。昇二は顔色を変えることなく、美也子に淡々と語りかける。
「なら、もっと広い視野を持ちなさい。これからの時代の教育者になるなら、諸外国の人間と対等に渡り合える知識と教養を身に着けるべきだ。津田梅子女史のように」
喋る度に、昇二の息が顔にかかる。何か大切なことを伝えられているのに、昇二の吐息に気を取られて話が全く頭に入ってこない。
自身の尊敬する女性の名を出されているというのに。
美也子は恥ずかしさのあまり、思わず昇二の胸板を押した。
「は、離れてください!」
腕を突っ張って距離を取って、はたと気づいた。
体に触れてしまっている。
「も、申し訳ありません!」
慌てて引っ込めようとした手を昇二が、がしっと掴んだ。そして、再び顔を近づける。
「俺への要求は、それだけですか? 跳ねっ返りのお嬢様?」
半分小ばかにしたような物言い。美也子はカチンときた。
「もう一つございます!」
顔を真っ赤にしながらも、美也子は昇二をにらみつける。ほう、と楽しそうに息を吐く昇二に、息を吹き付けるように、美也子は宣言した。
「わたくしに、女を求めないでください!」
「女?」
器用に眉を上げて驚きを表す昇二に、半ば怒鳴るような口調で美也子は答える。
「ええ! わたくしたちは政略結婚です。情を交わす必要はありません。良き妻になることはお約束いたします。しかし子を成して育てることはいたしません。お二号さんにお願いしてくださいませ!」
「二号!」
昇二が噴き出した。その瞬間、美也子を拘束していた腕の力が緩む。その隙に、美也子は手を振り払い、ざざっと後ずさる。その様子がまた面白かったのか、昇二は更に笑いを重ねた。
「な、なにがそんなにおかしいのですか」
さすがに不快になった美也子が、問いただす。
「面と向かって妾腹と当て擦られたのは、初めてだ!」
美也子の顔から、さぁ、と血の気が引いた。怒りに任せて、勢いで言葉を放ってしまったのだ。昇二に指摘され、初めて失言に気づいた。
「そ、そんなつもりじゃあ......」
顔を赤くしたり青くしたりと忙しい美也子を、昇二は慰めるつもりはないようだ。
言葉を探し、おろおろとしている美也子を眺めながら、昇二はククッと笑いを漏らす。
更に動揺する美也子をひとしきり観賞した昇二は、やっと笑いを収めた。
直後、顔が変わるのはさすがというべきか。昇二は冷徹な表情に戻って、淡々と告げた。
「いいのか。松平の血が途絶えても」
もっと恐ろしいことを言われると思ったのに。拍子抜けするくらい当たり前のことを確認された美也子も、ようやく胸を撫で下ろして、いつもの無表情に戻った。
「問題ございません」
「血筋は華族様にとって、一番大切なものだろう?」
昇二の声には、自身の出自を嘲っていた。が、美也子は動じない。淡々と事実を口にするだけ。
「兄が家を捨てた以上、純粋な松平の血筋は、既に途絶えていますわ。それに」
「それに?」
「家を存続させるため、というならば、相応の人間を養子に貰えばいいだけ。外でお作りになった子でも、松平の家に相応しいのであれば、家督を継がせば良い。わたくしはそう考えています」
「随分、斬新な考えだ。が......」
昇二は、ニヤリと笑う。
「悪くない」
そして、胸を見せるように両腕を広げた。その仕草は何かの本に描かれていた、アメリカの有名な大統領が演説の際に腕を大きく広げて、民衆に語りかけている姿に似ていた。
「約束しよう。君に女を求めないし、女子大学校へ通う資金を調達する。その代わり、俺の人生の邪魔はしないで頂くと誓ってもらおうか」
「役に立つ、の言い間違いでは?」
生意気な言い方だ。だが昇二は問題にしないはず。案の定、彼は笑みを深めただけだった。
「願いを叶えてくださるのなら。わたくしも誓いますわ。あなた様が求める、完璧な正妻で居続けることを」
「大きく出たものだな」
昇二は面白そうに美也子を見下した。一見すると冷笑に見えるが、目の奥は笑っていた。
(こんな風に笑うことが出来る方......なのですね)
美也子には、少しだけ意外だった。
表情筋を動かしているだけの昇二の笑みは、どことなく演じているように見えて、嘘っぽい印象だった。
しかし昇二の瞳の奥が揺らぐその時だけは、頑なに隠している昇二の心がむき出しになるのだ。
次男坊としての憤りを見せた際もそうだった。秘めている心の内がチラリと見える度に、昇二が取り繕っている部分を無理やり見せつけられて、美也子は戸惑ってしまう。
声をかけるべきか、かけないべきか。
美也子が悩んでいる間に、昇二はくるりと踵を返した。
「さて、そろそろお暇しよう。明日はまた船の上なんだ」
「今度はどちらまで?」
問いかけたのは、ほんの気まぐれ。答えなど期待していなかったのに、昇二はわざわざ足を止め、振り返った。
「ニューヨークまで。戻ってくるのは、二か月後だ」
「そうですか。お体にお気をつけて、いってらっしゃいませ」
美也子が発した一言に、昇二はなぜか、目を大きく見開いた。話の流れで言ったに過ぎない言葉への過剰ともとれる反応に、美也子は驚く。
「わたくし、失礼なことを申し上げましたか?」
「いや......。何でもない」
昇二は口元を隠すように片手で覆うと、美也子に聞こえるか聞こえないかくらいの声量でポツリと呟いたのだ。
「行ってきます」
と。